一方、西の道から楚陣へ向かっていた章邯は、夜の暗闇に鼓と喊の声が響くのを聞いた。
「蘇角の攻撃が始まったな」
打合せ通りの頃合いであったことを思えば、こう誤解してしまったのも無理はない。
蘇角に呼応すべく、章邯は兵を率いて楚陣へ急いだ。
そのとき。
突然、至近距離で鼓の声が起こった。
あたりから楚軍が潮の湧くように現れ、攻め込んできたのである。
完全に予想外の攻撃を受け、秦の兵は乱れ騒ぎ、我先にと逃げ出した。
章邯は額に汗を浮かべて歯噛みした。
「これは……はめられたか!」
軍隊にとって最も忌むべきもの、それは混乱である。
大軍の力はすさまじいものだが、それだけに、一度乱れると取り返しがつかなくなる。何千何万もの人間が、それぞれ恐怖に駆られて好き勝手に動き回るさまを想像してみればよい。
そんな状態で敵と戦うことなど不可能だし、安全地帯へ逃げて落ち着かせてやらない限り統率を取り戻すことも難しい。
章邯はさすがに歴戦の大将であった。これ以上の無理押しは無益と素早く見極め、味方を逃がすために自ら後陣に回って、楚の追撃を防ぎにかかった。
そこへ楚の大将英布が一軍を率いて襲いかかった。
かたや楚軍においては項羽に継ぐ豪傑英布。こなた大国秦の名将章邯。両者互角の戦いは、50余合に及ぶも勝負決せず。
そうこうするうちに、項羽の大軍までもが参戦してきた。
ただでさえ秦軍劣勢のところへ、この強烈極まる増援である。ついに支えきれなくなり、章邯の手勢は散々に打ち破られて絶体絶命の危機に陥った。
と、この窮地に一手の軍勢が駆けつけ、乱戦の中から章邯を救い出した。秦の大将、猛防の軍である。
なんとか一命をとりとめた章邯であったが、いまだ危機は去ってはいない。
楚軍は勢いに任せてさらに前進してくる。火を散らすような激戦の中で、猛防も桓楚に討ち取られてしまった。
章邯は肝を冷やし、西を目指して敗走しはじめた。
その姿を見つけた桓楚は、
「あそこに良い獲物がおるわ!」
と、飛ぶが如くに追いかけた。
もうすっかり日も昇っている。長時間に及ぶ戦いで、章邯は人馬ともに飢え疲れ、戦う力も残っていない。ただ命を繋ぐことだけを念じて、後ろも見ずに馬を走らせ続けた。
と、小高い堤を越えようとしたところで、馬がつまづき転んでしまった。
背から地面に打ち付けられ、苦しみうめく章邯。
「その首いただくぞ、章邯!」
桓楚が槍を振り上げ、猛然と馬を飛ばしてくる。
「もうダメだ!」
と諦めかけたその時、またしても山間から救援が現れた。秦の大将韓章の軍である。
韓章は桓楚に挑みかかり、章邯を助けて帰還しようと奮戦した。
そこへ、楚将于英が合流した。さらには項羽率いる大軍までもが攻めかかってきた。
韓章一人の手勢で戦えるものではない。韓章はおびただしい数の兵を討たれ、章邯とともに命からがら秦の大将李遇の陣へ逃げ込んだのだった。
*
項羽は、李遇の陣を前にして、ピタリと追撃の手を止めた。
「さすがに秦軍も、いいところに陣を構えているな。
あの要害に軽々しく攻め込んだら、こちらの損害もかなり大きくなるぞ」
そこで項羽は、まず全軍に休息をとらせた。
兵に兵糧を使わせ、自分も食事を取っているうちに、はや陽は西に傾き始めた。
そこへ、軍師范増がひそかにやってきた。
「秦兵はみな高陽の堤の下に陣取っております。
私が推量するに、我らが夜討ちしてくるのを恐れておるのでしょう。本陣の中には人員を置かず、ことごとく陣外に伏兵して、攻め込んできた者を包囲する……そんな考えに違いない。
この計略を逆利用して策を用いれば、章邯を生け捕りにできますぞ」
項羽はニヤリと笑みを浮かべた。
「先生、また何かいいことを考えたな?」
范増が、にこやかにうなずく。
「ああ、考えたとも。
まず項羽将軍、そなたはみずから兵を率いて秦の本陣に向かい、鼓を鳴らし銅鑼を打って、攻めかかるふうに装うのだ。
このとき、敵の伏兵が通るであろう道へ、ひそかに二手の精兵を置いておく。
伏兵が現れたら逆にこれを奇襲して打ち破り、その後、勝ちの勢いに乗って三方向から追撃を仕掛けたならば、秦勢はただの一人も生き残れまいよ」
項羽は、
「それで行こう!」
と喜び、ひそかに大将たちを呼び寄せた。
英布は1万騎で南の道から。
桓楚も1万騎で北の道から。
テキパキと指示を飛ばすと、項羽自身は3万騎にて、中央の道から秦陣に押し寄せていった。
*
一方そのころ、章邯は秦の敗軍を集め、李遇、韓章ら大将たちと軍議を行っていた。
「楚軍は連日の勝利で勢いに乗っている。となれば、きっと今夜も夜襲を仕掛けてくるだろう。
そこで、李遇は5千騎で南の堤の下へ、韓章は5千騎で北の堤の下へ埋伏せよ。楚軍が来たら、隊列の途中を攻めて前後に分断するのだ。
わしは司馬欣らと本陣の後方に伏せる。三方向から取り囲んで、たちまち項羽を生け捕りにしてやるぞ!」
*
その夜の初更(午後8時ごろ)――
英布、桓楚の軍は、みな枚を噛み、南北に分かれてひそやかに出陣した。
項羽は中央の道から秦本陣を目指し、50里ほど進んだところで、鼓を鳴らし銅鑼を叩き、おびただしい数の鉄砲を炸裂させて喊の声をあげた。
これを聞いた章邯は、
「よし、来おったな」
と、ほくそ笑んで打って出た。
が、そこへ、敵を分断しに行ったはずの李遇と韓章がボロボロの状態で逃げ帰ってきた。
「南北の伏兵はみんな楚軍に破られました!」
「なんだと!」
章邯はいっぺんに顔色を失った。
奇襲を仕掛けるはずの伏兵が逆に奇襲されて壊滅するようでは、計画は完全に破綻である。
しかも今、正面には項羽の軍勢が攻めこんできている。
とりあえず項羽の攻撃を防がねば! と号令を飛ばそうとしたその時、無限に思えるほど莫大な数の楚兵が、新たに南北から攻めこんできた。英布と桓楚の部隊であった。
秦軍は大混乱に陥った。章邯の号令など、もはや誰の耳にも響かない。兵卒は陣屋を捨てて、我先にと逃げ出した。
項羽は南北の味方が勝ったのを見て、
「俺も行くぞ!」
とばかり人馬を駆り立て、乱戦の中へ飛び込んだ。
敗走する秦軍を夜通し追い回し、20里ほども進んだところで、趙の城が見え始めた。
*
趙の城内にも鼓と喊の声は届いた。
「項羽が救援に来たのではないか?」
大将の張耳と陳余が矢倉に登ってみれば、はたして、楚の軍勢が秦軍を散々に駆け破っている。
「ついに……ついに来てくれたか!
城門開け! 好機だ、我らも打って出るぞ!」
張耳率いる趙軍が、雪崩うって城から飛び出し、敗走する秦軍へ攻撃をしかけた。
ただでさえ秦全軍ズタズタに引き裂かれていたところへ、恨み骨髄の趙軍までもが咬みついてきたのだからたまらない。
章邯はいよいよ混乱し、前後を顧みることさえできぬまま、わずか5、6騎のみを率いて逃げだした。
これを見つけた英布は、
「逃がすものかっ」
と一軍を率いて追走した。
必死に逃げ走る章邯。容赦なく猛追する英布。
追いつ追われつ城の東門前まで来たとき、近くの陣営から秦の大将、章平が出撃した。
総大将章邯を救うべく、章平は英布に戦いを挑む。
両者刃を交えること30合あまり。
豪傑英布が相手では分の悪い勝負だったが、もとより章平には勝つ気がなかった。章邯を逃がすための時間稼ぎができればそれでよかったのだ。
狙い通り章邯が窮地を脱したのを見ると、章平は戦いを切り上げ、章邯を助けつつ曲陽の小道から逃走を始めた。
無論、英布も後を追う。
しかし、章平の時間稼ぎがここで活きた。秦の大将周熊、王官が一軍を率いて救援に現れたのである。
「ちっ……これ以上の深追いは危険か」
あと一歩のところで大将首を上げそこなった英布は、不承不承ひきかえし、桓楚と合流して項羽へ報告しに行った。
*
かくして、鉅鹿の戦いは楚軍の大勝利に終わった。
城を囲んでいた秦勢が一斉に退きあげていくのを見て、趙王歇は深く安堵の溜息をついた。
窮鳥の籠を出たる思い――追い詰められた鳥が狭い籠から解き放たれたような心情とは、まさにこのことであった。
「項羽を城中に迎え入れよ。それから、楚の人馬にも十分な労いをな」
趙王歇は、すぐさま大将張耳・陳余に命じて、城外に盛大な酒宴の用意を整えさせた。
だが、項羽はこの申し出をきっぱりと断った。
「いや、まだ城に入るわけにはいかない。
章邯が敗走した今、この勢いに乗ってただちに秦の地へ攻め入り、ことごとく根を絶たねばならん。
もし城中に入って日を送れば、その間に章邯はまた気力を取り戻す。すぐに打ち破るのが難しくなる」
項羽は季布、鍾離昧の二人に20万の軍勢を与え、護衛として趙の城外に陣取らせた。
さらに、生け捕った秦の大将王離・渉間を斬って軍神への生贄とし、みずからは30万騎でまた章邯を追いかけていった。
(つづく)
■次回予告■
他を寄せつけぬ無双の強さで連勝を重ねる神武の項羽。一方敗れた章邯は、この劣勢を覆すべく秦本国へ救援を請う。
だが章邯はまだ知らぬ。栄華に溺れた都にて、私利を貪る奸臣の馬鹿げた陰謀が進んでいたことを。忠勤武功すべて否定され進退窮まるその時、函谷関に武人の慟哭が木霊する。
次回「龍虎戦記」第十回
『馬か? 鹿か?』
乞う、ご期待!