龍虎戦記 項羽vs劉邦【翻案・通俗漢楚軍談】   作:外清内ダク

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七十の甲 九里山十面埋伏

 

 

 劉邦(ひき)いる漢軍100万は、()(みやこ)彭城(ほうじょう)にほど近い沛県(はいけん)付近に布陣した。

 

 対する覇王項羽も、(おび)き出される形で出陣し、いよいよ明朝(みょうちょう)より戦闘開始……という状況になった。

 

 そして、翌朝未明(みめい)

 大元帥韓信は、漢の中軍に出てくると、帷幕(いばく)の中に諸大将を呼び集め、言った。

 

「漢王様が漢中を出てから数年。

 軍を働かせ、民衆を動かし、千の(つら)さと万の苦しみを味わいながら項羽と戦うこと70回あまり。

 今、項羽の勢力は孤立し、力も弱り、ついに本日この一戦にて勝負を付けるというところまで来た。

 

 諸君は、ますます心を(はげ)まして敵に向かい、前に進んでは武勇を振るい、後ろに退()いては固く守り、左と指示されれば左に移り、右と指示されれば右に回り、ひたすら私の指揮に従って戦ってほしい。

 

 ここにいる(みんな)で漢王様の新国家創業(そうぎょう)を助けた後は、それぞれ列侯(れっこう)(ほう)ぜられて、1万代先の子孫にまで業績を伝えようではないか!」

 

 大将たちは、声を(そろ)えて一斉に叫んだ。

「願わくは、大元帥の号令に従わん!」

 

 韓信は、力強く、うなずいた。

「よし!

 では、それぞれの布陣を伝える!」

 

 韓信は、今回の戦いのために、周易(しゅうえき)の理論に(もと)づいた布陣を練り上げていた。

 周易(しゅうえき)とは(いにしえ)の書籍の名で、別名を易経(えききょう)ともいう。

 (えき)、すなわち占いに関する知識や理論が詰め込まれた書籍である。

 韓信は、周易(しゅうえき)にある六十四()に対応させ、最も吉となる布陣を考えたのだ。

 

 その布陣の内訳(うちわけ)は……

 

 乾為天(けんいてん)、王陵。西北に埋伏。

 坎為水(かんいすい)盧綰(ろわん)。北に埋伏。

 艮為山(ごんいさん)曹参(そうさん)。東北に埋伏。

 震為雷(しんいらい)、英布。東に埋伏。

 巽為風(そんいふう)彭越(ほうえつ)。東南に埋伏。

 離為火(りいか)周勃(しゅうぼつ)。南に埋伏。

 坤為地(こんいち)張耳(ちょうじ)。西南に埋伏。

 兌為沢(だいたく)臧荼(ぞうと)。西に埋伏。

 

 この8将が、おのおの副将16人と精兵4万5千を(ひき)い、旗幟(きし)64枚を立てて布陣する。

 前方には八卦(はっけ)に対応した部隊を(つら)ね、後方には五行に対応した陣所を設け、左右で輔弼(ほひつ)する人材は、だれ1人として不足することのないよう配置した。

 

 また、夏侯嬰(かこうえい)は10万の軍勢を(ひき)い、劉邦の後ろについて、予定外の緊急事態に(そな)える。

 張良は防護使(ぼうごし)として、10万の兵で左に配置。

 陳平(ちんぺい)救応使(きゅうおうし)として、同じく10万で右に(ひか)える。

 孔熙(こうき)・陳賀は各2万の兵を従え、左右に分かれて劉邦の前方で壁となる。

 

 (りょ)馬通(ばとう)呂況(りょきょう)は精兵2万を(ひき)い、それぞれ太陽・月の象徴を(にな)う。

 靳歙(きんきゅう)は1万2千の兵と12人の副将によって、12方位の形を(かたど)る。

 陳武(ちんぶ)は士卒2万8千と副将28人を、28の星宿(せいしゅく)になぞらえる。

 壬敖(じんごう)は2万5千の兵によって、劉邦の本陣を守る。

 

 劉沢(りゅうたく)は3千余騎で雞鳴山(けいめいざん)に陣取り、旗幟(きし)(むな)しく立て並べて大軍に見せかける。

 劉高(りゅうこう)は5千の精兵によって後陣の警備にあたる。

 

 薄昭(はくしょう)孫可懐(そんかかい)、高起、張倉、戚思(せきし)は、督戦(とくせん)隊。

 各1千の兵を(ひき)いて四方に配置し、諸軍の隊伍を整え、動きを止める者がいたら前進を(うなが)す。

 

 陳豨(ちんき)陸賈(りくか)傅弼(ふひつ)呉芮(ごぜい)は、おのおの5千の兵を(ひき)いて、間道(かんどう)から(ひそ)かに徐州へ向かう。

 その狙いは彭城(ほうじょう)

 ()軍が城を(から)にして出陣したのを確認したら、一気に彭城(ほうじょう)へ攻め込み、項羽の妻子一族を()()りにする算段だ。

 うまく彭城(ほうじょう)を占領した後は、城内の人民を(なだ)め、四方の門から()旗幟(きし)を全て抜き捨てて、かわりに漢の赤旗を立てる。

 

 灌嬰(かんえい)は、負けを(よそお)って、項羽を南の会稽(かいけい)方面へ誘い込む。

 

 中郎(ちゅうろう)騎将(きしょう)楊喜(ようき)五軍(ごぐん)都尉(とい)陽武、左軍(さぐん)司馬(しば)楊翼(ようよく)右軍(うぐん)司馬(しば)呂勝(りょしょう)は、烏江(うこう)に行って、左右に埋伏する。

 

 こうして、全軍の配置が伝えられ、あらゆる方面への(そな)えが整った。

 

 と、ここで王陵が進み出た。

「大元帥、質問があります。

 大元帥は、それがしらに『九里山に埋伏せよ』と(めい)じられました。

 

 しかし、九里山は沛県(はいけん)から離れること180里(72km)。

 今、()軍50万人が各地に無数の陣を置いており、通過できる場所が無いように思えます。

 

 それがしらは、戸惑(とまど)っております。

 一体どの道から進んで、どの場所に埋伏すればよいのでしょうか?

 

 また、大元帥自身は、どこで敵を迎え()ち、漢王様は、どこで敵を引きつけなさるのですか?

 できますれば、詳しく教えて、我らの疑問を解消してください」

 

 韓信が言う。

「私は、この場所へ来る前に、あらかじめ調査員を出して、ここら一帯の地理、通るべき道、兵を埋伏すべき場所などを全て考えておいた。

 たとえ孫子・呉子を(あざむ)くほどの機略があっても、地理を知らなければ(いくさ)に勝てるはずがないからな。

 

 九里山は彭城(ほうじょう)の北、9里(3.6km)の位置にある。

 項羽は今、()()(しゃ)(だま)され沛県(はいけん)まで来て、はなはだ後悔しているだろう。

 

 それゆえ項羽は、今日の戦いで痛手(いたで)(こうむ)れば、必ず彭城(ほうじょう)へ帰還しようと考えるはずだ。

 そこで、項羽の帰路上にある九里山に諸君を伏せておき、項羽を包囲してしまう、という作戦だ。

 

 さらに、陳豨(ちんき)呉芮(ごぜい)ら5名には、(から)になった彭城(ほうじょう)を奪うよう指示しておいた。

 

 項羽の周囲は全て漢軍となり……

 引き返すべき拠点さえ失う……

 そうなれば、項羽は、進んで行くべき先も、戻って守るべき所も見失(みうしな)う。

 

 そこまで追いつめられれば、項羽は、長江を渡って江東(こうとう)へ逃げようとするはずだ。

 その渡河(とか)地点は、間違(まちが)いなく烏江(うこう)の港。

 

 よって、烏江(うこう)に4人の大将を伏せ、項羽が渡河(とか)しようとした所を捕縛(ほばく)する。

 これが私の立てた作戦だ。

 

 さて、肝心(かんじん)の九里山まで行く道すじについてだが……

 まず諸君は、いったん西に兵を引き、固陵(こりょう)北の道を黄河に沿って東進。帰徳(きとく)郡・虞城(ぐじょう)県付近を経由して九里山に入れ。

 

 あの一帯には、彭城(ほうじょう)の北側を(おお)うように、4つの高山が並んでいる。

 

 中央の九里山、これは古くは九嶷(きゅうぎ)山と呼ばれていた。

 その東北に雞鳴(けいめい)(ざん)

 西に楚王(そおう)(ざん)

 北に聖女(せいじょ)(ざん)がある。

 全ての山を繋げれば、周囲200里(80km)といったところだ。

 

 項羽が彭城(ほうじょう)に到着し、城壁の上に漢の赤旗があるのを見れば、決して城には近づかず、必ず北へ向かって逃走するだろう。

 そのとき、九里山に埋伏した諸君が四方から飛び出し、項羽を包囲して攻め立てるのだ。

 さすれば、覇王といえども、どうして逃げきることができようか。

 

 とまあ、このように、あらかじめ計略を決めておいたのだ。

 楚の兵たちを死地に誘導し、前後左右にさんざん走り回らせて疲れさせ、食糧(しょくりょう)などの軍需(ぐんじゅ)品を枯渇(こかつ)させ、確実に勝利を(つか)もうというわけだ」

 

 諸大将は、韓信の流れるような説明に聞き()れ、説明が終わるや地に拝伏した。

「大元帥の妙算は、鬼神にさえ予測できないでしょう!」

 

 大将たちは、大いに納得して、それぞれの持ち場へ動き出そうとした。

 

 と、そのとき。

 また1人、とんでもない大声で叫ぶ者があった。

「大元帥ッ!

 どうして俺を(あなど)って、そこらへんの土とか木みたいに無視するんですかあッ!」

 

 満座の大将たちが、驚いて声の(ぬし)に目を向けた。

 誰かと思えば……武陽(ぶよう)侯、樊噲(はんかい)である。

 

 韓信は、思わず笑った。

「私が、いつ御辺(ごへん)(あなど)ったというんだ」

 

 樊噲(はんかい)は、もう、ほとんど涙目である。

(あなど)ったんでなけりゃ、なんだってんです!

 漢王様が漢中を出なさってから、俺は数百回の合戦で出陣しなかったことは1度もないんだ!

 

 項羽が弱りきって、()の滅亡が、まさに今日の1戦で決まる……

 さっき大元帥は、今まで戦場に出たこともないような無名の将にまで、1人1人仕事を指示なさったじゃないですか!

 

 なのにッ!

 この俺1人だけがッ!

 まだ名前も呼んでもらえてないんですよッ!

 こりゃ一体どういうわけなんですかあっ!」

 

 

(つづく)




●注釈
(1)
 冒頭、韓信のセリフの中で『漢王様が漢中を出てから数年の間』とあるが、「通俗漢楚軍談」や「西漢通俗演義」では、これが『5年の間』となっている。
 実際は、劉邦が漢中を出たのが高祖元年8月、今回の戦いが高祖5年12月なので、経過期間はおよそ3年4ヶ月である。本編の過去の説明と矛盾がないよう、ここでは『数年』と表現をぼかした。

(2)
 韓信が漢軍の大将たちに、沛県(はいけん)から九里山まで行くルートを指示する場面があった。このとき韓信は『いったん西に兵を引き、固陵(こりょう)北の道を黄河に沿って東進。帰徳(きとく)郡・虞城(ぐじょう)県付近を経由して九里山に入れ』と指示している。
 帰徳(きとく)虞城(ぐじょう)は現在の中国河南省商丘市周辺にあたり、沛県(はいけん)・九里山・彭城(ほうじょう)などから見れば西に70~80kmほど離れた位置にある。つまり韓信は、沛県(はいけん)に布陣する()軍を西に大きく迂回(うかい)し、敵の背後へ回るよう指示したことになる。この点には地理的・戦術的な矛盾はない。
 問題は、ここで『黄河に沿って』と発言していることである。地図を見てもらえば一目瞭然だが、実際の黄河は全然こんなところを通っていない。今回の戦いの舞台となった徐州からは遥か北西、最も短く見積もっても120~130kmは離れたところを流れている。では、なぜ韓信はこんな発言をしたのか?
 実は黄河は、歴史上確認されているだけでも1500回以上も氾濫(はんらん)を繰り返しており、頻繁に河道を変化させているのだ。(しん)漢代には中国北部を流れていた黄河だが、(みん)(しん)の時代に大きく南へ進路を変え、徐州付近に流れ込むようになった。その後19世紀には再び北へ流れを変えたが、当時の河道の痕跡(こんせき)は現代でも残っており、『黄河故道』の名で地図上にも確認できる。この(みん)代の黄河が、まさに帰徳(きとく)虞城(ぐじょう)の付近を流れていたのだ。
 つまり、「西漢通俗演義」では、執筆当時である(みん)代の河道を描写に反映してしまったものと思われる。
 また、ここに登場した『帰徳(きとく)郡』という地名も楚漢戦争期には存在しない。この地は(みん)代に帰徳(きとく)府と呼ばれていたのだが、(しん)漢代には『府』という行政区分が無かった。そこで『府』を(しん)漢当時の行政区分である『郡』に置き換え、古めかしさを演出しようとしたのだろう。
 もろもろ時代考証としてはおかしいのだが、原典の表現を可能な限り尊重する方針に従ってそのまま記した。
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