韓信は、漢軍の大将たちに決戦での配置を伝えた。
だが、1人だけ名前も呼ばれなかった男がいた。
樊噲である。
樊噲は涙目になって、韓信に食ってかかった。
すると韓信は、かわいいものを見るような顔をして、笑いながら答えた。
「確かに樊噲将軍の言う通り、私は先ほど、およそ大将と呼ばれている者なら強弱を問わず全員を用い尽くした。
その後に樊噲将軍ただ1人を残したのは、将軍を侮っているからではない。
1つ極めて大事な仕事があって、それを貴公に命じようと思っていたのだ。
だが、この仕事は非常に難しい。
もし誤れば、100万の軍勢が目を失ったに等しい状態に置かれてしまう。
だから、私は軽々しく命じれずにいたのだよ」
樊噲は、いささかムキになって胸を叩いた。
「おう! その大事な仕事ってのは何ですか?
俺ァ、全力を尽くして、やってみせますよ!
もし少しでも誤ったら、軍法で裁いてもらって、かまわねえ!
殺されても文句は言いません!」
韓信は、うなずいた。
「先ほど説明したとおり、私は大軍を九里山へ遣わし、兵を十面に埋伏させて、項羽を討つつもりだ。
だが、このとき必ず敵味方が混ざり合って、乱戦となる。
実際に現場で戦う者たちには、敵が……特に項羽がどこにいるのか判断するのが難しい。
そこで、中軍に大きな旗を立てる。
敵の位置を見極め、この旗によって味方を誘導するのだ。
左に向かって攻撃すべき時には旗で左を指し、右方向へ転回すべき時には旗で右を指す。
進むべき時には前に振り、退くべき時には後ろに振る。
100万の軍勢が、ことごとく、この旗の動きに従って行動するわけだ。
この戦いの勝敗も全軍の生死も、全て、旗を動かす人の手にかかっていると言って過言ではない。
責任は重大だぞ。樊噲将軍、やるかね?」
樊噲は、天地も震えんばかりに声を張り上げた。
「やりますッ!」
韓信は言う。
「よし。
ならば、樊噲将軍に3千の兵を預ける。
他の諸将と共に九里山へ行き、高い山の上から項羽の位置を見極め、臨機応変に旗で全軍を指揮せられよ。
もしウッカリこの大仕事を失敗したなら、必ず軍法によって処罰するぞ」
ここで樊噲は、少し不安げな表情を浮かべた。
「あ、いや、待てよ……
昼なら敵味方の位置も分かりますし、みんなからも旗が見えるでしょう。
でも、戦いが夜中になったら、どうします?
敵と味方を見分けるのも難しいし、そもそも旗を動かしたって見えないんじゃ……」
韓信は、樊噲の疑問を最後まで聞きもせずに答えた。
「心配いらない。それも私がすでに用意しておいた。
夜中の戦いになったら、旗の代わりに大きな燈籠を立てて、それを動かしなさい。
そして敵味方の見分け方は簡単だ。
夜の戦いなら、どの軍も火把(松明)を用いるだろう?
その火把を持って、動くことなく自分の持ち場を守っているのは、味方の兵だ。
一方、あっちこっちに奔走して、一ヶ所に留まらない火把が見えたら、それが楚軍だ。
樊噲将軍は、火把の動くのと動かないのとを見て、敵味方を判別すればよい。
分かったかな? とにかく、深く用心して、決して誤らないようにしてくれよ」
樊噲は、猛烈な勢いで鼻息を吹いた。
「よおおぉぉぉしっ! やるぞぉぉぉっ!」
かくして樊噲は、他の諸将と共に西から楚軍を迂回し、九里山へと移動していったのだった。
*
一方そのころ。
楚軍の中軍で、項羽もまた楚の大将たちを招集していた。
「俺は昨日、間者を出して敵の様子を探った。
その報告によれば、漢軍の兵は、確かにものすごい数のようだ。
そこで、この俺が、みずから20万の兵を率いて先頭に立つ!
鍾離昧と周蘭は、俺の左右の守りに付き、状況に応じて救援せよ。
その他30万の兵は、6人の大将に分け与える。6手に分かれて進むんだ。
それから虞子期、汝は中軍の守備にあたれ」
このように配置を決めると、項羽は、さっそく隊伍を整えて出陣した。
楚軍は、たちまち漢の陣前まで押し寄せた。
項羽は、ただ1騎で楚軍の前に進み出ると、大声で呼びかけた。
「劉邦! 早く出てこい!
また例の如く韓信に偽りの計略なんか、やらせるつもりじゃないだろうな?
そんなのは、立派な大丈夫のやることじゃないぞ!」
すると、漢の陣から、1騎の大将が進み出てきた。
全身を見事な甲冑で包み、きらめくような武威を示しながら現れた、その男は……他ならぬ、漢王劉邦である。
劉邦の左右には、護衛の漢将、孔熙・陳賀の姿もある。
項羽は、劉邦の姿を見ると、また大音を放った。
「劉邦! このあいだ固陵で戦った時、俺はお前の命までは奪わず、見逃してやったんだぞ!
それをお前は、性懲りも無く、また攻め寄せて来やがって!
そんなに俺と勝負がしたいのか!
俺とお前は何年も争いあって、70回以上も戦ってきたってのに、いまだに1度も刃を交えたことがない!
お前が、どのくらい武芸ができるのか、俺はぜんぜん知らないんだ!
いい機会だから、ここで、お前の力を見せてくれよ!
さあ! 臆病風を吹かせてないで、前に出てきて勝負を決めようじゃないか!」
劉邦は、大笑いした。
「わははははーっ!
あんたって人は、いっつもそれだ!
血気に逸って自分の武勇ばっかり頼みにして、しきりに大口を叩くけど、俺ァぜんぜん怖くないよぉーだっ!
軍隊を用いて勝つ決め手は、武勇じゃなくて計略なんだよ!
だから知恵で戦おうぜ!
力なんか競ったって、しかたないだろ!」
項羽は、かあっと頭に血をのぼらせた。
「お前こそッ!
いつもいつもフザけやがって!」
項羽は大激怒し、槍を挙げて劉邦に突撃した。
が、項羽の刃が劉邦を刺し貫こうとしたその時、左右から孔熙・陳賀が飛び出して、項羽の行く手を阻んだ。
項羽は、ふん! と嘲笑って鼻息を吹いた。
「健気にも主君を守るために出て来たか。
いいだろう! この覇王が直々に汝らの槍を試してやる!」
項羽は槍をうならせて、孔熙・陳賀に襲いかかった。
対する孔熙・陳賀は2人がかりで必死の防戦を試みる。
この日の項羽は気迫が違った。
普段に倍する力を発揮し、漢の2将をグイグイ押し込んでいく。
だが孔熙と陳賀も負けてはいない。
たくましく武勇を振るい、一陣の塵埃を踏み上げながら、一歩も退かずに奮戦する。
両者、戦うこと50余合。
いまだ勝負がつかない……が。
ここで項羽は、ますます精神を励まし、
「かあッ!」
と大喝一声した。
そのすさまじい音量は、あたかも鳴神(雷)の落ちるが如し。
項羽の眼もまた爛爛と燃え、さながら電光一閃するかのよう。
この迫力に、孔熙・陳賀はともかく、その馬のほうが驚いてしまった。
怯えた馬が、勝手に数十歩も後退する。
陳賀は、慌てて轡に手を伸ばし、馬を宥めようとしたのだが……
覇王の前でのこの行動は、致命的な隙となった。
項羽は龍馬烏騅に鞭を加え、たちまち陳賀に飛びかかった。
そして、
「オォッ!」
と叫びながら槍を突き込み、陳賀を馬上から突き落としてしまった。
「あっ! 陳賀!」
孔熙が、陳賀を救わんと大急ぎで駆け寄ってくる。
その孔熙に、項羽は、ギラッ! と鋭い視線を向けた。
「リャァッ!」
項羽が叫び、槍を突き出す。
孔熙の頭、その兜のド真ん中に、脳まで貫かんばかりに項羽の槍が迫り寄ってくる。
「わっ!」
孔熙は、とっさに頭を下げ、すんでのところで項羽の槍を躱した。
だが、槍がかすめたその衝撃で、兜の緒が千切れ飛んだ。
孔熙の兜は空中で放物線を描き、遠い地面に音を立てて落下した。
ゾッ……と、孔熙の背筋に悪寒が走った。
なんとか兜を飛ばされるだけで済んだものの……あと少し、ほんの一瞬でも頭を下げるのが遅れていたら、今ごろ孔熙の頭は兜ごと貫かれていたのだ。
孔熙は恐怖のあまり、髪を振り乱しながら本陣へと逃げ出した。
この様子を見ていた漢将靳歙・陳武の2人が、入れ替わりで項羽に斬りかかった。
項羽は、この2将とも刃を交え、2、3合ほど軽く、あしらった。
と、そのとき。
項羽が、ふと視線を動かすと、漢王劉邦が馬に跨り、高い坂の上に立っているのが目に入った。
「劉邦! そこかァッ!」
項羽は歯が砕けそうなほどに歯ぎしりすると、靳歙・陳武を放っておいて、驀地暗に劉邦の方へ駆けだした。
矢のように劉邦へ迫ってくる項羽。
その前方に、漢将夏侯嬰が一軍を率いて立ちはだかる。
だが、項羽の勢いは、その程度では止まらない。
「どけえッ!」
項羽は馬の速度を緩めもせず、夏侯嬰の軍勢に頭から突っ込んだ。
項羽の槍が竜巻の如く暴れ狂い、漢兵を右へ左へ薙ぎ倒す。
あっ! と叫ぶ暇すらなく、項羽は愛馬烏騅と共に、夏侯嬰軍を貫き突破してしまった。
もはや劉邦を守る者は誰もいない。
漢王の姿は、今や項羽の目前!
「わ、わあっ!」
劉邦は慌てふためき、真っ青になって東北へ逃げだした。
項羽はその背を睨みながら、味方の軍勢に向けて声を張り上げる。
「劉邦を逃がすな! 追え! 追えッ!」
怒涛の如き楚軍は、太鼓を打ち鳴らし銅鑼を叩き、力を尽くして劉邦を追った。
(つづく)