龍虎戦記 項羽vs劉邦【翻案・通俗漢楚軍談】   作:外清内ダク

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七十の丙 九里山十面埋伏

 

 

 項羽の圧倒的な強さによって、劉邦を守る漢軍は(もろ)くも突破された。

 劉邦は慌てて逃げ出し、項羽が怒涛(どとう)の勢いで後を追う。

 

 だが、そうして5里ほども追走したとき……

 漢軍は突然、サッ、と左右2手に分かれ、それぞれ別の道へと走り始めた。

 

 この様子を見て、顔色を変えた()将がいる。

 項羽の下で数え切れぬほどの戦いを生き抜いてきた猛者(もさ)、季布である。

 

 季布は、項羽に馬を寄せて叫んだ。

「覇王様ッ! お待ちください!

 劉邦は、一見(いっけん)逃げ走っているようではありますが、隊伍も乱れておらず、あのように秩序(ちつじょ)だった動きを見せております!

 

 おそらく、これは我々を(だま)そうとする計略です!

 ひとまず、この場所に留まって、様子を(うかが)いましょう!」

 

 項羽は、季布の言葉を聞いて、馬を止めた。

「確かに妙だ。何かあるのかもしれん……」

 

 そのとき。

 項羽たちの前方へ、漢軍の中から、1騎の大将が走り出てきた。

 なんとそれは、つい先日、()軍に(いつわ)りの降伏をしてきた、あの謀士(ぼうし)()()(しゃ)だった。

 

 ()()(しゃ)は、項羽に向けて、大笑いしながら言った。

「おお、覇王様!

 臣は、()にいたとき、陛下から深く御恩(ごおん)(こうむ)り申した!

 

 その陛下が今、韓信の計略に(おちい)ってしまわれた。

 こうなったら、早々(そうそう)(かぶと)を脱いで降参なさいませ!

 覇王様の一命(いちめい)を救っていただけるよう、臣から漢王様に命乞(いのちご)いしてさしあげよう!

 これが先日うけた御恩(ごおん)へのお返しでございます!」

 

 項羽は、(ひたい)の血管を、ぴくぴくと震わせた。

「ふざけるな()()(しゃ)ッ! この匹夫(ひっぷ)め!

 よくも俺を計略にハメてくれたな!

 

 貴様を1万個に斬り砕き、(うら)みを(そそ)ぎたいと思ってたところだ!

 そのお前が、わざわざ俺の前に出て、また無闇(むやみ)に舌を動かすのかッ!」

 

 項羽は衝動的に、()()(しゃ)へ向けて馬を飛ばした。

 ()()(しゃ)は、サッと馬首(ばしゅ)を返して逃げはじめる。

 

 そのまま、項羽は()()(しゃ)の後を追い、10里以上も走った。

 が。

 ()()(しゃ)は、急に林の中に駆け込んだかと思うと、忽然(こつぜん)と姿を消してしまった。

 

 項羽が、

「あれっ? どこへ行った?」

 と、再び馬を止めた……

 

 そのとき。

 

 突如、項羽の前後左右の林から、漢の軍勢が飛び出してきた。

 伏兵である。またしても項羽は危険地帯に誘いこまれたのである。

 しまった! と思う間もなく、漢軍が()軍に(むら)がってくる!

 

 ()の兵士たちは、ここまで項羽に引っ張り回され、20里(8km)ほども走り続けてきた。

 当然、誰も彼もが疲れ、息を切らしている。

 そこを元気一杯の漢軍に襲われたのだから、たまらない。

 

 ()軍は、ひと支えすら支えられず、たちまち四方へ潰走(かいそう)しはじめた。

 それを漢軍は容赦(ようしゃ)なく攻め立てる。

 ()軍の死者ばかりが、数え切れないほどに積み上がってく。

 

「くそっ……またやられたか」

 と、さすがの項羽も後悔しはじめた。

 周囲からは、漢軍の鉄砲の炸裂する音が、絶えず聞こえてくる。

 こうなったら、急いで退却するしかない……

 

 ところが、項羽が全軍に後退を指示しかけたそのとき、さらなる敵が姿を現した。

 大元帥韓信の軍勢が、四方八方から項羽を包み、攻め寄せてきたのだ。

 

 ()将季布、鍾離昧(しょうりまい)は、

「いかん! なんとしても覇王様を救うんだ!」

 と、左右の漢兵を斬り伏せながら駆け出した。

 

 季布も鍾離昧(しょうりまい)も、さすがに()の名将。

 どうにか包囲の一辺を斬り破り、脱出路を確保した。

 

 ……が。

 項羽が脱出路から包囲の外に出ようとすると、靳歙(きんきゅう)、陳武、孔熙(こうき)の漢将3人が(むら)がってきて、逃走を(さまた)げにかかった。

 

 勇猛な項羽も、もう、さすがに戦意を失っていた。

 このまま戦っても被害が大きくなるだけ……とにかく今は逃げるしかない。

 項羽は、()軍の勇将たちと(とも)に包囲を突破し、本陣へ向けて走り出した。

 

 項羽の後を追って、韓信の大軍が風を(いだ)いて進み来る。

 その数は、さながら蜂の群れ。

 その勢いは、山が崩れ海が沸き立つかのよう。

 

 項羽の軍は、韓信の追撃を浴びて、ますます散々(さんざん)に乱れた。

 その兵は激減し、今や、わずか4、5千騎を残すのみ。

 

 項羽には、もう、後ろを振り返る余裕さえない。

 項羽が、ひたすら馬を走らせていると……

 

 前方に、別の大軍が見えてきた。

 また漢の伏兵か? と思いきや、違う。

 あれは周蘭(しゅうらん)だ。()周蘭(しゅうらん)が、本陣に残っていた軍馬を(ひき)いて、救援に駆けつけたのだ。

 

 周蘭(しゅうらん)は、軍勢に下知(げち)して、漢の追手に突っ込んでいった。

 周蘭(しゅうらん)が決死の働きで四方八面の漢兵を()いで回る。

 漢軍は、紛紛(ふんふん)攘攘(じょうじょう)と乱れ騒ぎ、ついに追撃を(あきら)めて、サッと左右へ分かれて引き上げていった。

 

 こうして項羽は、(あや)うい所で一命(いちめい)を取り止めたのだった。

 

 

   *

 

 

 項羽が、やっとの思いで本陣に戻ってきたときには、もう(そら)黄昏(たそがれ)色に染まりきっていた。

 本陣を守っていた()()()が、項羽を出迎える。

 そのそばには、心配して出迎えに来た虞姫(ぐき)の姿もある。

 

 項羽は、虞姫(ぐき)の顔を見ると、ようやくホッと一息(ひといき)ついた。

 

 項羽は、虞姫(ぐき)に今日の戦いのことを話して聞かせた。

「漢軍は、ものすごい勢いだ。

 おそらく俺も、ここに長く留まっては、いられないだろう。

 

 虞姫(ぐき)よ。

 今夜のうちに彭城(ほうじょう)へ帰るぞ。

 そこで再び軍馬を整え直し、あらためて方策を考えてみる」

 

 横から()()()が不安げに言う。

「しかし覇王様……

 まだ真実かどうかは分からないのですが、恐ろしい(うわさ)を聞きました。

 

 韓信が(ひそ)かに彭城(ほうじょう)へ大将を(つか)わし、覇王様の一族を、みんな()()ってしまったとか……

 

 もしこれが本当なら、たとえ彭城(ほうじょう)に帰っても、無駄足になるだけです。

 

 今、ここに2万の兵が残っております。

 あちこちに逃げた兵も、かき集めれば5万にはなるでしょう。

 これらの兵を合流させ、今夜、(ひそ)かに洞庭(どうてい)()北の荊楚(けいそ)襄陽(じょうよう)方面へ行きましょう。

 

 そこで勢力を(やしな)い、鋭気を(たくわ)えながら、諸方の軍勢を集めるのです。

 そうすれば、また元通りの力を取り戻すこともできます」

 

 項羽は、眉をひそめた。

「まさか!

 彭城(ほうじょう)には、俺の部下が、たくさん残っているんだぞ。

 そんな簡単に落とされるわけがない。

 お前が聞いた(うわさ)は、間違(まちが)いだろう。

 

 だが、今後は危なくなるかもしれんな。

 ひとまず彭城(ほうじょう)に帰ったら、俺の一族を連れて城を出て、山東(さんとう)()郡へ行くことにしよう。

 そこで体勢を立て直すんだ」

 

 この話を他の大将たちにも伝えると、大将たちは、

「覇王様のお考えは、大いに良いと思います」

 と、口をそろえて賛成した。

 

 項羽は、すぐさま全軍に下知(げち)を伝えて移動準備を整え、夜半に兵糧(ひょうろう)を使うと、すぐに東の大道(だいどう)から彭城(ほうじょう)を目指して出発した。

 

 

   *

 

 

 ()軍は、それから丸1日ほどかけて、(しょう)県という所までやってきた。

 (しょう)県は、彭城(ほうじょう)の西、50里(20km)ほどの場所にある。

 あと半日もあれば彭城(ほうじょう)へ帰りつけるだろう、という位置である。

 

 この(しょう)県で、項羽たちが休息を取ろうとした……

 そのときだった。

 

 突如、どこからともなく鉄砲の音が聞こえてきた。

何事(なにごと)だ!」

 と驚いて四方を見渡すと……

 

 南の道に、漢軍らしき大軍が、雲霞(うんか)の如く集まっている!

 

 しかも。

 東の山に目を向ければ、そちらでも数万の赤旗が風に(ひるがえ)り、その陰に、限りない軍勢が綺羅星(きらぼし)の如く並んでいるではないか!

 

 項羽は大いに驚き、左右の部下に向かって言った。

「なんで、こんなところに、こんな数の漢兵がいるんだ!?

 ひょっとして、天下の諸侯が、みんな俺の敵となって、ここに集まって来てるんじゃないか!?」

 

 鍾離昧(しょうりまい)が言う。

「覇王様! 南は漢軍に(ふさ)がれました。後方からは韓信が猛烈に追撃してきておりましょう。

 そして東……あちらは彭城(ほうじょう)のある方角です。

 東に、あれだけ漢の赤旗が立っているということは、おそらく彭城(ほうじょう)は、すでに敵の手に落ちたものと思われます。

 

 こうなれば、ここまで覇王様に着き従ってきた江東の子弟(してい)(若者)8千人を連れて、臣らと(とも)に江東へお逃げくださいませ!

 江東の会稽(かいけい)は、覇王様が旗挙(はたあ)げなさった地。そこでなら再起を(はか)ることも可能です。

 

 こんな危険地帯に恋々(れんれん)と留まっては、なりません!

 早く臣の言葉に従っていただかなければ、手遅れになってしまいます! どうか後悔せず済むようになさってくださいませ!」

 

 さらに、周蘭(しゅうらん)も、しきりに(いさ)めた。

鍾離昧(しょうりまい)の申すことは、極めて理がございます!

 陛下! 早くこれに従いなさいませ!」

 

 

(つづく)




●注釈
 項羽が『山東(さんとう)()郡へ行く』と発言していた。()は、現在の山東(さんとう)省南部、曲阜市(きょくふし)付近に存在した国。孔子の出身地としても知られている。ただし、『()郡』という地名は()漢戦争当時にはまだ存在せず、前漢の頃は()国、(しん)の時代は(せつ)郡と呼ばれていた。
 ()は、今回の戦いの舞台となった彭城(ほうじょう)沛県(はいけん)周辺から見ると、北へ100kmほど離れた位置にある。項羽が劉邦の攻撃から距離をおいて仕切り直そうとしている様子が、この位置関係からも読み取れる。
 また、項羽の叔父の項梁(こうりょう)が戦死した後、懐王(かいおう)によって項羽が(ほう)じられたのが()公、すなわち()の君主の(くらい)だった。本編でも、第十一回から第十九回まで項羽は()公と呼ばれている。
 そのためか、項羽は()では人気があったらしい。「史記・項羽本紀」には、項羽の死後に()の住民たちが()くまで項羽に義理立てせんとする姿が描写されている。その逸話については本編巻十三で詳述する予定である。項羽が逃走先として()()げたことには、こういう理由もあったのかもしれない。
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