項羽率いる楚軍は、手痛い打撃を受け、彭城へと引き返してきた。
その帰路の途中で、すでに彭城周辺に漢軍が配置されていることを知ったのである。
鍾離昧や周蘭は、彭城を捨てて江東へ逃げることを提案した。
だが、項羽の天性は、この状況でも変わらなかった。
項羽は、鍾離昧や周蘭の言葉を聞き入れず、逆に大言を放った。
「俺は、挙兵して以来、どこへ行っても、どんな敵でも、すべて撲滅してきた!
確かに敵の数は多いかもしれんが、漢の大将の中に、俺に敵う奴は1人もいない!
怖がる必要が、どこにある!?
もし俺がここから逃げ去ったら、天下の諸侯は、俺を大いに嘲り笑うだろう。
汝らは、ただ俺の後についてきて、俺が漢の大将どもと戦うところを見ていればいい!
もし俺の槍の技に少しでも乱れがあれば、自分自身でこの首を刎ねてやる!
この命のある限り、俺は絶対に他人の辱めを受け入れたりしないっ!」
鍾離昧も、周蘭も、その他の諸将も、みな口を閉ざした。
項羽という男は、いったんこうなると、もう何を言っても聞きはしない……
楚将たちは、そういう項羽の気性を、嫌というほど知っている。
それゆえに、もう誰も、再び項羽を諌めようとはしなかった。
*
項羽は、楚軍の先頭に立って、彭城方面へと走り出した。
項羽が彭城まで、あと少しというところに来た、そのとき。
偵察に出しておいた兵たちが、息を切らせて駆け戻ってきた。
「報告いたします!
彭城は、すでに敵に奪われておりました!
城壁には、おびただしい数の漢の赤旗が立て並べられており、四方の門は、武装した漢兵に固く守られています!」
やはり……彭城は漢軍の手に落ちていたのだ。
このまま彭城に向かっても、簡単には取り戻せまい。
楚軍の将兵に、少なからぬ動揺が広がった。
しかし項羽は、顔色ひとつ変えない。
項羽は、馬からヒラリと飛び降りると、落ち着きはらった動きで全身の武装を整えだした。
兜の緒を締め直し、胴鎧を一度はずして再び引き締め、それから再び馬に飛び乗る。
そして項羽は、全軍へ向けて一声を放った。
「もはや彭城へ行っても無駄だ。
我らは北へ向かう!
九里山を越えて、目指すは魯だ!
者ども!
行くぞッ!」
項羽は猛々しく吠えると、雞鳴山を睨んで九里山方面へと駆けだした。
その後に楚軍が続く。
やがて楚軍が九里山の山道に踏み込んだ……そのとき。
九里山の山頂で、一声の鉄砲が鳴り響いた。
その直後、山のあちこちで大きな軍旗が振り立てられ、四方八面から漢の伏兵が一斉に湧き起こった。
西北より王陵!
北より盧綰!
東北より曹参!
東より英布!
東南より彭越!
南より周勃!
西南より張耳!
西より臧荼!
漢の名だたる大将たちが、槍を挙げて覇王項羽を取り囲み、金鼓を地に震わせ、殺気を天に飛ばし、怒涛の如く押し寄せてくる!
対する項羽は、
「ウオオォォォォォッ!」
雄叫びをあげて漢軍に挑みかかった。
覇王項羽は、左を叩き右を突き、急な坂道を上って下りて、あちらへ行ってはこちらへ帰り、龍が大海に躍り虎が山岳を走るが如く縦横無尽に8人の漢将と渡り合った。
覇王項羽、なんたる強さか!
この8将の猛攻を受けてなお互角……いや、それどころか、むしろ項羽が優勢。
とうとう項羽は、8人の漢将たちを、ことごとく追い散らしてしまった。
だが、漢軍とて負けてはいない。
先ほどの8将と入れ替わりに、薄昭、孫可懐、高起、張倉、戚思の5将が、刃を並べて項羽に討ってかかる。
この新手にも、項羽は少しも恐れる気配を見せない。
5人を相手に戦うこと20余合。
孫可懐は、項羽の槍によって馬から突き落とされてしまった。
すると戚思が、孫可懐を救おうと駆け寄ってきた。
戚思は馬から飛び降りて、孫可懐を抱き起こした……
が。
項羽の愛馬烏騅が駆け寄って、2人まとめて踏み殺してしまった。
残る薄昭・高起・張倉は、震え上がって逃げ出した。
これでも、まだ漢軍の攻撃は終わらない。
今度は聖女山東の谷際から、陳豨、傅寛、陳武、呉芮が新手を率いて進み出てきた。
再び激しい戦いが起きた。
だが、彼らも項羽には敵わず、10合もしないうちに、ことごとく逃げ去ってしまった。
こうして……
この日、たった1日で、項羽は漢の名将60人以上と戦った。
だが、その間、たったの1度も槍を地に突かず、馬を後退もさせなかった。
漢軍は、これほどの攻勢にも関わらず、項羽に打ち勝つことができず……
とうとう、その日は引き上げて行ってしまった。
戦が終わると、項羽は手下の大将たちの方へ振り返り、ニッ、とガキ大将さながらの屈託ない笑顔を見せた。
「どうだ? 俺は弱いか?」
楚将たちは、みんな地上に拝伏して、言った。
「覇王様は、まことに天神でいらっしゃいます!
今日ほどの戦ぶりは、過去に比べる相手すらありません!
しかし覇王様、今日はもう日が暮れてしまいました。
このあたりに陣を築き、お休みくださいませ。
虞娘娘に、陛下の疲れを癒やしていただきましょう」
「うん。そうするか」
と、項羽は上機嫌に、馬から降りたのだった。
*
その夜。
項羽は鎧を脱ぎ、楚将たちの居並ぶ幕舎に腰をおちつけた。
項羽は、虞子期に、虞姫を呼んでくるよう命じた。
しばらくすると、虞姫が車から降りて、満座の大将たちが詰める幕舎に入ってきた。
項羽は、虞姫に優しく微笑みかけた。
「虞姫よ。
今日は、漢の兵がたくさんいて、怖かっただろう」
虞姫は、首を振った。
「妾には、陛下の天威がついております。
それに、ここにいる諸将も守ってくれますわ。
どうして恐れる必要など、ありましょうか。
陛下こそ、今日は1日で漢の大将60人あまりと戦いなさったとか。
さぞかし御身お疲れでございましょう」
項羽は上機嫌に笑った。
「あはははは!
いやいや、全然!
俺は昔、趙を救いに行った時、章邯率いる秦軍と9回戦って、数日間まともに食事もできなかったが、それでも疲れなかったんだ。
今日1日くらい、平気平気!」
項羽の顔色を見ると、どうも、これがただの強がりでもないようである。
あれだけの戦いをしておいて、本当に疲れてすらいないらしいのだ。
左右にいた楚軍の大将たちは、項羽の無尽蔵の気力体力に驚き、ざわめいた。
そのとき、大将たちの中から、周蘭が進み出た。
「覇王様。
本日は敵の諸将に打ち勝ちなさいましたが、漢軍の勢いは、いまだ衰えておりません。
敵は四方に布陣しておりますし、今晩、夜討を仕掛けてくる可能性があります。
油断なさらず、陣の各所に備えを命じなさいませ」
項羽は、うなずいた。
「確かに、お前の言う通りだ」
そこで項羽は、全軍に下知して、陣の四方の守りを固めさせた。
そして、江東の子弟8千人には、中軍の左右に配置して項羽を守るよう命じた。
そのうえで、項羽自身は幕舎の中に留まり、虞姫と盃を交わし、一時の休息を楽しんだのだった。
(つづく)
■次回予告■
攻めても攻めても衰え見せぬ覇王項羽の無敵の武勇。その力を下支えする忠臣たちと八千子弟を項羽のもとから引き剥がすべく、漢の頭脳が最後の策を為す。
秋風身を切る寂寥の夜、山々から流れ来たるは胸打つ簫と哀歌の響き。ああ、忘れられようか。東西南北いずこを見ても、あるものはただ――故郷の歌声。
次回「龍虎戦記」第七十一回
『四面楚歌』
乞う、ご期待!