龍虎戦記 項羽vs劉邦【翻案・通俗漢楚軍談】   作:外清内ダク

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七十一の下 四面楚歌

 

 

 張良は、楚(そ)の兵士たちの心を折るため、彼らの故郷楚(そ)の歌を聞かせて、望郷の念を呼び起こした。

 

 今夜は、月も寒々(さむざむ)として、風が身に沁(し)みる夜。

 楚(そ)陣では、大将も兵卒も心乱れ、雨のように涙を流しながら、故郷の方角を眺(なが)め見ていた。

 

 人々は地面に崩れ落ちて、口々に言った。

「この歌を歌ってるのは、きっと人間じゃない。

 天が俺たちを憐(あわ)れみ、命(いのち)を救ってやろうとして、神仙を降臨させ、洞簫(どうしょう)に託(たく)して教えてくれたんだ。

 

 考えてもみれば、このまま飢(う)えに耐え、寒気(かんき)を凌(しの)ぎながら陣を守ったとしても、漢の兵が攻め込んできたら、みんなたちまち死に果ててしまう。

 そうしたら、もう二度と妻子の顔を見ることはできない。

 しかも上天(じょうてん)の意志にも逆(さか)らうことになる。

 

 幸(さいわ)い、今夜は月が明るい。

 こうなったら、さっさと逃げ去ろう。

 もし漢の兵に捕らえられたら、天の歌が教えてくれたとおり、漢王に、この胸の悲しみを伝えよう。

 

 漢王は仁義がある徳の深い君主だから、きっと俺たちを傷つけずに済ませてくれるだろう。

 ここで無駄死(じ)にするよりは、ずっといい」

 

 楚(そ)兵たちは、こう結論を出すと、すぐさま荷物をまとめはじめた。

 無論、楚(そ)の大将は必死に号令を出して兵士を止めようとしたが、今さら大将の命(めい)に従う者など、ほとんどおらず……

 

 楚(そ)兵は次々に陣を抜け出していった。

 そして、わずか半時(1時間)ほどの間に、8千人の子弟(してい)や各陣営の兵士のうち、8割から9割ほどが姿を消してしまった。

 

 

   *

 

 

 慌てた楚(そ)将たちは、中軍に飛び込んで行って、項羽に報告しようとした。

 

 だが、すでに時刻は3更(こう)(午後12時頃)。

 項羽は、虞姫(ぐき)と一緒に、ぐっすりと熟睡(じゅくすい)していて、呼んでも呼んでも起きてくれない。

 

 楚(そ)将たちは、すごすごと項羽の幕舎から立ち去り、肩を落として相談しはじめた。

「味方の軍勢は、ことごとく散(ち)り失(う)せてしまった。

 残っているのは我ら大将と、兵1000人あまりだけだ。

 

 もし今、漢軍が四方から攻めてきたら、覇王様は、たちまち捕虜(ほりょ)にされてしまうだろう。

 我々だって、命(いのち)を保つことは、できない……

 

 こうなったら、我々も、兵士たちの中に紛(まぎ)れて、逃げてしまおう。

 夜中のことだ。誰が兵卒で誰が大将かなんて、見分けることもできまい。

 

 そうして包囲を脱出したら、どこかで再び計略を巡(めぐ)らし、覇王様の仇討(あだう)ちをしようじゃないか。

 ここで覇王様と一緒に討(う)ち死(じ)にしたら、我々の生(せい)は国家にとっても無益だったことになるし、我々の死は草木と同じように朽(く)ちるだけのものになってしまう。

 それこそ愚(ぐ)の骨頂(こっちょう)というものじゃないか?」

 

 この言葉に、季布や鍾離昧(しょうりまい)も同意した。

「諸君の言う通りだ。では、少しでも早く出発しよう」

 

 季布・鍾離昧(しょうりまい)といえば、項羽が旗挙(はたあ)げしたその日から、ずっと付き従ってきた、腹心中の腹心である。

 その季布と鍾離昧(しょうりまい)までもが、項羽を見捨てる決断を下したのだ。

 

 季布、鍾離昧(しょうりまい)、その他の諸将は、これまで乗っていた馬を放してやり、それぞれ身軽な旅(たび)装束(しょうぞく)に着替え、兵士たちに紛(まぎ)れて逃げ去っていった。

 

 

   *

 

 

 一方、項羽の叔父(おじ)の項伯は、心の中で静かに考えていた。

「私は昔、鴻雁川(こうがんせん)(鴻門(こうもん)のそばを流れる川)で、張良の命(いのち)を救ったことがある。

 それに、劉邦とはお互いの子供を結婚させる約束をした。

 

 張良に仲介(ちゅうかい)を頼んで劉邦に謁見(えっけん)し、婚姻(こんいん)で両家の好(よしみ)を結べば、列侯(れっこう)くらいには封(ほう)じてもらえるかもしれん。

 

 そうすれば、楚(そ)王家の血は後世(こうせい)に伝えられるし、祖先への祭祀(さいし)を絶(た)やさずに済む。

 そうだ。それが一番だ……」

 

 そして項伯は、1人、漢の陣を訪(たず)ねていった。

 

 

   *

 

 

 去り行く兵卒たちの流れを……

 暗夜の中へ消えていく大将たちの背中を……

 じっと見送る者が、2人いた。

 

 楚(そ)将の周蘭(しゅうらん)と桓楚(かんそ)である。

 

 桓楚(かんそ)は、消え入りそうな声で、周蘭(しゅうらん)に言った。

「俺たちは、覇王様に才能を認められ、ずっと厚遇(こうぐう)されてきた。

 どんな目に遭(あ)ったとしても、覇王様を見捨てて去ることなんか、できないな。

 

 いま逃げてるのは、利(り)を貪(むさぼ)り死を恐れる奴らだ。

 どんなに上手い理由をつけたって、犬(いぬ)畜生(ちくしょう)にも劣(おと)る行為だ。

 あんな奴ら、歯牙(しが)にかける価値もない!」

 

 周蘭(しゅうらん)は、静かに、うなずいた。

「いま陣中に残った兵は800人あまり。

 これだけあれば、覇王様と一緒にどこへでも落ちのびて、再び勢力を回復することができる。

 

 我々で固く中軍を守り、覇王様が、お目覚(めざ)めになるのを待とう。

 その後、みんなで命(いのち)を捨てて飛び出し、包囲からの脱出を図(はか)ろう。

 

 もし天が楚(そ)を助けたまわず、覇王様が難に遭(あ)いなさったら、我々も同じ枕(まくら)に討(う)ち死(じ)にしようじゃないか。

 生きては君臣ひとつの所に集まり、死んでは魂魄(こんぱく)また離れぬ。

 それこそ立派な大丈夫(だいじょうぶ)の生(い)き様(ざま)というものだ」

 

 こうして周蘭(しゅうらん)と桓楚(かんそ)は、800人の楚(そ)兵と共(とも)に項羽の幕舎の前に立ち、がらんとした楚(そ)陣を守り続けた。

 

 

   *

 

 

 一方。

 大元帥韓信は、楚(そ)軍から逃亡者が出ることを予測し、張良が簫(しょう)を吹き終わる前には、すでに手配を済ませていた。

 すなわち、灌嬰(かんえい)に命(めい)じて、全軍に、こんな指示を伝えておいたのである。

 

「今宵(こよい)、楚(そ)軍から包囲を破って逃げ去ろうとする者がいたら、大将も兵卒も、すべて通行を許して逃がしてやれ」

 

 そのため、季布、鍾離昧(しょうりまい)をはじめ、楚(そ)の将兵全員が、無事に包囲から脱出することができたのだった。

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

■次回予告■

 

 股肱(ここう)の臣にも精強(せいきょう)の兵にも見放(みはな)された西楚(せいそ)の覇王。否、その号さえ虚(むな)しく響く。地位という名の鎧を剥げば、後に残るは生身の男。虎の如き無敵の力と少年の如き純心を持てあまし続けた英雄の、胸から初めて湧きだすものは――生涯ひとつきりの詩歌(うた)。

 

 次回「龍虎戦記」第七十二回

 『虞(ぐ)や虞(ぐ)や なんじを奈何(いかん)せん』

 

 乞(こ)う、ご期待!

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