張良は、楚の兵士たちの心を折るため、彼らの故郷楚の歌を聞かせて、望郷の念を呼び起こした。
今夜は、月も寒々として、風が身に沁みる夜。
楚陣では、大将も兵卒も心乱れ、雨のように涙を流しながら、故郷の方角を眺め見ていた。
人々は地面に崩れ落ちて、口々に言った。
「この歌を歌ってるのは、きっと人間じゃない。
天が俺たちを憐れみ、命を救ってやろうとして、神仙を降臨させ、洞簫に託して教えてくれたんだ。
考えてもみれば、このまま飢えに耐え、寒気を凌ぎながら陣を守ったとしても、漢の兵が攻め込んできたら、みんなたちまち死に果ててしまう。
そうしたら、もう二度と妻子の顔を見ることはできない。
しかも上天の意志にも逆らうことになる。
幸い、今夜は月が明るい。
こうなったら、さっさと逃げ去ろう。
もし漢の兵に捕らえられたら、天の歌が教えてくれたとおり、漢王に、この胸の悲しみを伝えよう。
漢王は仁義がある徳の深い君主だから、きっと俺たちを傷つけずに済ませてくれるだろう。
ここで無駄死にするよりは、ずっといい」
楚兵たちは、こう結論を出すと、すぐさま荷物をまとめはじめた。
無論、楚の大将は必死に号令を出して兵士を止めようとしたが、今さら大将の命に従う者など、ほとんどおらず……
楚兵は次々に陣を抜け出していった。
そして、わずか半時(1時間)ほどの間に、8千人の子弟や各陣営の兵士のうち、8割から9割ほどが姿を消してしまった。
*
慌てた楚将たちは、中軍に飛び込んで行って、項羽に報告しようとした。
だが、すでに時刻は3更(午後12時頃)。
項羽は、虞姫と一緒に、ぐっすりと熟睡していて、呼んでも呼んでも起きてくれない。
楚将たちは、すごすごと項羽の幕舎から立ち去り、肩を落として相談しはじめた。
「味方の軍勢は、ことごとく散り失せてしまった。
残っているのは我ら大将と、兵1000人あまりだけだ。
もし今、漢軍が四方から攻めてきたら、覇王様は、たちまち捕虜にされてしまうだろう。
我々だって、命を保つことは、できない……
こうなったら、我々も、兵士たちの中に紛れて、逃げてしまおう。
夜中のことだ。誰が兵卒で誰が大将かなんて、見分けることもできまい。
そうして包囲を脱出したら、どこかで再び計略を巡らし、覇王様の仇討ちをしようじゃないか。
ここで覇王様と一緒に討ち死にしたら、我々の生は国家にとっても無益だったことになるし、我々の死は草木と同じように朽ちるだけのものになってしまう。
それこそ愚の骨頂というものじゃないか?」
この言葉に、季布や鍾離昧も同意した。
「諸君の言う通りだ。では、少しでも早く出発しよう」
季布・鍾離昧といえば、項羽が旗挙げしたその日から、ずっと付き従ってきた、腹心中の腹心である。
その季布と鍾離昧までもが、項羽を見捨てる決断を下したのだ。
季布、鍾離昧、その他の諸将は、これまで乗っていた馬を放してやり、それぞれ身軽な旅装束に着替え、兵士たちに紛れて逃げ去っていった。
*
一方、項羽の叔父の項伯は、心の中で静かに考えていた。
「私は昔、鴻雁川(鴻門のそばを流れる川)で、張良の命を救ったことがある。
それに、劉邦とはお互いの子供を結婚させる約束をした。
張良に仲介を頼んで劉邦に謁見し、婚姻で両家の好を結べば、列侯くらいには封じてもらえるかもしれん。
そうすれば、楚王家の血は後世に伝えられるし、祖先への祭祀を絶やさずに済む。
そうだ。それが一番だ……」
そして項伯は、1人、漢の陣を訪ねていった。
*
去り行く兵卒たちの流れを……
暗夜の中へ消えていく大将たちの背中を……
じっと見送る者が、2人いた。
楚将の周蘭と桓楚である。
桓楚は、消え入りそうな声で、周蘭に言った。
「俺たちは、覇王様に才能を認められ、ずっと厚遇されてきた。
どんな目に遭ったとしても、覇王様を見捨てて去ることなんか、できないな。
いま逃げてるのは、利を貪り死を恐れる奴らだ。
どんなに上手い理由をつけたって、犬畜生にも劣る行為だ。
あんな奴ら、歯牙にかける価値もない!」
周蘭は、静かに、うなずいた。
「いま陣中に残った兵は800人あまり。
これだけあれば、覇王様と一緒にどこへでも落ちのびて、再び勢力を回復することができる。
我々で固く中軍を守り、覇王様が、お目覚めになるのを待とう。
その後、みんなで命を捨てて飛び出し、包囲からの脱出を図ろう。
もし天が楚を助けたまわず、覇王様が難に遭いなさったら、我々も同じ枕に討ち死にしようじゃないか。
生きては君臣ひとつの所に集まり、死んでは魂魄また離れぬ。
それこそ立派な大丈夫の生き様というものだ」
こうして周蘭と桓楚は、800人の楚兵と共に項羽の幕舎の前に立ち、がらんとした楚陣を守り続けた。
*
一方。
大元帥韓信は、楚軍から逃亡者が出ることを予測し、張良が簫を吹き終わる前には、すでに手配を済ませていた。
すなわち、灌嬰に命じて、全軍に、こんな指示を伝えておいたのである。
「今宵、楚軍から包囲を破って逃げ去ろうとする者がいたら、大将も兵卒も、すべて通行を許して逃がしてやれ」
そのため、季布、鍾離昧をはじめ、楚の将兵全員が、無事に包囲から脱出することができたのだった。
(つづく)
■次回予告■
股肱の臣にも精強の兵にも見放された西楚の覇王。否、その号さえ虚しく響く。地位という名の鎧を剥げば、後に残るは生身の男。虎の如き無敵の力と少年の如き純心を持てあまし続けた英雄の、胸から初めて湧きだすものは――生涯ひとつきりの詩歌。
次回「龍虎戦記」第七十二回
『虞や虞や なんじを奈何せん』
乞う、ご期待!