項羽は幕舎の外に出た。
その後に虞姫も続く。
外では、項羽の愛馬烏騅が、主を待ちかねていた。
項羽は、ひらりと烏騅に飛び乗り、部下に命じた。
「虞姫のために馬を1頭、用意しろ」
そして項羽は、先陣を切るべく、烏騅を歩ませはじめた。
その背に。
「陛下!」
虞姫の声が届いた。
振り返れば、虞姫が、宝剣の柄をキュッ……と握りしめ、どこか満足げな笑みを、項羽に向けている。
「妾は陛下に、たくさん、たくさん愛していただきました。
でも、まだ1つもお返しできていません。
だからもう、妾のことなど気になさらないで。
……これまでです」
最後の一言と、ほとんど同時に――
虞姫は、宝剣の刃で、自分の首を掻き斬った。
「虞姫ィッ!」
項羽が叫ぶ。
虞姫が倒れる。
項羽は妻の死を目の当たりにして、涙で目もくらみ、心も消え果て、鎧の袖に顔を埋めて、
「ぉっ……ぉぅおおおおおっ!」
天地も震えんばかりに泣き叫んだ。
項羽は全身の力を失い、馬から転げ落ちそうになった。
それを周蘭が、とっさに抱き支えた。
「覇王様!
悲しんではなりません!
天下の君主たるものは、ただ天下のことだけに心を砕かねばならぬもの。
いま為すべきことを為すのです! 覇王様!」
こんな諌言も、耳に入っているのか、いないのか。
項羽は、ひたすら泣き続けた。
そして主人の心を知ってか知らずか、龍馬烏騅は、止まることなく進み続けた。
一方……
虞姫の亡骸のそばに、呆然と立ち尽くす男もいた。
虞姫の弟、虞子期であった。
「……姉上」
虞子期の呟きを聞く者は、誰もいなかった。
*
項羽は、涙もそのままに烏騅を走らせた。
800騎の兵を二手に分け、半分を自分が率い、残り半分を部下の大将たちに預け、項羽みずから先陣を切って、漢軍の包囲網へと突っ込んだ。
これに対し、漢の大将灌嬰は、中軍の主力部隊を率いて、項羽の進路を遮断した。
項羽は、すぐさま馬を躍らせ、槍を横たえ、灌嬰に勝負を挑む。
項羽と灌嬰、戦うこと十合あまり。
灌嬰は、とても項羽に太刀打ちできず、敗走した。
この灌嬰が中軍へ帰り、劉邦や韓信に報告して、大軍の出動を要請した。
一方の項羽は、逃げる灌嬰を追おうとはせず、ただ包囲を突破して逃げることだけに力を注いだ。
*
この戦況を、樊噲は、山の上からジッと見ていた。
樊噲は、急いで合図の旗を動かした。
たちまち漢軍が8つの道から打って出る。
その指揮官は、曹参。
副将として劉賈、王遂、周従、李封の4人を従え、楚軍に突っ込んでいく。
曹参は、まず、後方で支援を務める楚将周蘭、桓楚のほうに襲いかかった。
周蘭も桓楚も、強い大将ではある。
だが、いくらなんでも兵の数が違いすぎた。
周蘭・桓楚は漢の大軍に取り囲まれ、露も塵も残さぬ、とばかりに徹底的に攻めたてられた。
周蘭たちの手兵は、みるみるうちに殺されていき、とうとう20人あまりを残すのみとなってしまった。
激戦が続く戦場で、周蘭・桓楚は、脂汗まみれの疲れた顔を見合わせ、長く嘆いた。
「ふーっ……
どうやら、我々の力では、これ以上は支えられそうにないな」
「ああ。
虚しく敵の手にかかって虜囚の辱めを受けるくらいなら……」
2人は、うなずき交わすと、揃って首を掻き斬り、自殺した。
残る20人あまりの楚兵が、あっというまに皆殺しとなったことは、言うまでもない。
*
また、別の場所で、もう1人の楚将も最期を迎えようとしていた。
虞姫の弟、虞子期。
虞子期は、姉虞姫の死を見てから、どこか様子がおかしかったが……
漢軍との戦いが始まると、たった1騎で漢軍に突っ込み、あっけなく死んでしまった。
その姿は、まるで、敬愛する姉の後を追おうとするかのようであった。
*
一方。
項羽は、どうにか漢軍の包囲を抜け出して、南へ、南へと走り続けた。
項羽の手元に残った兵は、100騎あまり。
南を目指して走っていると、項羽の行く手を、淮河の流れが塞いだ。
周囲を見回してみると、運よく、淮河の岸に舟が一艘、繋がれている。
これ幸いと、項羽と兵士たちは何度かに分けて舟で往復し、どうにか全員で川を渡り切ることに成功した。
そこからさらに5、6里ほど進み、項羽たちは陰陵という所へ来た。
周囲を山に囲まれ、細い谷道が何筋にも分岐しているような所である。
ここで項羽は、道に迷ってしまった。
どの方向を見ても、同じような谷道ばかり。
どちらへ行けば江東に近づけるのか、さっぱり分からない。
「どうしようか……」
と考えているところに、突然、四方から、天を震わすような銅鑼・太鼓の音と、軍勢があげる鬨の声が聞こえてきた。
追手か伏兵か知らないが、とにかく漢軍が、すぐ近くにいるのだ。
項羽は、慌てて道を探しはじめた。
と、運よく、道のそばに1人の農夫が立っているのが見つかった。
項羽は、その農夫に声をかけた。
「おい! 江東へは、どの道から行けばいいんだ?」
農夫は、項羽の姿をジロッと見ると、心の中で思った。
「あの男、錦の袍(丈の長い上着)と黄金の鎧を身につけているぞ。
ただ者ではないな……
さては、あれが楚の項羽だな?
あいつは、長いあいだ彭城に都を置いて、殺戮ばかり行い、人民に残酷な仕打ちをしてきた奴だ。
あいつに正しい道を教えて救ってやったりしたら、俺に天罰が下っても、おかしくない。
江東へ行きたいが道に迷った、だと? ふん! 正しい道など、教えてやるもんか」
農夫は、じっと口をつぐみ、黙っていた。
そんな農夫の内心を、もちろん項羽は知る由もない。
ただ見知らぬ人間を警戒しているだけだと早合点し、優しく農夫に微笑みかけた。
「ああ、怖がらなくていい。
俺は西楚の覇王だ。
今、漢軍に手酷くやられて、江東へ逃げようとしているんだ。
しかし、道が分からない。どっちへ行けばいいか、教えてくれないか」
ここで農夫は、ふと、悪戯心を起こした。
「それなら、左の道へ、お行きなさい」
項羽は、
「おう! 助かったぞ!」
と喜び、言われるままに左の道へ走り出した。
だが……
実は、こちらは江東へ繋がる道ではない。
あの農夫は、項羽を陥れようと考え、わざと間違った道を教えたのである。
そうとは知らぬ項羽は、そのまま1里ほど先へ進んだ。
ここで項羽は、うっかり大きな沼の中へ落ちてしまった。
水底の泥土は深く、簡単には抜け出せない。
とはいえ、さすがに烏騅は名馬。項羽が鞭を入れると、一躍沼から飛び出した。
どうにか沼から出られたが、思わぬ時間を食ってしまった。
それが原因で……
項羽は、沼から抜け出した直後、ついに漢軍に遭遇してしまった。
旗印を見たところ、相手の大将は、漢将揚喜らしい。
「おっ、揚喜か」
項羽の顔に、希望の色が差した。
実はこの揚喜、かつて楚に仕えていた人物なのである。
話せば、なんとかなるかもしれない。
項羽は揚喜に近づき、話しかけた。
「俺は、さっき大きな沼に落ちて、今、ようやく抜け出してきたところだ。
力も弱っているし、馬も疲れていて、戦うことができない。
揚喜よ。汝は昔、数年のあいだ俺に仕えていたな。
昔の好を思いだし、俺と一緒に江東へ行かないか?
そこで軍馬を整えたら、汝を万戸侯に封じてやろう」
揚喜は、首を横に振った。
「覇王様は、賢人を侮り、忠義の諌言にも耳を貸さず、無道の行いをほしいままにして、とうとう、こんなありさまに成り果ててしまわれたのです。
たとえ江東へたどり着いたとしても、もう、二度と再起は、できないでしょう。
私は、漢に仕えて重く用いられております。
漢王様の命を受けて覇王様に追いつきましたが、昔の好を考えると、お殺し申し上げるに忍びない。
鎧兜を脱いで漢王様に降伏なさることを、お勧めします。
さすれば、貴い王侯の位を失わずに済むでしょう」
項羽は、これを聞くと、いきなり怒り出した。
「この野郎ッ!」
と、項羽は槍をあげて、揚喜に突きかかった。
(つづく)