龍虎戦記 項羽vs劉邦【翻案・通俗漢楚軍談】   作:外清内ダク

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七十二の中 虞や虞や なんじを奈何せん

 

 

 項羽は幕舎の外に出た。

 その後に虞姫(ぐき)も続く。

 

 外では、項羽の愛馬烏騅(うすい)が、(あるじ)を待ちかねていた。

 項羽は、ひらりと烏騅(うすい)に飛び乗り、部下に(めい)じた。

虞姫(ぐき)のために馬を1頭、用意しろ」

 

 そして項羽は、先陣を切るべく、烏騅(うすい)を歩ませはじめた。

 

 その背に。

「陛下!」

 虞姫(ぐき)の声が届いた。

 

 振り返れば、虞姫(ぐき)が、宝剣の(つか)をキュッ……と握りしめ、どこか満足げな笑みを、項羽に向けている。

 

(わたし)は陛下に、たくさん、たくさん愛していただきました。

 でも、まだ1つもお返しできていません。

 だからもう、(わたし)のことなど気になさらないで。

 

 ……これまでです」

 

 最後の一言(ひとこと)と、ほとんど同時に――

 虞姫(ぐき)は、宝剣の刃で、自分の首を()き斬った。

 

虞姫(ぐき)ィッ!」

 項羽が叫ぶ。

 

 虞姫(ぐき)が倒れる。

 

 項羽は妻の死を()の当たりにして、涙で目もくらみ、心も消え果て、(よろい)(そで)に顔を(うず)めて、

 

「ぉっ……ぉぅおおおおおっ!」

 天地も震えんばかりに泣き叫んだ。

 

 項羽は全身の力を失い、馬から(ころ)げ落ちそうになった。

 

 それを周蘭(しゅうらん)が、とっさに抱き支えた。

「覇王様!

 悲しんではなりません!

 天下の君主たるものは、ただ天下のことだけに心を砕かねばならぬもの。

 いま為すべきことを為すのです! 覇王様!」

 

 こんな諌言(かんげん)も、耳に入っているのか、いないのか。

 項羽は、ひたすら泣き続けた。

 そして主人の心を知ってか知らずか、龍馬(りゅうめ)烏騅(うすい)は、止まることなく進み続けた。

 

 一方……

 虞姫(ぐき)亡骸(なきがら)のそばに、呆然と立ち尽くす男もいた。

 虞姫(ぐき)の弟、虞子期(ぐしき)であった。

 

「……姉上」

 虞子期(ぐしき)(つぶや)きを聞く者は、誰もいなかった。

 

 

   *

 

 

 項羽は、涙もそのままに烏騅(うすい)を走らせた。

 800騎の兵を二手(ふたて)に分け、半分を自分が(ひき)い、残り半分を部下の大将たちに(あず)け、項羽みずから先陣を切って、漢軍の包囲網へと突っ込んだ。

 

 これに対し、漢の大将灌嬰(かんえい)は、中軍の主力部隊を(ひき)いて、項羽の進路を遮断した。

 

 項羽は、すぐさま馬を(おど)らせ、槍を横たえ、灌嬰(かんえい)に勝負を挑む。

 項羽と灌嬰(かんえい)、戦うこと十合あまり。

 灌嬰(かんえい)は、とても項羽に太刀打(たちう)ちできず、敗走した。

 

 この灌嬰(かんえい)が中軍へ帰り、劉邦や韓信に報告して、大軍の出動を要請した。

 

 一方の項羽は、逃げる灌嬰(かんえい)を追おうとはせず、ただ包囲を突破して逃げることだけに力を注いだ。

 

 

   *

 

 

 この戦況を、樊噲(はんかい)は、山の上からジッと見ていた。

 

 樊噲(はんかい)は、急いで合図の旗を動かした。

 たちまち漢軍が8つの道から打って出る。

 その指揮官は、曹参(そうさん)

 副将として劉賈(りゅうか)王遂(おうすい)周従(しゅうじゅう)李封(りほう)の4人を従え、()軍に突っ込んでいく。

 

 曹参(そうさん)は、まず、後方で支援を務める()周蘭(しゅうらん)桓楚(かんそ)のほうに襲いかかった。

 

 周蘭(しゅうらん)桓楚(かんそ)も、強い大将ではある。

 だが、いくらなんでも兵の数が違いすぎた。

 周蘭(しゅうらん)桓楚(かんそ)は漢の大軍に取り囲まれ、(つゆ)(ちり)も残さぬ、とばかりに徹底的に攻めたてられた。

 

 周蘭(しゅうらん)たちの手兵は、みるみるうちに殺されていき、とうとう20人あまりを残すのみとなってしまった。

 

 激戦が続く戦場で、周蘭(しゅうらん)桓楚(かんそ)は、脂汗(あぶらあせ)まみれの疲れた顔を見合わせ、長く(なげ)いた。

「ふーっ……

 どうやら、我々の力では、これ以上は支えられそうにないな」

 

「ああ。

 (むな)しく敵の手にかかって虜囚(りょしゅう)(はずかし)めを受けるくらいなら……」

 

 2人は、うなずき交わすと、(そろ)って首を()き斬り、自殺した。

 残る20人あまりの()兵が、あっというまに皆殺(みなごろ)しとなったことは、言うまでもない。

 

 

   *

 

 

 また、別の場所で、もう1人の()将も最期(さいご)を迎えようとしていた。

 

 虞姫(ぐき)の弟、虞子期(ぐしき)

 

 虞子期(ぐしき)は、姉虞姫(ぐき)の死を見てから、どこか様子がおかしかったが……

 漢軍との戦いが始まると、たった1騎で漢軍に突っ込み、あっけなく死んでしまった。

 

 その姿は、まるで、敬愛する姉の後を追おうとするかのようであった。

 

 

   *

 

 

 一方。

 項羽は、どうにか漢軍の包囲を抜け出して、南へ、南へと走り続けた。

 

 項羽の手元に残った兵は、100騎あまり。

 南を目指して走っていると、項羽の行く手を、淮河(わいが)の流れが(ふさ)いだ。

 

 周囲を見回してみると、運よく、淮河(わいが)の岸に舟が一艘(いっそう)、繋がれている。

 これ(さいわ)いと、項羽と兵士たちは何度かに分けて舟で往復し、どうにか全員で川を渡り切ることに成功した。

 

 そこからさらに5、6里ほど進み、項羽たちは陰陵(いんりょう)という所へ来た。

 周囲を山に囲まれ、細い谷道が何筋(なんすじ)にも分岐(ぶんき)しているような所である。

 

 ここで項羽は、道に迷ってしまった。

 どの方向を見ても、同じような谷道ばかり。

 どちらへ行けば江東に近づけるのか、さっぱり分からない。

 

「どうしようか……」

 と考えているところに、突然、四方から、天を震わすような銅鑼(どら)・太鼓の音と、軍勢があげる(とき)の声が聞こえてきた。

 

 追手か伏兵か知らないが、とにかく漢軍が、すぐ近くにいるのだ。

 

 項羽は、慌てて道を探しはじめた。

 と、運よく、道のそばに1人の農夫が立っているのが見つかった。

 

 項羽は、その農夫に声をかけた。

「おい! 江東へは、どの道から行けばいいんだ?」

 

 農夫は、項羽の姿をジロッと見ると、心の中で思った。

「あの男、(にしき)(ほう)(たけ)の長い上着)と黄金の(よろい)を身につけているぞ。

 ただ者ではないな……

 

 さては、あれが()の項羽だな?

 あいつは、長いあいだ彭城(ほうじょう)(みやこ)を置いて、殺戮(さつりく)ばかり行い、人民に残酷な仕打(しう)ちをしてきた奴だ。

 

 あいつに正しい道を教えて救ってやったりしたら、俺に天罰が下っても、おかしくない。

 江東へ行きたいが道に迷った、だと? ふん! 正しい道など、教えてやるもんか」

 

 農夫は、じっと口をつぐみ、黙っていた。

 

 そんな農夫の内心を、もちろん項羽は知る(よし)もない。

 ただ見知らぬ人間を警戒しているだけだと早合点(はやがてん)し、優しく農夫に微笑(ほほえ)みかけた。

「ああ、怖がらなくていい。

 俺は西楚(せいそ)の覇王だ。

 

 今、漢軍に手酷(てひど)くやられて、江東へ逃げようとしているんだ。

 しかし、道が分からない。どっちへ行けばいいか、教えてくれないか」

 

 ここで農夫は、ふと、悪戯(いたずら)(ごころ)を起こした。

「それなら、左の道へ、お行きなさい」

 

 項羽は、

「おう! 助かったぞ!」

 と喜び、言われるままに左の道へ走り出した。

 

 だが……

 実は、こちらは江東へ繋がる道ではない。

 あの農夫は、項羽を(おとしい)れようと考え、わざと間違(まちが)った道を教えたのである。

 

 そうとは知らぬ項羽は、そのまま1里ほど先へ進んだ。

 ここで項羽は、うっかり大きな沼の中へ落ちてしまった。

 

 水底の泥土(でいど)は深く、簡単には抜け出せない。

 とはいえ、さすがに烏騅(うすい)は名馬。項羽が(むち)を入れると、一躍(いちやく)沼から飛び出した。

 

 どうにか沼から出られたが、思わぬ時間を食ってしまった。

 それが原因で……

 項羽は、沼から抜け出した直後、ついに漢軍に遭遇(そうぐう)してしまった。

 

 旗印(はたじるし)を見たところ、相手の大将は、漢将揚喜(ようき)らしい。

 

「おっ、揚喜(ようき)か」

 項羽の顔に、希望の色が差した。

 実はこの揚喜(ようき)、かつて()に仕えていた人物なのである。

 話せば、なんとかなるかもしれない。

 

 項羽は揚喜(ようき)に近づき、話しかけた。

「俺は、さっき大きな沼に落ちて、今、ようやく抜け出してきたところだ。

 力も弱っているし、馬も疲れていて、戦うことができない。

 

 揚喜(ようき)よ。汝は昔、数年のあいだ俺に仕えていたな。

 昔の(よしみ)を思いだし、俺と一緒に江東へ行かないか?

 そこで軍馬を整えたら、汝を万戸侯(ばんここう)(ほう)じてやろう」

 

 揚喜(ようき)は、首を横に振った。

「覇王様は、賢人を(あなど)り、忠義の諌言(かんげん)にも耳を貸さず、無道の行いをほしいままにして、とうとう、こんなありさまに成り果ててしまわれたのです。

 たとえ江東へたどり着いたとしても、もう、二度と再起は、できないでしょう。

 

 私は、漢に仕えて重く用いられております。

 漢王様の(めい)を受けて覇王様に追いつきましたが、昔の(よしみ)を考えると、お殺し申し上げるに忍びない。

 

 (よろい)(かぶと)を脱いで漢王様に降伏なさることを、お(すす)めします。

 さすれば、(とうと)い王侯の(くらい)を失わずに済むでしょう」

 

 項羽は、これを聞くと、いきなり怒り出した。

「この野郎ッ!」

 と、項羽は槍をあげて、揚喜(ようき)に突きかかった。

 

 

(つづく)

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