龍虎戦記 項羽vs劉邦【翻案・通俗漢楚軍談】   作:外清内ダク

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七十二の下 虞や虞や なんじを奈何せん

 

 

 逃走を続ける項羽の前に、漢将揚喜(ようき)が立ちはだかった。

 

 項羽と揚喜(ようき)は、20合あまりも戦った。

 と、ここで項羽は、槍を左の(わき)(はさ)み、右手で鉄鞭(てつべん)(鉄製の棒)を振り上げ、揚喜(ようき)(よろい)微塵(みじん)に打ち砕かんと振り回した。

 

 揚喜(ようき)は、慌てて身を縮め、鉄鞭(てつべん)を避けようとした。

 だが(かわ)しきれず、揚喜(ようき)は左の尻を(したた)かに打たれ、馬からドウッと転落してしまった。

 

 項羽は、再び槍に持ち替えて、揚喜(ようき)に、とどめを刺そうとした。

 

 が、そのとき。

 漢将の揚武(ようぶ)王翼(おうよく)呂勝(りょしょう)(りょ)()(とう)が、一斉に項羽のそばに駆けつけてきた。

 

 漢の大将たちは、揚喜(ようき)を救うべく、項羽と火を散らして戦い始めた。

 そこに、英布、彭越(ほうえつ)、王陵、周勃(しゅうぼつ)(ひき)いる追手(おって)までもが追いついてきて、項羽に攻撃を仕掛(しか)けた。

 

 いくら項羽が強くとも、たった100騎の兵では、漢軍の大軍に勝てるわけがない。

 さすがの項羽も勝つことを(あきら)め、ひたすら馬に(むち)打って、その場から逃げ出した。

 

 その逃走の最中(さなか)にも、()兵は()ち取られていき……

 どうにか漢軍のいない所まで逃げ切った時には、()兵は、わずか28騎にまで減ってしまっていた。

 

 

   *

 

 

 項羽は、東へ、ただ東へ、無心に馬を進め続けた。

 そうこうするうちに、空もだんだん暗くなってきた。

 道は細く、山は多く、樹木や草も(みつ)(しげ)っていて、なかなか行軍が、はかどらない。

 

 そのとき、28人の兵のうちの1人が言った。

「覇王様。

 もう何日も走り続け、さぞお疲れでしょう。

 

 臣らも、覇王様に従って万死(ばんし)一生(いっしょう)の戦いを繰り返してきましたが、まだ一度の(めし)も食えていません。

 馬にも、水も草も与えておりません。

 

 このあたりは山奥で、草木が鬱蒼(うっそう)としていて、道らしい道もありません。

 漢軍とて、すぐには追ってこられないでしょう。

 覇王様、このあたりの民家に入って、今夜は休息なさいませ。

 

 夜が明けたら、また道を(たず)ねて走るのです。

 もし夜中に走っていて、(あやま)って渓流(けいりゅう)や沼に落ちてしまったら、ますます人馬の疲労が増して、どうにもならなくなります」

 

 さすがの項羽も疲れ果てていたと見えて、素直に、うなずいた。

「そうだな……」

 

 そこから、足場に気を付けながら、ゆるゆる進んでいくと……

 林の中に、かすかに燈火(とうか)の光が見えてきた。

 

 光を頼りに林の中へ分け入っていくと、そこに、1つの古い屋敷があった。

 項羽が進んで屋敷の門前まで来ると、屋敷の脇のほうから、サラサラと水の流れる音が聞こえてきた。

 

「ちょうど良かった。馬に水を飲ませよう」

 水音のする方へ行くと、水の清らかな渓流(けいりゅう)が岩の間に細く流れているのが見つかった。

 

 項羽たちは、ひとまず馬に水を飲ませた。

 ここで項羽は、()びていた宝刀を抜き、近くの兵を1人呼んだ。

「おい。あそこにある岩で、この刀を(みが)いてこい」

 

 だが、呼ばれた兵は、()えと疲れのあまり、立ち上がることすらできないありさま。

 しかたなく、項羽は馬を下りて、みずから宝刀を(みが)こうと、そこらにあった大岩を押し倒した。

 

 すると、どうしたことだろう。

 倒れた岩の下から、水が湧き出てきて、たちまち大きな(いずみ)となったではないか。

 

 この屋敷は、名前を興教院(こうきょういん)と言って、烏江(うこう)から75里の位置にある。

 そのそばには、項羽が馬に水を飲ませた『項王飲馬泉』、刀を()いだ『卓刀泉』という古跡(こせき)が、今でも残っているという。

 

 

   *

 

 

 さて、項羽は、馬に水を飲ませ終えると、また屋敷の門前に戻ってきた。

 門の中に入り、両廊(りょうろう)(庭に面した長い建物)を(のぞ)いたが、人の姿が全く見あたらない。

 

 そこで、両廊(りょうろう)の横から回り込んで、奥の建物に近づいてみると……

 やっと、何人かの老人が囲炉裏(いろり)を囲んで座っているのが見つかった。

 

 項羽の部下の兵卒が、建物に入って老人たちに(たず)ねた。

「この屋敷は、どうしてこんなに人が少ないんだ?」

 

 老人の1人が答える。

「以前は、この屋敷に20人も人がおりました。

 しかし最近、漢と()(いくさ)が起きたので、みんな逃げ去ってしまったのです。

 

 私らは、近くの村の者です。

 この屋敷が荒れ果ててしまうと悲しいので、私らのような年老いた役立たずを置いて、屋敷を守らせておるのですよ。

 

 ところで、あなたがたは、一体どなたで?

 こんな夜更(よふ)けに、どうしてこんな山奥に、お越しになったのです?」

 

 兵卒は言った。

「あちらは西楚(せいそ)の覇王様だ。

 漢軍に追われ、夜中に道に迷って、ここへいらっしゃったのだ。

 

 どうか、屋敷の中に一晩(ひとばん)()めてもらえないだろうか? 明日になれば、すぐに出て行こう。

 それから、もし食べ物があれば、わけていただけると助かる」

 

 老人は、急に建物の外へ走り出て、項羽の前で地に拝伏した。

「この山野(さんや)愚民(ぐみん)、覇王陛下の御臨幸(ごりんこう)とは知らず、無礼をいたしました。どうか、罪をお許しくださいませ」

 

 項羽は、老人に優しく笑いかけた。

「いや、かまわん、かまわん。

 むしろ世話になる。

 

 汝ら、米があったら()いて食わせてくれ。

 俺が江東に落ち延びることができたら、1(せき)の米を100(せき)にして返そう」

 

 老人たちの1人は、普段から書を読む知識人であった。

 その老人は、項羽の前に進み出て、言った。

「覇王様は、西楚(せいそ)の君主。この土地は西楚(せいそ)の領域。

 すなわち、我らは(みな)、覇王様の(たみ)でございます。

 

 覇王様に一飯(いっぱん)を献上するなど、むしろ(さいわ)いでございます。

 どうしてお返しなどを求めましょうか」

 

 そして老人たちは、米1(せき)(31kg)を出してきて()き、また山菜を()ってきて(こう)(汁料理)を作り、項羽に、ふるまった。

 

 項羽は限りなく喜び、28人の兵士たちと食べ物を分け合って、その夜は屋敷の中に()まったのだった。

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

■次回予告■

 

 国も、軍も、妻も、将も、ひとつひとつ失って、残るは愛馬と28人の兵士のみ。項羽は苦しみの中で走り続け、戦い続けた。暴虐の(しん)()つために義の旗を()げて(はや)6年。古今(ここん)比類なき抜山(ばつざん)蓋世(がいせい)の英雄が、今、長き道の果てに立つ。

 いついつまでも続くと思えた遥かな旅路。極みは果たして、奈辺(なへん)にありや。

 

 次回「龍虎戦記」第七十三回

 『覇道の果てるとき』

 

 ()う、ご期待!




●注釈
 本編には『興教院(こうきょういん)』『項王飲馬泉』『卓刀泉』なる古跡(こせき)が現存すると書かれていたが、そのような古跡(こせき)は確認できなかった。「西漢通俗演義」が書かれた(みん)の時代にはあったのか、はたまた最初からそんな土地は無かったのか。残念ながら真相不明である。
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