龍虎戦記 項羽vs劉邦【翻案・通俗漢楚軍談】   作:外清内ダク

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十の上 馬か? 鹿か?

 

 

 (ちょう)()った項羽は、30万の精兵を率いて章邯(しょうかん)を追った。

 

 その道々で、項羽は百姓たちから歓喜の声をもって迎えられた。

 噂の伝わる速度は、思いのほか速い。この頃にはもう、(しん)軍を壊走させた項羽の武勇は天下に鳴り響いていたのだ。

 百姓たちは素朴な米櫃(こめびつ)に食べ物を詰め、壺に飲み物を満たし、圧政からの解放者項羽を精一杯にもてなした。

 それだけではない。各地の諸侯もまた、自発的にやってきて、項羽に帰服した。

 

 おかげで項羽率いる()軍の威風はますます盛り上がったが、その反面、行く先々での歓待に時間を取られ、進軍速度は格段に落ちた。

 1日あたり30里から50里(12km〜20km)進むのがやっと、というところ。これまでの風のような速さを思えば、いかにも遅い。

 こうしてモタついている間に、(しん)の敗軍は遥か遠くまで落ちのびてしまった。

 

 項羽は、あの気性である。せっかく仕留めかけた章邯(しょうかん)をみすみす取り逃がしてしまったことに、相当いらついていたに違いない。

 そこへ軍師范増(はんぞう)がやってきて、おだやかに(いさ)めた。

 

「項羽将軍、そなたはたった3日で9度も戦い、(しん)の兵30万を打ち破った。これほどの戦功は古今聞いたことがない。

 その結果、章邯(しょうかん)は逃げうせて行方(ゆきがた)知れず。諸侯はみな項羽将軍に帰服した。

 これまさに天人(てんじん)(おう)。項羽将軍という人の行いが天意にピタリと(かな)っていたからこそ成しとげられたことだ。

 

 将軍の家を、ただの『家』から大いなる『国』へと成りあがらせる(はかりごと)は、今この時から始まる。なのに、どうして大切な御身(おんみ)を軽々しく矢石の危険にさらして、食いつめ盗賊ごときを追いかけなさる?

 

 私が愚考するに、今は漳南(しょうなん)の地に陣を置き、しばし人馬の気力を養うのがよろしかろう。

 

 (しん)の二世皇帝はいわゆる暗君で、(いくさ)の苦しみを知らぬ。また丞相(じょうしょう)趙高は嫉妬(しっと)(ぶか)小人(しょうじん)だ。

 大敗した章邯(しょうかん)は本国に救援を()うだろうが、思うようにはいくまい。(しん)の者どもは心に疑いを抱いて、きっと内変を起こすであろう。

 

 その時、相手の気構えができていない所を狙って攻撃をしかければ、こちらには項羽将軍の神武(しんぶ)(神がかり的な武勇)があるのだ。(しん)を滅ぼすことなど、(たなごころ)(うち)というものさ」

 

 項羽は、じっと老軍師の言葉を聞いていたが、やがて、神妙な顔でうなずいた。

「よく分かりました。先生の教えに従います」

 そして范増(はんぞう)の提案通り漳南(しょうなん)に陣を構え、兵を休ませながらじっと様子を(うかが)い始めたのだった。

 

 

   *

 

 

 このころ、(しん)の二世皇帝は日夜酒食に(おぼ)れて遊楽に(ふけ)り、天下の政治は宦官(かんがん)趙高一人に任せきっていた。

 

 当然の帰結として、政治の実権は趙高の手に握られた。趙高は好き勝手に国を動かし、少しでも意志に従わない者がいれば、ひそかに濡れ衣を着せて処罰した。

 それゆえ朝廷の官僚たちは震え、怖れ、一人残らず趙高に()びへつらうようになったのだった。

 

 こんな状況の(しん)へ、章邯(しょうかん)が帰ってきた。

 出陣時には30万いた大軍が、今や、わずか10万人。やっとの思いで漳河(しょうが)を渡り、(しん)の入口にあたる要害函谷関(かんこくかん)に逃げ込んだ章邯(しょうかん)は、(みやこ)咸陽(かんよう)へと早馬を飛ばした。

 

『天下の諸侯はみな(しん)(そむ)いた。()の項羽の勢いはますます強まり、(しん)の地を攻めようとしている。

 これを防ぐために援軍が必要だ。事態は急を要する!』

 

 だが、章邯(しょうかん)必死の(うった)えは、あろうことか、趙高の手によって握り潰されてしまった。

 章邯(しょうかん)に援軍を送るとなれば、二世皇帝に事態を報告せざるをえない。趙高は、敗戦の責任を問われることを嫌がっていたのだ。

 

 無論、すぐに対処せねば事態が悪化する一方であると認識している者もいた。だが官僚たちは、趙高に(にら)まれるのを恐れ、皇帝に真実を伝えることもできなかった。

 

 

   *

 

 

 ある日、趙高は己の威勢がどれほどのものか試してみようと、たわけた悪戯(いたずら)をしかけた。

 一匹の鹿を二世皇帝に献上し、こう言ったのである。

「これは馬でございます」

 

 二世皇帝は溜息をついた。

丞相(じょうしょう)、どうしてこんなことを間違える? これは鹿だ。馬ではない。

 のう、(なんじ)らもそう思うであろう?」

 

 二世皇帝のこの問いに対して、官僚たちの意見は分かれた。

 ある者は、何も答えず口をつぐみ……

 ある者は、「馬だ」と答えて趙高に(おもね)り……

 またある者は、「鹿だ!」と直言して意見を戦わせた。

 

 この茶番を、趙高は、じいっ……と見つめていた。

 そして後日、「鹿だ」と言った者たちを、影で皆殺しにしたのである。

 

 官僚たちに恐怖が走った。それ以後、国の政治に意見を述べる者は、一人もいなくなってしまった。

 『鹿を指して馬と為す』……一説によると、『馬鹿』とはこの故事に由来する言葉であるという。

 

 

   *

 

 

 この状況を苦い目で見ている者が一人いた。

 もう一人の丞相(じょうしょう)李斯(りし)である。

 

 (しん)では、昔から左右二人の丞相(じょうしょう)を置いている。

 つまり、(くらい)の上では李斯(りし)も趙高と同格。

 その李斯(りし)が、趙高の専横に懸念を抱いていたのだ。趙高から見れば、いささか危険な兆候である。

 

 そこである日、趙高はそしらぬ顔をして李斯(りし)に相談を持ちかけた。

 

「ああ李斯(りし)さん、ご存知でしょう? いま、関東(函谷関(かんこくかん)の東)の諸侯がことごとく(しん)(そむ)きはじめていることを。

 章邯(しょうかん)さんほどの名将でさえ、30万の兵を失いました。我が国は追い詰められております。

 それなのに皇帝陛下ときたら、遊楽にばっかり(ふけ)って、そのうえ阿房宮(あぼうきゅう)(巨大宮殿)造営で、とーんでもないお金を浪費し続けているんですよ。

 このままじゃいけません……でも、わたくし、もともと宦官(かんがん)でしょう? 諌言(かんげん)をするのはちょっと苦手で。

 李斯(りし)さん、代わりに陛下を(いさ)めてくださいません?」

 

 李斯(りし)(うな)った。

「その問題は私も深く憂慮していた。しかし陛下はいつも後宮の奥深くに(こも)っていて、朝廷に出ていらっしゃらない。お(いさ)めする機会がないのだ」

 

 趙高が、いかにも(たの)もしく微笑を浮かべる。

「奥のことは宦官(かんがん)のわたくしにお任せあれ。

 陛下がお手すきになったら、わたくしから連絡します。その時に宮殿にいらして、陛下に奏聞(そうもん)なさいませ」

 

 李斯(りし)と話をつけると、趙高は宮中に戻り、酒宴を開いた。

 美しい宮女たちを集めて舞わせ歌わせ、二世皇帝が楽しく遊んでいる時を見計(みはか)らって、こっそり使者を走らせた。

 

 使者の行き先はもちろん李斯(りし)の所。口上も単純。

『今です』

 

 李斯(りし)は、もともと法家(ほうか)思想を専門とする学者である。その学才を(しん)王政――後の始皇帝に高く評価され、今の地位にまで上りつめたのだ。

 人格の根っこが学者肌であったから、だろうか……彼は、趙高の仕掛けた罠にまったく気付かなかった。

 

 李斯(りし)は疑いもせずに急いで朝廷へ出仕し、二世皇帝に拝謁(はいえつ)を願い出た。

 しかし、今まさに(えん)もたけなわ。二世皇帝は会おうとしない。

 ()れた李斯(りし)は、そのまま三度も拝謁(はいえつ)の要請を繰り返した。

 

 三度目で、ついに二世皇帝は激怒した。

(ちん)が宮中で楽しんでいるときに、李斯(りし)はなんでこう軽々しく邪魔をするのだ!」

 

 その耳元に、趙高が、そっとささやいた。

「始皇帝がお崩れあそばされた時、太子胡亥(こがい)を廃して陛下を二世皇帝の位に押し上げたのは、もっぱら李斯(りし)の力によるものでした。

 おそらく李斯(りし)は、陛下が皇帝の座におつきになったら自分も王侯になれるだろう、とでも思っていたのでしょう。でもそんな様子がありませんから、彼は深く陛下を(うら)んでいるのです。

 

 ここだけの話……李斯(りし)の長男の李由。彼は三川(さんせん)郡の太守となりましたが、なんと先日、ひそかに()の盗賊どもと連絡を取り合っていることが明らかになったのです。

 まして、丞相たる李斯(りし)の権威は陛下をすら(しの)ぐほど。楚人(そじん)と通じ合っているのは、野心がある証拠でございます。

 どうか陛下。よーく、お考えくだいませ」

 

 根も葉もない嘘八百。だが二世皇帝はこれを信じた。

 

 李斯(りし)は、このやりとりを宮中の者から聞かされた。

「しまった! 趙高は私を殺そうとしているのだ!」

 愕然(がくぜん)とする李斯(りし)。だが時すでに遅く、すでに彼はのっぴきならない窮地に(おとしい)れられていたのである。

 

 

(つづく)

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