龍虎戦記 項羽vs劉邦【翻案・通俗漢楚軍談】   作:外清内ダク

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七十三の中 覇道の果てるとき

 

 

 項羽は、上機嫌に笑いながら馬を飛ばした。

 そして一行は、ついに、長江の北岸へと到着した。

 

 先にも述(の)べたとおり、このあたりは長江の渡し場になっている。

 項羽が、どこかに舟が無いかと探していると……

 

 1人の男が、1艘(そう)の舟を用意し、川辺に、じっと佇(たたず)んでいるのが見つかった。

 どうやらその男の方でも、項羽を見つめているようである。

 

 項羽が男に近づいていくと、男は、丁寧(ていねい)に礼をした。

「覇王様、お待ちしておりました。

 私は、この烏江(うこう)の亭(てい)(宿舎)の長(おさ)でございます。

 

 江東は小さいとは申しましても、地方の集落まで含めれば、千里の広さがございます。

 覇王様の名は、江東では非常に重んじられております。

 江東に渡って兵を集めなされば、数十万の軍を再び組織することも可能でしょう。

 

 どうぞ、早々にお渡りくださいませ。

 今、このあたりには、私の舟の他には1艘(そう)の舟もありません。

 

 もし漢軍が来たら、私が、この舟で川の真ん中まで漕(こ)ぎ出てしまいましょう。

 それでもう漢軍は川を渡ることが、できなくなります。

 覇王様は、江東で自由に動けるようになるのです」

 

 だが。

 項羽は、ここへきて、なぜか首を横に振った。

「天は、もう俺を滅ぼしたのだ。

 いまさら長江を渡っても、どうなるというんだ。

 

 それに……籍(せき)(項羽の諱(いみな))は、かつて江東の子弟(してい)8千人を連れて、長江を渡った。

 それが今はもう、1人も残っていない。

 

 8千子弟(してい)の親や家族は、きっと俺を深く恨(うら)んでいるだろう。

 あるいは、恨(うら)まずに憐(あわ)れんで、俺を王にしてくれるかもしれないが……

 だからといって、どんな顔で江東の人々に会えばいいというんだ。

 

 誰も何も言わなくたって、俺が……この俺自身が、恥ずかしくてならないんだ」

 

 烏江(うこう)の亭長(ていちょう)は、項羽の心を変えようと、懸命に説得を試みた。

「覇王様は、はなはだ誤(あやま)っておられます!

 勝敗は兵家(へいけ)の常(つね)です。

 

 昔、漢王劉邦は、睢水(すいすい)で覇王様と戦って大敗し、30万以上の兵を失いました。

 あの時、睢水(すいすい)ほどの大河が死体で堰(せ)き止められ、流れが止まってしまったとか。

 

 それでも劉邦は志(こころざし)を捨てませんでした。

 たった1人で山を越え、川を渡り、あるいは古井戸(ふるいど)の中へ隠れるなどして命(いのち)拾(びろ)いし、ついに、今のように勢力を盛り返したではありませんか。

 

 今日の覇王様の敗北は、かつて劉邦が睢水(すいすい)で敗れたときに、そっくりです。

 ここで耐え忍んで、計略を巡(めぐ)らせれば、再び天下統一を狙うことができます。

 

 それなのに、8千子弟(してい)がどうこう、などと、どうしてそんな細々(こまごま)した器量の狭いことばかり仰(おっしゃ)るのです!

 

 古(いにしえ)より、『大事業を成しとげようとする者は、細(こま)かなことを気にしない』と申します。

 漢の兵は、すぐに追ってきます!

 覇王様! さあ、早くお渡りくださいませ!」

 

 それでも、項羽は聞き入れなかった。

「御辺(ごへん)の言うことは、正しいと思う。

 でも、俺の心が、そうやって生きのびることを恥じているんだ。

 漢軍が追いついてきたら、この首を渡してやるだけさ」

 

 亭長(ていちょう)は、口をつぐんでしまった。

 だが、それでも亭長(ていちょう)は項羽を見捨てて去ることができず、何度も嘆(なげ)きながら、項羽のそばに立ち尽くしていた。

 

 項羽は、そんな亭長(ていちょう)を見て、無性(むしょう)に嬉しく思った。

 そこで、亭長(ていちょう)に言った。

「貴公は、親切で徳のある人だな。

 その志(こころざし)を嬉しく思う。

 なにか礼がしたいが、あいにく俺は、もう何も持ち合わせていない……

 

 俺が乗ってきたこの馬は、烏騅(うすい)といって、1日で千里を駆ける俊足なんだ。

 俺は、こいつに乗って戦場を駆け続け、向かうところ敵無しだった。

 

 この馬を放っておいたら、きっと劉邦に盗(と)られてしまうだろう。

 それは嫌だ。

 かといって、俺の手で、こいつを殺したくもない。

 

 そこで……

 この烏騅(うすい)を、貴公への贈(おく)り物としよう。

 舟に載せて長江を渡り、向こうで、かわいがってやってくれ。

 この馬を見て、ときどき俺のことを思いだしてくれたら嬉しいな」

 

 亭長(ていちょう)は、もはや項羽の決意は変えられぬものと悟(さと)り、丁重(ていちょう)に拝謝した。

 

 項羽の命令で、兵士の1人が、烏騅(うすい)の手綱(たづな)を引いて舟の方へ連れて行った。

 烏騅(うすい)は……事態を悟(さと)ったのだろう。咆哮(ほうこう)し、飛び跳ねて暴れ、何度も何度も項羽の方を振り返り、舟に乗るまいと抵抗した。

 

 項羽は、そんな愛馬の姿を見て、

「ああっ……!」

 と叫び、地に膝(ひざ)をついて、咽(むせ)び泣いた。

 

 結局、兵士たち数人がかりで轡(くつわ)を引き、やっとのことで烏騅(うすい)を舟に載せた。

 

 亭長(ていちょう)が、棹(さお)を握って、舟を押し出す。

 静かに流れる長江の上で、舟は次第(しだい)次第(しだい)に遠ざかっていく。

 烏騅(うすい)は、なおも別れを惜しみ、岸辺にいる項羽を、じっと見つめ続けた……

 

 と、そのとき。

 

 烏騅(うすい)は、苦しげに数回、大きく嘶(いなな)いたかと思うと、一躍(いちやく)、舟から長江へ飛び込んだ。

 

「あっ!」

 その場にいた全員が、驚いて声を上げた。

 

 長江の波が、烏騅(うすい)を飲み込む。

 龍馬(りゅうめ)の姿が、たちまち水の下へ消えていく……

 

 亭長(ていちょう)は、夢から覚めたような気持ちで、しばし、呆然と波間を眺(なが)めていた。

 しかし……もう、どうすることもできない。

 亭長(ていちょう)は、舟を漕(こ)いで、そのまま去っていった。

 

 そして、項羽は。

 項羽は、烏騅(うすい)が長江に身を投げたのを見て、胸が張り裂けんばかりの悲しみに襲われた。

 

 漢軍が追いついてきたのは、この時だった。

 

 項羽は、ゆらり、と陽炎(かげろう)のように立ち上がった。

 

 項羽は、26人の兵と共(とも)に、徒歩(かち)で漢軍を迎え討(う)った。

 それぞれ短刀を握り、命(いのち)の限りとばかり、左に当たり、右に突きかかり、敵の中へ駆け入っては首を取り、引き返しては薙ぎ倒し、ここでもまた数百人の漢兵を討(う)ち取った。

 

 しかし。

 もう烏騅(うすい)は、いない。馬無しでは機動力がまるで違う。

 

 さすがの項羽も、徒歩(かち)での戦いでは、全ての攻撃を防ぎきることができず……

 いつしか項羽の体には、10ヶ所以上もの傷が刻まれていた。

 

 項羽は、鎧(よろい)の中を流れ落ちる血の温かさを感じながら、口の端に笑みを浮かべる。

「ここまで……か」

 

 そのとき、背後から馬の足音が聞こえてきた。

 項羽が振り返れば、漢の大将が1人、戟(げき)を挙(あ)げて近づいてきている。

 

 項羽は、その大将の顔を見て、

「おっ?」

 と声を上げた。

 

 項羽が、漢将に呼びかける。

「汝は、俺の故人(こじん)じゃないか?」

 

 漢将は、ハッと息を飲み、馬を止めた。

 中国語で『故人(こじん)』とは、『古い友人』の意味である。

 

 漢将は、項羽を正面から見ることもできず、震える声で……答えた。

「……はい。臣(・)は、まさしく覇王様の故人(こじん)、呂(りょ)馬(ば)通(とう)でございます……」

 

 呂(りょ)馬(ば)通(とう)。

 彼は、項羽の旗挙(はたあ)げ以前から付き合いのある、古い友人だった。

 

 項羽が秦(しん)討伐(とうばつ)の軍を組織すると、呂(りょ)馬(ば)通(とう)も、楚(そ)軍に加わった。

 秦(しん)滅亡後は章邯(しょうかん)の下に配属され、三秦(さんしん)の守りについた。

 

 だが、ここで劉邦が三秦(さんしん)討伐(とうばつ)の兵をあげた。

 章邯(しょうかん)は韓信の計略によって戦死し……

 呂(りょ)馬(ば)通(とう)は韓信に降伏し、それからずっと、漢の将として戦い続けてきたのだ。

 

 呂(りょ)馬(ば)通(とう)には、引け目があった。

 主君を裏切ると同時に、友人までも裏切ってしまった……そのことが、ずっと呂(りょ)馬(ば)通(とう)の胸に引っ掛かっていた。

 もしここで『見逃(みのが)せ』と言われていたら、おそらく呂(りょ)馬(ば)通(とう)は、言われるままに項羽を見逃(みのが)してしまっただろう。

 

 だが。

 呂(りょ)馬(ば)通(とう)が、

「覇王様、私に何を申しつけなさりたいのですか」

 と問うと……

 

 項羽は、怒るでもなく、淡々と尋(たず)ねた。

「噂(うわさ)で聞いたが、劉邦が俺の首に賞金をかけたらしいな。

 『項羽の首を取った者は、千金を与えて万戸侯(ばんここう)に封(ほう)ずる』と……

 本当か?」

 

 呂(りょ)馬(ば)通(とう)が、うつむく。

「は……本当です」

 

「そうか……」

 

 項羽は、晴れ晴れとした顔で、笑った。

「兵を失い、

 将を失い、

 虞姫(ぐき)を失い、

 烏騅(うすい)も失(な)くして、

 残ったものは、この身(み)ひとつだ。

 

 古なじみの好(よしみ)で、汝に、やる。

 劉邦に届けて万戸(ばんこ)侯(こう)に封(ほう)ぜられ、千金の恩賞を受け取るがいい」

 

 優しい声で、それだけ言うと、項羽は……

 すっ……と己(おのれ)の首に剣を走らせ、死んだ。

 

 覇王項羽。

 始皇帝の15年己巳(きし)に生まれ、このとき大漢の5年己亥(きがい)12月。

 行年(ぎょうねん)31歳であった――

 

 

(つづく)

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