項羽は、上機嫌に笑いながら馬を飛ばした。
そして一行は、ついに、長江の北岸へと到着した。
先にも述べたとおり、このあたりは長江の渡し場になっている。
項羽が、どこかに舟が無いかと探していると……
1人の男が、1艘の舟を用意し、川辺に、じっと佇んでいるのが見つかった。
どうやらその男の方でも、項羽を見つめているようである。
項羽が男に近づいていくと、男は、丁寧に礼をした。
「覇王様、お待ちしておりました。
私は、この烏江の亭(宿舎)の長でございます。
江東は小さいとは申しましても、地方の集落まで含めれば、千里の広さがございます。
覇王様の名は、江東では非常に重んじられております。
江東に渡って兵を集めなされば、数十万の軍を再び組織することも可能でしょう。
どうぞ、早々にお渡りくださいませ。
今、このあたりには、私の舟の他には1艘の舟もありません。
もし漢軍が来たら、私が、この舟で川の真ん中まで漕ぎ出てしまいましょう。
それでもう漢軍は川を渡ることが、できなくなります。
覇王様は、江東で自由に動けるようになるのです」
だが。
項羽は、ここへきて、なぜか首を横に振った。
「天は、もう俺を滅ぼしたのだ。
いまさら長江を渡っても、どうなるというんだ。
それに……籍(項羽の諱)は、かつて江東の子弟8千人を連れて、長江を渡った。
それが今はもう、1人も残っていない。
8千子弟の親や家族は、きっと俺を深く恨んでいるだろう。
あるいは、恨まずに憐れんで、俺を王にしてくれるかもしれないが……
だからといって、どんな顔で江東の人々に会えばいいというんだ。
誰も何も言わなくたって、俺が……この俺自身が、恥ずかしくてならないんだ」
烏江の亭長は、項羽の心を変えようと、懸命に説得を試みた。
「覇王様は、はなはだ誤っておられます!
勝敗は兵家の常です。
昔、漢王劉邦は、睢水で覇王様と戦って大敗し、30万以上の兵を失いました。
あの時、睢水ほどの大河が死体で堰き止められ、流れが止まってしまったとか。
それでも劉邦は志を捨てませんでした。
たった1人で山を越え、川を渡り、あるいは古井戸の中へ隠れるなどして命拾いし、ついに、今のように勢力を盛り返したではありませんか。
今日の覇王様の敗北は、かつて劉邦が睢水で敗れたときに、そっくりです。
ここで耐え忍んで、計略を巡らせれば、再び天下統一を狙うことができます。
それなのに、8千子弟がどうこう、などと、どうしてそんな細々した器量の狭いことばかり仰るのです!
古より、『大事業を成しとげようとする者は、細かなことを気にしない』と申します。
漢の兵は、すぐに追ってきます!
覇王様! さあ、早くお渡りくださいませ!」
それでも、項羽は聞き入れなかった。
「御辺の言うことは、正しいと思う。
でも、俺の心が、そうやって生きのびることを恥じているんだ。
漢軍が追いついてきたら、この首を渡してやるだけさ」
亭長は、口をつぐんでしまった。
だが、それでも亭長は項羽を見捨てて去ることができず、何度も嘆きながら、項羽のそばに立ち尽くしていた。
項羽は、そんな亭長を見て、無性に嬉しく思った。
そこで、亭長に言った。
「貴公は、親切で徳のある人だな。
その志を嬉しく思う。
なにか礼がしたいが、あいにく俺は、もう何も持ち合わせていない……
俺が乗ってきたこの馬は、烏騅といって、1日で千里を駆ける俊足なんだ。
俺は、こいつに乗って戦場を駆け続け、向かうところ敵無しだった。
この馬を放っておいたら、きっと劉邦に盗られてしまうだろう。
それは嫌だ。
かといって、俺の手で、こいつを殺したくもない。
そこで……
この烏騅を、貴公への贈り物としよう。
舟に載せて長江を渡り、向こうで、かわいがってやってくれ。
この馬を見て、ときどき俺のことを思いだしてくれたら嬉しいな」
亭長は、もはや項羽の決意は変えられぬものと悟り、丁重に拝謝した。
項羽の命令で、兵士の1人が、烏騅の手綱を引いて舟の方へ連れて行った。
烏騅は……事態を悟ったのだろう。咆哮し、飛び跳ねて暴れ、何度も何度も項羽の方を振り返り、舟に乗るまいと抵抗した。
項羽は、そんな愛馬の姿を見て、
「ああっ……!」
と叫び、地に膝をついて、咽び泣いた。
結局、兵士たち数人がかりで轡を引き、やっとのことで烏騅を舟に載せた。
亭長が、棹を握って、舟を押し出す。
静かに流れる長江の上で、舟は次第次第に遠ざかっていく。
烏騅は、なおも別れを惜しみ、岸辺にいる項羽を、じっと見つめ続けた……
と、そのとき。
烏騅は、苦しげに数回、大きく嘶いたかと思うと、一躍、舟から長江へ飛び込んだ。
「あっ!」
その場にいた全員が、驚いて声を上げた。
長江の波が、烏騅を飲み込む。
龍馬の姿が、たちまち水の下へ消えていく……
亭長は、夢から覚めたような気持ちで、しばし、呆然と波間を眺めていた。
しかし……もう、どうすることもできない。
亭長は、舟を漕いで、そのまま去っていった。
そして、項羽は。
項羽は、烏騅が長江に身を投げたのを見て、胸が張り裂けんばかりの悲しみに襲われた。
漢軍が追いついてきたのは、この時だった。
項羽は、ゆらり、と陽炎のように立ち上がった。
項羽は、26人の兵と共に、徒歩で漢軍を迎え討った。
それぞれ短刀を握り、命の限りとばかり、左に当たり、右に突きかかり、敵の中へ駆け入っては首を取り、引き返しては薙ぎ倒し、ここでもまた数百人の漢兵を討ち取った。
しかし。
もう烏騅は、いない。馬無しでは機動力がまるで違う。
さすがの項羽も、徒歩での戦いでは、全ての攻撃を防ぎきることができず……
いつしか項羽の体には、10ヶ所以上もの傷が刻まれていた。
項羽は、鎧の中を流れ落ちる血の温かさを感じながら、口の端に笑みを浮かべる。
「ここまで……か」
そのとき、背後から馬の足音が聞こえてきた。
項羽が振り返れば、漢の大将が1人、戟を挙げて近づいてきている。
項羽は、その大将の顔を見て、
「おっ?」
と声を上げた。
項羽が、漢将に呼びかける。
「汝は、俺の故人じゃないか?」
漢将は、ハッと息を飲み、馬を止めた。
中国語で『故人』とは、『古い友人』の意味である。
漢将は、項羽を正面から見ることもできず、震える声で……答えた。
「……はい。臣は、まさしく覇王様の故人、呂馬通でございます……」
呂馬通。
彼は、項羽の旗挙げ以前から付き合いのある、古い友人だった。
項羽が秦討伐の軍を組織すると、呂馬通も、楚軍に加わった。
秦滅亡後は章邯の下に配属され、三秦の守りについた。
だが、ここで劉邦が三秦討伐の兵をあげた。
章邯は韓信の計略によって戦死し……
呂馬通は韓信に降伏し、それからずっと、漢の将として戦い続けてきたのだ。
呂馬通には、引け目があった。
主君を裏切ると同時に、友人までも裏切ってしまった……そのことが、ずっと呂馬通の胸に引っ掛かっていた。
もしここで『見逃せ』と言われていたら、おそらく呂馬通は、言われるままに項羽を見逃してしまっただろう。
だが。
呂馬通が、
「覇王様、私に何を申しつけなさりたいのですか」
と問うと……
項羽は、怒るでもなく、淡々と尋ねた。
「噂で聞いたが、劉邦が俺の首に賞金をかけたらしいな。
『項羽の首を取った者は、千金を与えて万戸侯に封ずる』と……
本当か?」
呂馬通が、うつむく。
「は……本当です」
「そうか……」
項羽は、晴れ晴れとした顔で、笑った。
「兵を失い、
将を失い、
虞姫を失い、
烏騅も失くして、
残ったものは、この身ひとつだ。
古なじみの好で、汝に、やる。
劉邦に届けて万戸侯に封ぜられ、千金の恩賞を受け取るがいい」
優しい声で、それだけ言うと、項羽は……
すっ……と己の首に剣を走らせ、死んだ。
覇王項羽。
始皇帝の15年己巳に生まれ、このとき大漢の5年己亥12月。
行年31歳であった――
(つづく)