龍虎戦記 項羽vs劉邦【翻案・通俗漢楚軍談】   作:外清内ダク

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七十四の中 論功行賞

 

 

 かくして、韓信は()王の(くらい)についた。

 

 韓信が()王となって最初にしたことは、ある2人の人物を探させることだった。

 1人は、淮水(わいすい)の近くに住む漂母(ひょうぼ)(木綿を洗う仕事の女)。

 もう1人は、淮陰(わいいん)の市場にいる不良青年。

 

 そう……

 まだ韓信が無名であったころ、()えた韓信に食事を(めぐ)んでくれた、あの漂母(ひょうぼ)と……

 韓信に股潜(またくぐ)りを強要して(はずかし)めた、あの不良青年である。

 

 10日ほどで、漂母(ひょうぼ)と不良青年は見つかった。

 2人は韓信の宮殿に招き入れられ、韓信の前まで案内されたが……

 2人とも、震え恐れて床に拝伏し、韓信を見上げようともしなかった。

 

 韓信は、苦笑した。

「ま、そんなに怖がらなくてよろしい。

 おい、用意しておいたものを」

 

 と、韓信は部下に(めい)じた。

 すると部下は、なんと、千両もの黄金を漂母(ひょうぼ)の前に運んできた。

 

 漂母(ひょうぼ)が目を白黒させていると、韓信が微笑(ほほえ)みながら言った。

「私が昔、淮水(わいすい)で釣りをしているとき、汝は()えた私に食事を与えてくれた。

 私は、汝の思いやりに感じ入って、『いつか裕福になったら、手厚くご恩返しをしよう』と言ったな。

 

 あのとき汝は、怒って、こう言った。

『いい年をした男が自分で飯の種を稼ぐこともできない。それを憐れんで食事を恵んでやったんだ。恩返しなんか期待してると思うのか!』

 

 ふふふ……期待していなかった恩返しを受けて、今の気持ちは、どうかね?」

 

 この悪戯(いたずら)な物言いが、韓信らしいというか、なんというか。

 漂母(ひょうぼ)は、床に頭をこすりつけて感謝の言葉を述べ、退出していった。

 

 次に韓信は、例の不良青年に目を向けた。

 

 韓信が名を上げれば上げるほど、『股潜(またくぐ)り』の逸話も広く世間に知れ渡っていった。

 今や『韓信の股潜(またくぐ)り』を知らぬ者は、この中国に誰もいないというほどである。

 

 その『股潜(またくぐ)り』当事者が、王となった韓信の前に連れて来られた。

 当然、不良青年は、どんな罰が与えられるのかと、恐れ(おのの)いていたのだが……

 

 韓信は、誰もが予想だにしないことを口にした。

「汝を中尉(ちゅうい)に任命する」

 

 不良青年は、驚きのあまり凍り付いた。

 この当時の中尉(ちゅうい)は、(みやこ)の警備隊長とでも言うべき重役である。

 

 不良青年は、おそるおそる(たず)ねた

「あのう、わたくしめは、まったくバカで粗野な田舎者でしたから、あなた様が、こんなに(とうと)くなられるなんて夢にも思わず、誤って無礼を働いてしまいました……

 

 誅殺(ちゅうさつ)せずに見逃(みのが)していただけるだけでも、十分に幸せだと思っておりましたのに……

 まさか、中尉(ちゅうい)なんて高官に任命していただけるとは……

 これは、一体どういうわけで……?」

 

 韓信は、真顔になって答えた。

私憤(しふん)によって報復したり、人から受けた恩や(うら)みのために喜んだり怒ったり……そんなのは小人(しょうじん)のやることだ。

 この私が、そんなマネを、すると思うのか?

 とにかく、辞退せずに引き受けたまえ」

 

 不良青年は、わけも分からぬまま、恩に感謝する言葉を述べて、退出していった。

 

 その後で、韓信は、左右の部下に言った。

「あの男は壮士(勇敢な若者)だよ。

 昔、彼が私を(はずかし)めた時、もし私が彼を殺していたら、今の私はありえなかった。

 

 私は、あの屈辱に耐えることで、今の地位を手に入れたのだ。

 つまり、あの若者は、私が功績を建てるのを助けてくれたようなものだ。

 それゆえ、彼に官職を与えることにしたのだよ」

 

 韓信の部下たちは、感嘆した。

「これぞまさに、『徳をもって(うら)みに(むく)いる』というものです。

 並の人間に、できることではありませんよ」

 

 

   *

 

 

 さて、その年の正月。

 (ちょう)張耳(ちょうじ)()王韓信などが、文武の諸将と(とも)に劉邦に謁見(えっけん)し、こんなことを奏上した。

 

「ついに争いが終わって天下が静かになり、人民が生業(せいぎょう)を楽しめるようになりました。

 そこで……

 漢王様は、今こそ皇帝に即位なさって、民衆を安心させてくださいませ」

 

 劉邦は、目を丸くした。

「皇帝だって? 始皇帝と同じ(くらい)につけってのか?

 

 でも、俺は聞いたことがあるぞ。

『帝の(くらい)は、賢者がつくものだ。

 根拠のない言葉や嘘の言葉を語る者が、ついてよい(くらい)ではない』ってさ。

 

 俺は才能も無いし、人徳も薄いし……

 皇帝なんて、とても無理だよ」

 

 しかし、群臣は口々に言った。

「漢王様は、ごく小さな勢力から始めて、暴虐の(しん)を滅ぼし、()(ぞく)誅殺(ちゅうさつ)して四海(世界)を平定なさいました。

 

 そして、功績のある者は、ことごとく領地を与えて王侯に(ほう)じなさったのです。

 

 しかし、よくお考えください。

 我々が(たまわ)った領地や地位を保証するためには、漢王様が皇帝の(くらい)につくことが必要ではありませんか?

 どうか漢王様、皇帝という尊号(そんごう)名乗(なの)ってくださいませ!」

 

「いや、でもなあ……」

 と、劉邦は3度にわたって固辞した。

 しかし、群臣は、しつこく皇帝即位を(すす)めてくる。

 

 とうとう劉邦は根負(こんま)けした。

「……よし、わかった。

 俺が皇帝になることが、国家のために有益だっていうなら、これ以上『嫌だ』とも言えないな」

 

 

   *

 

 

 群臣は日を占い、2月の甲午(こうご)の日を吉日(きちじつ)と定め、皇帝即位の儀式を()り行った。

 

 車を用意して劉邦を迎え入れ、汜水(しすい)(きた)行幸(ぎょうこう)して、そこで皇帝即位の大礼(たいれい)を行ったのである。

 

 儀式が済んだ後、劉邦は(みことのり)を作って、以下のように天下に布告した。

 

(ちん)は思う。

 (しゅう)宗室(そうしつ)祭祀(さいし)途絶(とだ)えた後、(しん)(しゅう)の正統なる後継者であると僭称(せんしょう)し、六国を併合(へいごう)した。

 しかし、そのために四海(世界)に紛争が起き、二世皇帝の代には、ますます(しん)(おとろ)え、とうとう(しん)の天命は尽きてしまった。

 

 (ちん)は、もともと(はい)(たみ)であった。

 しかし上天の助けと祖先の霊の御加護(ごかご)のおかげで、汝ら文武の臣の力を得て(しん)に勝ち、()を滅ぼして天下を平定することができた。

 

 群臣たちが、(ちん)(とうと)んで皇帝とし、人民の(あるじ)とすることを求めた。

 そこで(ちん)は、楚漢(そかん)5年2月の甲午(こうご)の日、汜水(しすい)(きた)において祭祀(さいし)を行って天地に宣言し、皇帝に即位した。

 

 これより天下すべてを平定し、国名を号して大漢とし、楚漢(そかん)5年を大漢5年と改める。

 そして、同じ日に太廟(たいびょう)(天子の祖先を(まつ)霊廟(れいびょう))に参詣し、4代前までの祖先に追尊(ついそん)して太上(たいじょう)皇帝とした。

 

 さらに、社稷(しゃしょく)(土地と穀物の神を(まつ)る祭壇)を洛陽(らくよう)に建て、呂氏(りょし)を皇后に、長子の劉盈(りゅうえい)東宮(とうぐう)皇太子とした。

 

 これまで(しん)()によって加えられた過酷な刑は、すべてこれを赦免(しゃめん)し、取り除く。

 以上、天下に布告し、あまねく人民に知らせる』

 

 かくして、劉邦は、ついに皇帝の(くらい)についた。

 文武の百官は、万歳(ばんざい)を唱えて、劉邦に対する拝賀の礼を行ったのだった。

 

 

(つづく)




●注釈
(1)
 韓信が漂母(ひょうぼ)と不良青年(「西漢通俗演義」では『悪少年』)を探して恩返しとも意趣返しともつかないことをする場面があった。この逸話は「史記・淮陰侯列伝」にも記されているのだが、そちらでは他にもう1人、南昌の亭長という人物が韓信に呼び出されている。
 若い頃の韓信は貧乏で素行が悪く、商売をして稼ぐこともできなかったので、南昌という(ごう)の亭長の家に居候していた。しかし居候しはじめて数ヶ月経つと、亭長とその妻は韓信を(うと)み、夜明け頃に飯を炊いて寝床の上で食うようになった。つまり、時分(じぶん)(どき)に韓信が現れても食うものがない状態にしたわけである。この嫌がらせに怒った韓信は、亭長の家から去ってしまった。
 のちに()王となった韓信は、この亭長を呼び出した。そして、亭長にわずか100銭を与えて、言った。
『貴公は小人(しょうじん)だ。人に徳を(ほどこ)すことを、最後までやり抜かなかったからな』
 ……これを言うためにわざわざ呼びつけるあたりが、まことに韓信らしい。

(2)
 本編に『汜水(しすい)(きた)』という表現が登場した。一方、第五十四回では『華山(かざん)(みなみ)』『桃林(とうりん)(きた)』という表現がなされていた。陽と陰の指す方角が南北逆になっている。(第五十四回参照)
 これは、山の場合は南が陽で北が陰、川の場合は北が陽で南が陰とされるため。「春秋穀梁伝・僖公二十八年」に『水の北を陽という。山の南を陽という』とあるほか、最古の漢字字典「説文解字・ 部」には『陰:闇のこと。水の南、山の北のこと』とある。
 なぜ山と川で陰陽の方角が逆になるのかというと、陽光の当たりやすさが理由らしい。山の南側斜面は太陽に面していて明るい。また、川の北側の土地は、南方に遮蔽物がないため陽光が当たりやすい。それゆえに『陽』であるのだという。
 この考え方は、各地の地名にも反映されている。たとえば、我が国では中国山地の南側を山陽、北側を山陰と呼ぶ。本編に登場した地名の中では、韓信の出身地淮陰(わいいん)淮水(わいすい)の南にあり、劉邦が(みやこ)を置いた洛陽(らくよう)洛水(らくすい)の北にある。

(3)
 劉邦が皇帝に即位した日が『大漢5年2月の甲午(こうご)の日』となっているが、「西漢通俗演義」や「通俗漢楚軍談」では『大漢6年』とされている。
 史書に目を向けると、「史記・高祖本紀」や「漢書・高帝紀」ではともに『大漢5年(2月の)甲午(こうご)』とされている。「演義」「軍談」が()との決戦を大漢5年8月に開戦、12月に決着、と設定してしまったために、劉邦の皇帝即位を史実より後ろ倒しせざるを得なかったのだろう。
 以前にも注釈で説明したが、当時の(こよみ)は10月から新しい年になるため、大漢5年8月より大漢5年12月の方が先に来る。つまり「演義」「軍談」の日付設定は開戦と決着が前後逆になっており、完全に矛盾しているのだ。そこで今回は「史記」「漢書」の記述に従う形で日付を修正しておいた。
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