漢の群臣は、なかなか恩賞が決定しないことに不安を覚え、謀反の気配を見せはじめた。
しかし、劉邦が雍歯を什方侯に封じ、丁公を不忠の罪で処罰すると……
群臣は、
「雍歯ほど嫌われている者でも恩賞を与えられるなら、我々は大丈夫だ」
と安心し、謀反の考えを捨てたのだった。
*
それから数日後。
張良が、また劉邦に奏上した。
「雍歯・丁公の一件で、群臣は安心し、喜んで皇帝陛下に服従するようになりました。
ただ……
かつて斉の相国であった田横が、海島という小島に身を隠し、静かに天下の動きを睨んでいるようです。
田横の志は、小さなものでは、ありません。
今のうちに計を巡らせて、反乱の芽を摘んでおかなければ、後々、大きな災いをなすでしょう」
劉邦は、うなずいた。
「なるほど。
どういう策で田横に対処すればいい?」
張良が言う。
「海島は、万の波が打ち寄せ、水飛沫がもうもうと立ち込める海中の小島。
ここ洛陽の都からは数千里も離れております。
陛下が軍を派遣して討伐しようとしても、すぐに勝つことは難しいでしょう。
臣が思いますに、田横の所へ使者を送って詔書を下し、次のように伝えるのがよいでしょう。
『斉の後継者として、田氏を君主に立てる』と……
そうして皇帝陛下に敵対した罪を赦し、利害を説いて召し寄せたならば、田横は、きっと陛下の徳を慕って帰服するでしょう。
力押しで攻めても、無駄に軍馬ばかりを費やして何も利益がない、という結果になりかねません」
劉邦は、この張良の言葉に従い、陸賈を使者として、海島へ向かわせた。
*
陸賈は、数日かけて、海島の近くに、やってきた。
四方の風景を眺めれば、羅山が東に広がり、濰水が西を隔て、神山が南にそびえ、渤海が北に横たわっている。
海の方を見れば、大波が次々に打ち寄せていて、水がどこまで続いているやら、果ても見えないほどである。
陸賈は、ここで地元の老人を見つけ、田横の居場所を尋ねた。
老人は答えた。
「田横の住んでいる海島は、即墨県の北東100里(40km)のところに、ございます。
四面を海に囲まれた島で、岸からは25里(10km)も離れております。
田横にお会いになりたいのなら、大船を用意し、海に順風が吹くのを待ってから船出なさいませ」
陸賈は、即墨県に行くと、老人の言葉に従って、大船を用意させた。
そして多くの水夫を雇い、順風の吹いた日を狙って、海島へと出航した。
老人の助言のおかげで、陸賈は、苦もなく海島に上陸できた。
ところが肝心の田横は、漢の使者が来たと聞くと、要塞の門を閉ざし、対面を拒んでしまった。
陸賈は慌てることなく要塞の門前まで行き、こう呼びかけた。
「漢王様は、西楚を平定して天下を1つにまとめあげ、皇帝に即位あそばされた。
それなのに、汝1人が、いまだに皇帝陛下に服従していないのだ。
それゆえ陛下は、私を勅使として詔書を下し、汝を諭そうとしておられる。
田横よ! 拒まずに門を開き、顔を見せるがよい!」
田横は、陸賈の言葉を聞くと……
門を開いて陸賈を迎え入れ、詔書を開いて読んだ。
その詔書の文面は、次のようなものだった。
『昔、武王は、殷の紂王を滅ぼして、周王朝を打ち立てた。
このとき、伯夷・叔斉の兄弟は、武王を批判して言った。
「主君である紂王を滅ぼすことが仁義ある行いと言えましょうか?」
その後、伯夷と叔斉は、周の粟を食うのは人として恥だと考え、山に籠って山菜のみを食べる暮らしをした末、とうとう飢え死にしてしまったのだ。
だが、伯夷・叔斉がどう考えていたにせよ、武王は天下を手に入れることができた。
(第十二回注釈参照)
晋の文公に仕えた介子推は、主君の文公が貪欲な奸臣に褒賞を与えるのを見て失望し、自分は恩賞を要求もせず隠棲した。
ところが、やはり介子推の態度に関係なく、文公は中国の覇者となったのだ。
汝、田横は、いま海島で暮らしている。
しかし、朕が中国全土を平定した今、汝も漢の臣となるしかないとは思わないか?
1人で人間社会から離れれば、伯夷・叔斉や介子推と同等の名声を得られると考えているのか?
そうでないなら、すぐに、こちらへ来てもらいたい。
汝を、どのように待遇するかは今後の話次第だが、うまくすれば王に、悪くとも侯には封じて、田氏の血を保ち、祖先の祭祀を失わずにすむよう取り計らってやろう。
これ以上、海の果てに閉じこもって、魚や鼈を友達として暮らすことはあるまい。
もし汝が出頭しないようであれば、朕としては、兵を挙げて東へ向かわせるしかなくなる。
捕虜となり、首を刎ねられ、田氏の血筋を絶滅させるのは、愚かなことだと思わないか?
どうか、はやく来てほしい。
道を誤らないでくれ!』
田横は、詔書を読み終えると、陸賈を、もてなした。
その酒の席で、田横は言った。
「早々に都に上り、漢に帰服いたしましょう」
*
が……
田横の部下たちは、皆で田横を止めようとした。
「漢に帰服するのは不可です!
漢の皇帝は、外面では心が広いようでいて、内面では非常に厳しい性格です。
度量が大きいようでいて、実際には容赦ない人物なのです。
今から帰服しに行ったとしても、田横様が、これまで海島に閉じこもって長く帰服せずにいたことを、漢帝は決して忘れないでしょう。
漢帝が一度怒れば、王侯に封じるなどという約束は反故にされるに決まっています。
さすれば田横様は漢に服従することもできず、この島に帰ってくることもできず、大いに後悔するハメになります!
洛陽へ行くのは中止しましょう。
この海島に多数の要塞を築き、鉄砲や火矢を準備し、厳しく防備を整えるのが最も良い方策です。
我ら500人が心と力を合わせて田横様と共に防衛に努めれば……
ここは大波が打ち寄せる島。たとえ漢帝に100万の勇ましい兵がいたとしても、近づくことは、できません。
そうすれば、田横様は、ここに座ったまま天下の動きを観察し、悠々と遊び楽しむことができましょう」
田横は、首を振った。
「いや。長い目で見れば、それは良策とは言えない。
私が海島に来てから、汝らには少しも恩恵を与えてやることができなかった。
今、漢帝は、こんな遠くまで勅使を遣わして、私を召し寄せたのだ。
これで私が帰服しなかったら、今度は必ず兵を起こして、私を討伐しに来るだろう。
その時には、汝らも矢や石の降り注ぐ中で戦い、千の苦しみと万の辛さを味わうことになる。
もし戦いに敗れたら、全員が刃に貫かれて死ぬことになるだろう。
そんな事態にだけは、したくないのだ」
結局……
田横は、食客2人だけを連れ、陸賈と一緒に洛陽へと旅立ったのだった。
(つづく)