斉の田横は自殺し……
楚将の季布は劉邦に帰服した。
劉邦が名指しで捜索していた敵将は、あと1人、鍾離昧を残すのみとなった。
しかし、鍾離昧の居場所を知らせてくる者は、いつまでたっても現れない。
劉邦は深く憂い、諸臣に言った。
「鍾離昧は、楚の名将だ。
武勇は楚軍の中でも特に優れていて、知恵の方でも軍師范増に負けないほどだった。
このまま放っておけば、あとで、きっと災いをなすだろう。
汝らは、どんな手を使ってでも鍾離昧を捕らえ、俺を安心させてくれ」
*
劉邦の部下たちは、洛陽の内外へ、こう触れまわった。
「鍾離昧の居場所を知る者がいたら、すぐに教えに来い」
すると……
触れを出してすぐに、奇妙な男が洛陽の城下にやってきた。
その男は、布の袍(上着)に草履ばき、という見すぼらしい姿で劉邦の部下たちの前に来ると……いきなり大笑いしはじめた。
「たかが鍾離昧1人など、心配するほどのものではないわ!
わしは、もっと大事なことを皇帝に奏上しようと思っている。
それなのに……
わしを皇帝に引き合わせようという人物が、1人も、おらぬのだ!
まったく、残念だなあ!」
この男、見た目だけでなく、言うことも、どこか普通ではない。
劉邦の部下たちは、男に尋ねた。
「貴公、名は?」
男が答える。
「わしは斉国の人で、姓は婁、名は敬という。
漢帝国1万代先の未来と子々孫々に渡る繁栄の基盤を岩の如く固く安定させるため、必要な策を説きに来た」
劉邦の部下たちは、眉をひそめた。
「そんな見苦しい服装で、皇帝陛下に謁見するつもりか?」
婁敬は、平然と答える。
「市井の民草は、豪華な礼服など持っておらぬわ。
わしが着ているこの袍や草履は、まさに庶民の服装なのだ。
どうして着替える必要がある? わしは恥じも恐れもしない」
劉邦の部下たちは、婁敬の言うことを、ありのまま劉邦に伝えた。
すると劉邦は興味を引かれたらしく、
「よし、連れてこい」
と命じた。
婁敬は、すぐに劉邦の前へと案内されてきた。
劉邦は婁敬を見て、問う。
「俺に会って、大事なことを伝えたいんだって?
一体、どういうすばらしい意見を持ってきてくれたんだ?」
婁敬は答えた。
「昔、覇王項羽は、范増の諌言に従わず、関中を捨てて彭城に都を遷しました。
これを韓生が言葉を尽くして諌めましたが、項羽は怒り、韓生を煮殺してしまいました。
項羽が天下を失ったのは、これが理由でございます。
しかるに今、皇帝陛下は洛陽に都を建てなさった。
確かに、彭城に比べれば、はるかに良い立地と言えましょう。
なにしろ、この洛陽は、かつて周王朝の都があった地です。
思うに陛下は、周王朝と同等以上に漢を繁栄させたいと考えて、この地を選ばれたのではありませんか?」
劉邦が、うなずく。
「ああ。確かに、そういう意図だ」
婁敬が言う。
「陛下は天下を取りなさった。
しかし、その状況は周と同じとは言えません。
周は、始祖后稷(周王朝の祖先とされる農業神)の時代から、徳を積み仁義の行いを重ねること数百年。
武王の代に至り、ついに紂王を討って天下を手に入れました。
その後、武王の息子の成王が即位し、当時洛邑と呼ばれていたここ洛陽を、天地の中心と定めました。
それは、四方の諸侯が貢物を運んだり職務を果たしに来たりするとき、距離が平等となるようにという配慮だったのです。
こういうやり方の場合、徳が有るうちは、天が国の発展をもたらしてくれます。
が、徳が無くなりはじめると、たちまち天が国に滅亡をもたらしてしまう。
周が盛んであった頃、諸侯も、四方の異民族も、1人残らず周に服従しておりました。
しかし周が衰えだすと、天下の諸侯は朝廷に参内しなくなり、周は諸侯を制御できなくなりました。
これは周の徳が薄かったせいではありません。ただ形勢が弱くなったからなのです。
それに対して皇帝陛下は、豊沛から起こり、蜀漢を手中に収め、三秦を平定し、滎陽・成皋間で覇王項羽と大小とりまぜ70戦以上も戦いました。
この戦で、人々は肝臓や脳を地に撒き散らしましたが、その傷は、いまだに癒えきっておりません。
この状況で陛下が周王朝と同様の隆盛を求めるのは、誤りとしか言いようがありますまい。
一方、ここから西にある秦の地は、周囲を山に囲まれ、中央に大河を擁し、4つの関門に固く守られております。
これまさに天下の喉元。
たとえば人間と戦う時、相手の喉を攻撃せず、背中ばかり叩いているようでは、いつまでたっても勝てないでしょう?
したがって、都を置くならば、秦の地、咸陽周辺が最良でございます。
秦に拠点を構えておけば、突発的な有事の際にも100万の軍勢をすぐに用意できましょう。
陛下が洛陽へ都を置くことに拘り続ければ、後日、漢の勢いが弱まったとき、天下の動きを制御できなくなります。
そのとき、諸侯の誰かが険阻な関中に立てこもったならば、始皇帝や項羽の再来というべき強さを見せることでしょう。
以上、これこそが臣の申し上げる天下の大事。
漢帝国1万代先の未来と子々孫々に渡る繁栄の基盤、でございます」
*
劉邦は、婁敬の提言を聞いて、ハッとした。
確かに婁敬の言う通りだ。
劉邦が何年も戦い続けられたのは、背後に関中という堅固な拠点を持っていたおかげ。
逆に項羽が咸陽を都としていたら、漢軍がどんなに攻め立てても滅ぼせなかったに違いない。
そこで劉邦は、群臣を集めて、婁敬の提言について意見を求めた。
劉邦の下にいる群臣は、ほとんどが山東(中国東部)出身の人間である。故郷を遠く離れて秦の地へ遷都することには、多くの臣が難色を示した。
群臣は言った。
「周は、洛陽に都を置いてから数百年も衰えずに存続しました。
一方、秦の始皇帝は咸陽に都を置き、わずか2世で滅びてしまったのです。
こうした前例を鑑みれば、都は洛陽のほうが吉と思われます。
また、洛陽は東に成皋あり、西に澠池あり、背には黄河を負い、前は洛水に面す。
このように、守りの固さにおいても信頼できる土地でございます」
劉邦は、腕を組んで、うなった。
「うーん、そうか……
張良先生は、どう思う?」
張良が答える。
「確かに洛陽も、成皋・澠池のおかげで、一定の守りの固さは有しております。
ただし、洛陽は、いささか交通の便が良すぎます。
洛陽には四方のどこからでも侵入できますから、軍の拠点とするには向いておりません。
一方、関中の咸陽を見ますと、東以外の3方向が山脈で完全に遮断されております。
残る東方から関中に入ろうとしても、左は崤山が横たわり、右は函谷関に塞がれていて、容易に侵入できません。
しかも、関中の背後には隴・蜀という肥沃な土地が千里に渡って広がっておりますから、長期戦にも対応可能です。
すなわち、咸陽を都とすれば、ただ東方の守りを固めるだけで、容易に諸侯を制することができるのです。
いわゆる金城千里、天府の国。
婁敬の意見は、大変すばらしいと思います」
劉邦は、うなずいた。
「よし! それじゃあ、婁敬の教えに従い、日を選んで咸陽に遷都しよう!」
(つづく)