趙高に讒言(人を陥れるための悪口)された李斯は、大いに焦り、二世皇帝に文書を送って、逆に趙高の罪を訴えた。
だがそれを読んで二世皇帝が言ったことは、こうである。
「趙高は清廉で、下々の人情に通じているうえ、いつも朕の意志によく適った提案をする。趙高が賢人であることは、朕がよく知っている。
しかるに李斯! 卿はなぜその趙高を謗るのか! もし趙高がいなければ、朕は他に誰を用いて政治を行えばよいというのだ。
卿は阿房宮の造営を止めろと言うが、阿房宮はもともと先帝が着工なさったものだ。
卿は天下の盗賊どもを禁じることもできぬのに、朕には造営を禁じて、不孝者の名を負わせようとしている。
先帝の御恩には報いられず、朕に忠義を尽くせもせず……一体何のとりえがあって丞相の位にいるのだ、汝は!」
叱責だけでは収まらず、二世皇帝は廷尉(裁判と刑執行を司る官職)に命じて李斯を問い詰めさせた。
ほどなく申し渡された判決は……
「楚人と共謀して国家転覆を企んだことは重罪である。五刑(刑罰の体系)に照らし合わせた結果、腰斬の刑に処す!」
かくして、李斯は家族もろとも咸陽の市に引き出された。
死を目前にして、李斯は我が子を振り返って言った。
「息子よ。もう一度、一緒に兎狩りがしたかったな。故郷上蔡の東門あたりで、猟犬も連れて……
だが、もう、それもできそうにないなあ」
李斯親子は声をあげて悲しみ……哭き……
やがてその声も、処刑台の露となって、消えた。
*
都咸陽がこんな権力争いにかまけている間も、大将軍章邯は函谷関を固く守り続けていた。
国々の諸侯は、形勢が傾きかけていることを敏感に察知し、こぞって楚に味方しはじめた。
次々に秦へ攻撃をしかけてくる諸侯の軍勢を、章邯はじめ秦の士卒は懸命に防ぎ止めていたのだ。
だが徐々に兵糧が乏しくなり、人馬の疲れも蓄積して、急速に戦況は悪化していく。
天下の要害函谷関をもってしてさえ遠からず守り切れなくなるだろうことは自明であった。
当然、章邯は日夜都へ早馬を送り続けた。
しかし趙高は救援要請を二世皇帝に知らせず、ひた隠しに隠し続けた。
朝廷の官僚たちはこの状況を憂えてはいたが、下手な動きを見せれば趙高に殺されてしまう。その恐怖に縛られ、誰ひとりとして皇帝に真実を伝えられずにいた。
*
ある時、二世皇帝は後宮で体を休めていた。
眠りはしないままゴロゴロと寝床に転がっていると、かたわらにいた宮女が内官(皇帝のそばに使える官人)と言葉を交わしているのが聞こえてきた。
「今日来た早馬は何の知らせだったのです?」
内官が声をひそめて言う。
「章邯は9回敗けて、30万の兵を失った。楚の大軍が近いうちに関中(函谷関の内側)に攻め込んでくるだろう……という知らせだ。
そうなったら私たちはどうやって生き延びたらいいんだ……」
二世皇帝はこれを聞き、青ざめて寝床から立ちあがった。
話をしていた二人を呼び寄せ、うろたえながら問い詰める。
「いま何を話していた!? はっきりと申せよ!」
内官は涙を流して申し上げた。
「今、天下の諸侯がことごとく秦に背いていて、章邯は30万の兵を失いました。楚の軍勢が日ならず攻めてくるでしょう。
臣らは、そのことを話していたのです」
二世皇帝は仰天した。
「汝らは、どうやってそれを知ったのだ」
内官が答える。
「宮殿の内にも外にも知らない者は一人もおりません。ただ陛下のみが趙高に惑わされてご存知ないのです。
どうか早く章邯へ救援の軍勢を送り、民を塗炭の苦しみからお救いくださいませ」
二世皇帝は慌てて趙高を呼び出し、声を大にして罵った。
「趙高! 貴様、大小の政を司る身でありながら、天下に変乱が起き国家に緊急の危機が迫っていることを朕に知らせぬとは! ずっと朕を欺いていたのだな!? その罪、斬刑に値する!」
だが、二世皇帝のこの剣幕に対して、趙高は落ち着きはらって冠を脱ぎ、しずかに頓首(頭を地面にこすりつけるお辞儀)した。
「わたくしは丞相に任じられてこのかた、ひたすら国内の政治に奔走し、陛下が座ったまま太平を享受なされるよう頑張ってまいりました。
国外で賊徒を征伐するようなことは、大将軍章邯や王離の仕事でござます。内外両方の仕事を、どうしてわたくし一人で治められましょう?
賊が攻めてくるというのであれば、それは章邯の働きぶりが拙いせいです。もし陛下が使者をお送りになって章邯たちの罪を責め、他の大将を選んで賊の討伐を任せれば、賊徒なぞは勝手に滅ぶでしょう。
そもそも、こういう噂は伝わっていくうちに誤りが生まれてくるものでござます。章邯から直接注進をお聞きになったわけでもないのに、どうして軽々しく内官の言葉などを信用してわたくしを処罰なさるのですか」
趙高は、口が上手い。言葉おだやかで、いかにも理路整然と話している、ように見える。
二世皇帝は、またしても惑わされてしまった。疑いを抱いたことを趙高に詫び、安心して遊楽の暮らしに戻っていった。
上手く言い逃れた趙高は、退出しながら考えを巡らせた。
「章邯は救援を求めているが、わたくしはそれを隠して皇帝陛下に申し上げなかった。だから章邯は、わたくしを迂回し、ひそかに内官を通じて陛下へ伝えようとしたのでしょうねえ。
おかげでわたくし、危うく死ぬところでしたよ」
これ以来、趙高は章邯に恨みを抱くようになった。
(つづく)