龍虎戦記 項羽vs劉邦【翻案・通俗漢楚軍談】   作:外清内ダク

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七十六の下 不穏の影、蠢き

 

 

 随何(ずいか)は、命(めい)を受けてすぐに出発した。

 

 随何(ずいか)が楚(そ)国に到着すると、何も知らない韓信は無警戒に随何(ずいか)を出迎えた。

「やあ随何(ずいか)殿。何か公務での旅かね?」

 

 随何(ずいか)が答える。

「はい。『義帝の陵墓(りょうぼ)を造営せよ』との皇帝陛下の勅命(ちょくめい)で、今から郴州(ちんしゅう)へ行くところなのです。

 楚(そ)王様には、かつての大戦のおり大変お世話になりましたから、この機会にご挨拶(あいさつ)をと思い、立ち寄りました次第(しだい)」

 

「そうか。よく来てくれた」

 と韓信は喜び、酒宴を開いて随何(ずいか)を、もてなした。

 

 その酒の席で、韓信は、都(みやこ)の朝廷の様子はどうか、最近はどんな政策を行っているか、と、あれこれ尋(たず)ねた。

 それに随何(ずいか)は、ひとつひとつ答えていった。

 

 さて……

 2人が酒を酌(く)み交わしていたところ、ふと、周囲が静かになった。

 給仕の者たちが、たまたま同時にみんな部屋から出払ってしまったのだ。

 

 宴席に残っているのは、韓信と随何(ずいか)の2人のみ。

 この瞬間を狙い、随何(ずいか)は韓信のそばに近寄って、耳元で囁(ささや)いた。

 

「実は……

 それがしが楚(そ)に来たのは、楚(そ)王様から受けた厚恩(こうおん)にお礼を申し上げるためだけではないのです。

 もうひとつ、重大なことがありまして……それをお伝えしに来たのですよ」

 

 韓信は驚き、つられて声を潜(ひそ)めた。

「重大なこと、とは……?」

 

 随何(ずいか)が言う。

「先日、ある人が朝廷で妙な告(つ)げ口(ぐち)をしたのです。『楚(そ)王韓信が、楚(そ)将鍾離昧(しょうりまい)を匿(かくま)っている』と……

 

 それを聞いた皇帝陛下は、お叱(しか)りになりました。

『韓信は、朕(ちん)の心腹の人だ!

 しかも、今は楚(そ)王に封(ほう)ぜられて、一国の君主にすらなった男だ。

 反逆者を匿(かくま)うはずがない!』

 

 そして陛下は、告(つ)げ口(ぐち)した者を追い払いました。

 

 このように、皇帝陛下ご自身は、告(つ)げ口(ぐち)を信じておられないご様子でした。

 ……が、左右の群臣の中には、楚(そ)王様を疑い始めた者が多く……

 

 その後、今度は元楚(そ)将の季布が朝廷に出てきて、こう言いました。

『鍾離昧(しょうりまい)は、かねてから楚(そ)王韓信と密約を交わしていたようだ。今は、その約束通り楚(そ)に匿(かくま)われている』

 

 これが決定打となりまして、朝廷の人々は皆(みんな)、楚(そ)王様が鍾離昧(しょうりまい)を匿(かくま)っていると信じ込んでしまいました。

 

 その中にあって、ただ1人蕭何(しょうか)相国(しょうこく)のみが、

『そんなこと、あるはずがない!』

 と、再三に渡り楚(そ)王様を弁護しておられます。

 

 しかし今では、皇帝陛下も『ひょっとしたら』と考えを変え始めているようで。

 

 それがしには、楚(そ)王様に実力を認められ、厚遇していただいた恩があります。

 それで、こうして朝廷の状況をお伝えしに参ったのです。

 

 楚(そ)王様、どうか早く手を打って、人々の口を塞(ふさ)ぎなさいませ。

 このうえ手をこまねいていたら、皇帝陛下に罪を問われることになります。

 漢開国のために楚(そ)王様が打ち立てた功績も、すべて絵に描いた餅(もち)となってしまいます。

 どうか、よくお考えくださいませ!」

 

 韓信は、青ざめて口も利けなくなってしまった。

 

 随何(ずいか)は、韓信の顔色を見て全てを察した。

 随何(ずいか)が韓信の耳元で問う。

「……鍾離昧(しょうりまい)は、本当に、ここにいるのですね?」

 

 韓信は深く後悔した様子で考え込むと……おもむろに口を開いた。

「……一体どうすれば、皇帝陛下の疑いを解き、人々を黙らせることができるだろうか?

 随何(ずいか)殿、なにか、いい考えはないか?」

 

 随何(ずいか)が言う。

「鍾離昧(しょうりまい)を殺しなさい。

 彼の首を咸陽(かんよう)に献上するのです。

 そうすれば、無事に済むでしょう」

 

 韓信が、たじろぐ。

「鍾離昧(しょうりまい)は、数十年の付き合いがある故人(こじん)(古い友人)なんだ!

 どうして殺すことができようか!」

 

 随何(ずいか)が言う。

「楚(そ)王様が友人に対する義を重んじて、国法を軽(かろ)んじるならば、禍(わざわ)いは、旋踵(せんしゅ)(踵(かかと)を旋(まわ)す)する時間もないうちに襲いかかってきますよ」

 

 韓信は奥歯を噛みしめ……うめくように、言った。

「……貴公の言う通りだ。

 分かった……鍾離昧(しょうりまい)を殺して、皇帝陛下に献上しよう……」

 

 そのとき、給仕の者たちが宴席に戻ってきた。

 韓信と随何(ずいか)は、気まずい空気の中で数杯の酒を呷(あお)ると、宴(うたげ)を打ち切って退出していったのだった。

 

 

   *

 

 

 その夜。

 韓信は、宮殿の裏にある花園を訪(おとず)れた。

 

 花園の一角には、こぢんまりとした閣(かく)(建物)が1つある。

 韓信が閣(かく)に入っていくと、その中では、鍾離昧(しょうりまい)が1人で座っていた。

 

 韓信は、苦しげな視線を鍾離昧(しょうりまい)に向けた。

「鍾離昧(しょうりまい)殿、実は……」

 

 韓信は、随何(ずいか)が話したことを、正直に語って聞かせた。

 

 鍾離昧(しょうりまい)は、黙って韓信が語るにまかせ、やがて全てを聞き終えると、冷ややかに尋(たず)ねた。

「韓信将軍は、私をどうなさるおつもりか?」

 

 韓信が言う。

「国法に従って御辺(ごへん)の首級(しゅきゅう)を咸陽(かんよう)に献上すれば、私は禍(わざわい)を避けられる……」

 

 鍾離昧(しょうりまい)は首を振った。

「いいや、違いますな。

 私が生きていれば、漢帝は、韓信将軍に害を及(およ)ぼさないでしょう。

 この鍾離昧(しょうりまい)が韓信と組んで暴れだせば、容易ならざる事態になると分かっているからです。

 

 しかし、もし私が滅びれば、漢帝は次に韓信将軍を殺しにかかる。

 これは疑う余地(よち)もないことです。

 韓信将軍。よくお考えください」

 

 韓信……思えば彼も不思議な男である。

 戦場においてあれほど果断(かだん)で、見ようによっては冷酷ですらあった韓信が、こと政争や世渡りという段になると、情にほだされて全く決断しきれないのだ。

 

 韓信は、鍾離昧(しょうりまい)の前で、悩みに悩み……

 とうとう鍾離昧(しょうりまい)を殺す決心がつかず、そのまま閣(かく)から立ち去ってしまった。

 

 

   *

 

 

 一方。

 随何(ずいか)は、それから数日、楚(そ)に留まって様子を見ていた。

 しかし、いつまでたっても、韓信が鍾離昧(しょうりまい)を殺そうとしない。

 

 随何(ずいか)は、ひそかに使者を咸陽(かんよう)に送り、ここまでの状況を劉邦に報告した。

 そして、自分は韓信に別れを告げ、郴州(ちんしゅう)へと去っていったのだった。

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

■次回予告■

 

 王爵(おうしゃく)の貴(とうと)きも財宝の豊かなるも一夜明ければ夢のまた夢。漢建国に東奔西走、幾多の戦(いくさ)を勝ち抜いた稀代(きたい)の兵法家が思わぬ石に蹴つまづく。

 成り上がるのも一瞬ならば転げ落ちるもまた一瞬。それは韓信の不忠がためか。はたまた、まだ見ぬ狂気の先駆けなのか。

 

 次回「龍虎戦記」第七十七回

 『狡兎死して走狗煮らる』

 

 乞(こ)う、ご期待!




●注釈
 韓信の口から『鍾離昧(しょうりまい)は、数十年の付き合いがある故人(こじん)』という話が突然出てきた。この発言の通りだとすれば、項羽が旗挙げして鍾離昧(しょうりまい)や韓信が楚(そ)軍に参加するより遥か前から交流があったことになる。今までそんな話は一度も出てきていないので、いささか唐突な感は否めない。
 「史記・淮陰侯列伝」には『(鍾離昧(しょうりまい)は)以前から韓信と善(よしみ)があった』とだけ書かれている。具体的にいつからの、どの程度の付き合いなのかは分からないが、2人に交流があったこと自体は史実のようである。
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