随何は、命を受けてすぐに出発した。
随何が楚国に到着すると、何も知らない韓信は無警戒に随何を出迎えた。
「やあ随何殿。何か公務での旅かね?」
随何が答える。
「はい。『義帝の陵墓を造営せよ』との皇帝陛下の勅命で、今から郴州へ行くところなのです。
楚王様には、かつての大戦のおり大変お世話になりましたから、この機会にご挨拶をと思い、立ち寄りました次第」
「そうか。よく来てくれた」
と韓信は喜び、酒宴を開いて随何を、もてなした。
その酒の席で、韓信は、都の朝廷の様子はどうか、最近はどんな政策を行っているか、と、あれこれ尋ねた。
それに随何は、ひとつひとつ答えていった。
さて……
2人が酒を酌み交わしていたところ、ふと、周囲が静かになった。
給仕の者たちが、たまたま同時にみんな部屋から出払ってしまったのだ。
宴席に残っているのは、韓信と随何の2人のみ。
この瞬間を狙い、随何は韓信のそばに近寄って、耳元で囁いた。
「実は……
それがしが楚に来たのは、楚王様から受けた厚恩にお礼を申し上げるためだけではないのです。
もうひとつ、重大なことがありまして……それをお伝えしに来たのですよ」
韓信は驚き、つられて声を潜めた。
「重大なこと、とは……?」
随何が言う。
「先日、ある人が朝廷で妙な告げ口をしたのです。『楚王韓信が、楚将鍾離昧を匿っている』と……
それを聞いた皇帝陛下は、お叱りになりました。
『韓信は、朕の心腹の人だ!
しかも、今は楚王に封ぜられて、一国の君主にすらなった男だ。
反逆者を匿うはずがない!』
そして陛下は、告げ口した者を追い払いました。
このように、皇帝陛下ご自身は、告げ口を信じておられないご様子でした。
……が、左右の群臣の中には、楚王様を疑い始めた者が多く……
その後、今度は元楚将の季布が朝廷に出てきて、こう言いました。
『鍾離昧は、かねてから楚王韓信と密約を交わしていたようだ。今は、その約束通り楚に匿われている』
これが決定打となりまして、朝廷の人々は皆、楚王様が鍾離昧を匿っていると信じ込んでしまいました。
その中にあって、ただ1人蕭何相国のみが、
『そんなこと、あるはずがない!』
と、再三に渡り楚王様を弁護しておられます。
しかし今では、皇帝陛下も『ひょっとしたら』と考えを変え始めているようで。
それがしには、楚王様に実力を認められ、厚遇していただいた恩があります。
それで、こうして朝廷の状況をお伝えしに参ったのです。
楚王様、どうか早く手を打って、人々の口を塞ぎなさいませ。
このうえ手をこまねいていたら、皇帝陛下に罪を問われることになります。
漢開国のために楚王様が打ち立てた功績も、すべて絵に描いた餅となってしまいます。
どうか、よくお考えくださいませ!」
韓信は、青ざめて口も利けなくなってしまった。
随何は、韓信の顔色を見て全てを察した。
随何が韓信の耳元で問う。
「……鍾離昧は、本当に、ここにいるのですね?」
韓信は深く後悔した様子で考え込むと……おもむろに口を開いた。
「……一体どうすれば、皇帝陛下の疑いを解き、人々を黙らせることができるだろうか?
随何殿、なにか、いい考えはないか?」
随何が言う。
「鍾離昧を殺しなさい。
彼の首を咸陽に献上するのです。
そうすれば、無事に済むでしょう」
韓信が、たじろぐ。
「鍾離昧は、数十年の付き合いがある故人(古い友人)なんだ!
どうして殺すことができようか!」
随何が言う。
「楚王様が友人に対する義を重んじて、国法を軽んじるならば、禍いは、旋踵(踵を旋す)する時間もないうちに襲いかかってきますよ」
韓信は奥歯を噛みしめ……うめくように、言った。
「……貴公の言う通りだ。
分かった……鍾離昧を殺して、皇帝陛下に献上しよう……」
そのとき、給仕の者たちが宴席に戻ってきた。
韓信と随何は、気まずい空気の中で数杯の酒を呷ると、宴を打ち切って退出していったのだった。
*
その夜。
韓信は、宮殿の裏にある花園を訪れた。
花園の一角には、こぢんまりとした閣(建物)が1つある。
韓信が閣に入っていくと、その中では、鍾離昧が1人で座っていた。
韓信は、苦しげな視線を鍾離昧に向けた。
「鍾離昧殿、実は……」
韓信は、随何が話したことを、正直に語って聞かせた。
鍾離昧は、黙って韓信が語るにまかせ、やがて全てを聞き終えると、冷ややかに尋ねた。
「韓信将軍は、私をどうなさるおつもりか?」
韓信が言う。
「国法に従って御辺の首級を咸陽に献上すれば、私は禍を避けられる……」
鍾離昧は首を振った。
「いいや、違いますな。
私が生きていれば、漢帝は、韓信将軍に害を及ぼさないでしょう。
この鍾離昧が韓信と組んで暴れだせば、容易ならざる事態になると分かっているからです。
しかし、もし私が滅びれば、漢帝は次に韓信将軍を殺しにかかる。
これは疑う余地もないことです。
韓信将軍。よくお考えください」
韓信……思えば彼も不思議な男である。
戦場においてあれほど果断で、見ようによっては冷酷ですらあった韓信が、こと政争や世渡りという段になると、情にほだされて全く決断しきれないのだ。
韓信は、鍾離昧の前で、悩みに悩み……
とうとう鍾離昧を殺す決心がつかず、そのまま閣から立ち去ってしまった。
*
一方。
随何は、それから数日、楚に留まって様子を見ていた。
しかし、いつまでたっても、韓信が鍾離昧を殺そうとしない。
随何は、ひそかに使者を咸陽に送り、ここまでの状況を劉邦に報告した。
そして、自分は韓信に別れを告げ、郴州へと去っていったのだった。
(つづく)
■次回予告■
王爵の貴きも財宝の豊かなるも一夜明ければ夢のまた夢。漢建国に東奔西走、幾多の戦を勝ち抜いた稀代の兵法家が思わぬ石に蹴つまづく。
成り上がるのも一瞬ならば転げ落ちるもまた一瞬。それは韓信の不忠がためか。はたまた、まだ見ぬ狂気の先駆けなのか。
次回「龍虎戦記」第七十七回
『狡兎死して走狗煮らる』
乞う、ご期待!