ある日の早朝。
劉邦は、毎朝恒例の群臣による拝謁を受けた後、具体的な政策論議に取り組んでいた。
その時、こんな報告が外から飛び込んで来た。
「ただいま、どこの誰かは分かりませんが、『皇帝陛下に謁見して機密情報をお知らせ申し上げたい』という者が来ました。
いかがいたしましょうか?」
劉邦は興味を抱き、その者を中へ通すよう命じた。
その者は劉邦の前に近づき、言った。
「それがしは楚の民でございます。
機密情報というのは、ほかでもない、楚王韓信の悪行のことなのです。
まず韓信は、楚王に封ぜられた後、勝手に民の田地を奪いました。
そして、その土地に自分の父母の墓を建ててしまいました。
次に、韓信は多くの兵馬を率いて、むやみに各地の郡県を威圧しました。
そのため、民は怯え、不安に駆られております。
そして最後に、韓信は逃亡中の楚将鍾離昧を匿っているのです。
韓信は長期に渡って何かの陰謀を企んでおります。
おそらくは謀反……!
鍾離昧の首を皇帝陛下に差し出そうとしないのが、その証拠です。
以上の事実を掴みましたので、皇帝陛下にご報告すべく星夜を徹して駆けつけた次第。
どうか、はやく韓信を取り除き、楚の民をお救いくださいませ!」
*
劉邦は、陳平などの諸臣を呼び集めた。
「韓信が、自分の功績を頼みとして、バカなことを考えはじめたらしい。
鍾離昧を匿っているからには、謀反の意志があるとみていいだろう。
本当は斉を本拠地として反乱を起こす計画だったんだろうが、俺が楚に改封したもんだから、アテが外れて、韓信は俺を怨んでるだろうな」
群臣は、劉邦の言葉を聞くと、いきりたった。
「これは軽く見てよいことではありません!
陛下! 早く兵を起こし、韓信を処罰なさいませ!」
が、ここで陳平が声を上げた。
「はなはだ不可なり!
韓信は、並の将とは比べ物にならない戦上手だ。
しかも韓信がいる楚の地は、淮水流域や蔡州に繋がる交通の要衝で、数十万の軍勢を養えるだけの国力がある。
もし韓信が変を起こせば、その勢いは当たるべからざるものになる。
これまさに項羽の再来である!
汝ら諸将は、一時的な不平の気持ちに流されて、軽々しく韓信と戦おうとしている。
私には、戦わずとも結果が見える。戦えば必ず敗れることになるぞ!」
劉邦が言う。
「じゃあ陳平、どうやって事態を収めればいい?」
陳平が、うなずいた。
「臣が愚見を申しますならば、韓信を捕らえるのに力を用いてはいけません。ただ知恵をもって捕らえるべきです。
臣に、ひとつの計略がございます。
軍を動かさず、韓信が自分から捕らえられに来るようしむけるのです。
これで陛下のご心配は、自然に解消されましょう」
劉邦が問う。
「その計略ってのは?」
陳平が言う。
「楚国には、雲夢沢という巨大な湖沼群がございます。
皇帝陛下は、この雲夢に遊幸(旅行)すると偽り、楚に移動なさいませ。
古の天子は、季節ごとに各地方へ巡狩(巡り歩いて視察すること)いたしました。
春は東へ、夏は南へ、秋は西へ、冬は北へ。
四季おりおりに民の暮らしを見て回る。これが、古来より聖なる君主の政のやり方でございました。
これにあやかって、御車を出して雲夢に遊幸なさり、各地の諸侯に命じるのです。
『楚の西の国境あたりに集合せよ。
もし来ない者がいたら、大将に命じて軍を派遣し征伐する』と。
この話を韓信が聞けば、必ず自ら陛下の出迎えに現れるでしょう。
そのとき武士に命じて、韓信を捕らえるのです。
こうすれば、必要となるのは武士1人の力のみ。
諸将に苦労をさせ大軍を動かして勝負を決するより、ずっと優れているかと思います」
さすがは陳平。陰謀にかけては天下一の男である。
劉邦は陳平の計略を深く喜び、さっそく東国の諸侯に向けて詔を下した。
『朕は、この大漢6年冬12月、雲夢に巡狩する。
このとき諸侯を集合させて、各地方の民を視察し、各地の風俗を文書として著し、天下に示したいと思う。
もし集合しない諸侯がいたら、大将に命じて軍を差し向け討伐するから、そのつもりでいるように』
その年の12月、劉邦は文武の群臣を引き連れて咸陽を離れ、陳・蔡(雲夢の北)あたりまで出た。
これに対し、英布・彭越など東国の諸侯は、ことごとく集合して劉邦を迎えた。
*
一方、韓信は、劉邦からの詔を聞くと、部下たちを集めて会議を開いた。
「先日、随何が私のところへ来て、知らせてくれた。
『鍾離昧が楚に匿われていることを、すでに皇帝陛下は御存知だ。
朝廷の諸臣は、韓信を処罰せよと口々に陛下へ勧めている』と……
私は、早く鍾離昧を殺して、私への批判を止めたいと思った。
だが、鍾離昧は私の旧友だ……彼を殺すのは忍びない。
そこへきて今、皇帝陛下が雲夢へ遊幸なさるという。
これは、単なる地方視察の巡狩ではあるまい。
私が異心を抱いていると疑い、私の罪を正すために出て来られたに違いない。
こうなったら、随何の助言に従い、鍾離昧を殺して皇帝陛下に謁見するしかない……
そうして陛下の疑いを解き、私への批判を止めるのだ」
*
韓信は、方針を部下たちに知らせ終えると、宮殿の裏の花園へ向かった。
この花園の小閣(小さな建物)に、鍾離昧が匿われている。
韓信は、鍾離昧と対面すると、こう言った。
「漢帝が雲夢まで遊幸してこられた。
私が御辺を匿っていることを、すでに漢帝はご存知だ。おそらく、この遊幸は私を疑ってのことだろう。
これは、ただ御辺だけの危機ではない……私にとっても反逆の罪を問われる危機なのだ。
だから、御辺を殺し、その首を皇帝陛下に献上して、罪を免れたい……
やむを得ないことなのだ。
どうか恨まないでくれ……」
鍾離昧は、必死になって食い下がる。
「楚王様、道を誤っては、なりませんぞ!
今日、私を殺しなさったら、明日は楚王様が殺される。
先日そう申し上げたでしょう……あれは楚王様を騙すための嘘ではない。まぎれもない真実です!」
韓信は、目を伏せ、苦しげに首を振った。
「そうかもしれん。
だが、たとえ皇帝陛下が私を裏切るとしても、私は二心が無いことを陛下に示さずにはいられないのだ」
鍾離昧は、カッと頭に血を上らせ、大声で罵った。
「股潜り男め!
どうして、そんなにも人情というものが欠けているんだ!
私との数十年来の友情を無にするとは!
ああ、残念だ。汝が殺されるところをこの目で見られないことが、何よりも残念だ!」
そして鍾離昧は刀を抜き、みずから首を刎ねてしまった。
*
韓信は、鍾離昧の首を携え、雲夢に向かった。
韓信は、これで疑惑が晴れるものと思っていたのだろう。
だが、それは甘い見積もりであった。
韓信が雲夢で劉邦に謁見すると、劉邦は、冷たく言い放ったのだ。
「俺は、何度も何度も鍾離昧の行方を探す触れを出したよな?
だが汝は、かたくなに鍾離昧を匿い続けた。
それが今、俺が雲夢まで出てきたもんだから、事が露顕するのを恐れ、あわてて鍾離昧の首を持ってきた、ってわけだ。
汝は、やむをえず鍾離昧を殺しただけ。これが本心じゃないんだろ?
……ものども! やれっ!」
劉邦が一喝して命じると、武士たちが韓信に殺到し、たちまち韓信を縛り上げてしまった。
(つづく)