韓信は、縛られながら大声で叫んだ。
「臣に何の罪があるというのです!?
これは不当な扱いだ!」
劉邦が、氷のように冷えた目を韓信に向けた。
「何が不当だ? 言ってみろ」
韓信が言う。
「臣は、皇帝陛下にとって開国の功臣です。
それを罪も無く縛り上げる。これが不当でなくて何ですか!」
劉邦は、淡々と語りだした。
「汝は、自分の父母を葬る土地とするために、民の田地を勝手に奪った。
人民は怒りを感じても、汝の権力を恐れて口に出せずにいる。そのぶん陰で恨みの声が噂となって広がっているんだ。
これは、漢の藩屏たる王家の、やることではない。
それが罪の1だ。
最近は天下に変事がなく、平和に静まっていた。
それなのに汝は、多くの軍馬を並べて各郡県に出入りし、威武を示した。
この行動によって、四方の人々は、みんな不安を覚えている。
それが罪の2。
鍾離昧は、項羽の心腹の臣だった。
それを汝は特に理由もなく匿い、朝夕に相談をもちかけていた。
これは、心の中で爪や牙を研いでいた、ということに他ならない。
それが罪の3。
以上3つの罪状は、すでに露顕している。
汝を縛ったのは、これが理由だ。
さあ……これでもまだ言いたいことがあるか?」
韓信は、即座に答えた。
「その3条すべてに申し開きいたしましょう。
ご明察のうえで縄を解いていただきたい。
臣が布衣(一般庶民)であった時、極めて貧しく困窮していて、父母が死んだ時にも葬る土地が買えないほどでした。
そのため、他人の土地へ仮に埋めておいたのです。
私が楚王に封ぜられた今、この栄誉を父母にも及ぼしたいと思い、新しく墳墓を造って改葬することにしました。
このとき、敷地の端に壁を建てましたが、その壁が、少しだけ隣人の土地にハミ出てしまったのです。
臣も最初は気づいておりませんでした。決して、わざと土地を奪ったわけではありません。
それを人民が悪しざまに申し上げただけのこと。
次に、兵馬を列ねて各郡県を出入りした件ですが、私は意味も無く民衆を乱そうとしたのではありません。
皇帝陛下は天下を手に入れなさいましたが、旧楚軍の残党は、今もなお、あちこちに残って徘徊しております。
もし私が威武を示さなかったら、楚軍残党は恐れを抱かず、いつかまた乱を起こすでしょう。
そのため臣は、ときどき兵を率いて各郡県を巡察し、陛下のために残党を排除して、地方を安定させようと思ったのです。
最後に、鍾離昧は、以前から臣と厚く交わっていて、数十年の好がありました。
昔、臣が楚に仕えていたとき、項羽に幾度殺されそうになったか分かりません。そのたびに鍾離昧が庇ってくれたので、私は死を免れたのです。
臣が皇帝陛下にお仕えできたのも、鍾離昧がいたからこそ……
臣が鍾離昧を匿っていたのは、二心を抱いていたからでは、ありません。
いつの日にか、鍾離昧の智謀の深さを皇帝陛下にお伝えし、陛下の臣として重く用いていただけるよう推薦するつもりだったのです。
それなのに今、陛下は人々の讒言(人を陥れるための悪口)を信じ、臣を深く疑いなさっていると聞きました。
そのため、やむをえず鍾離昧を殺し、陛下へ献上しに参ったのです。
それ以外に何の意図もありません。
どうして、これが有罪なのですか!
どうか、はやく縄を解いてくださいませ!」
劉邦が、さらに言う。
「じゃあ、この件はどうだ?
汝は、かつて斉の討伐に取り組んでいたが、すぐには斉を攻め落とせない状況だった。
そこで俺は別の手を打った。
酈生を派遣し、斉王に利害を説かせたんだ。
酈生のおかげで、斉王は、たちまち帰服した。
それなのに汝は、俺からの詔を口実にして斉を攻め、みすみす酈生を敵に殺させてしまった!
そのうえ、俺の弱みにつけこんで、『自分を斉王にしろ』なんて要求してきた!
俺が成皋で包囲され、何度も救援を求めた時、汝は、のんびり座って戦況を眺めるばっかりで、少しも助けに来ようとしなかった!
最近では、楚に改封されたことに不満を抱き、怏々として楽しまず、ひそかに謀反を計画していた!
お前には、これだけ多くの罪がある!
俺は皇帝として、この罪を正さないわけにはいかない!
これでもまだ言うことがあるか!?」
韓信は、劉邦の怒声を聞くと……天を仰いで、長々と嘆いた……
「ああ……
まったく、昔の人の言ったとおりだ。
『飛鳥尽きて良弓蔵さる。
狡兎死して走狗煮らる。
敵国破れて謀臣亡ぶ』……
獲物の鳥がいなくなれば、良い弓も、しまいこまれてしまう。
すばしこい兎がいなくなれば、猟犬は煮て食べられてしまう。
敵国が破られれば、謀臣もまた滅び去る……
その言葉を、私は今、身をもって知ることになった。
すでに天下は定まった……私が煮殺される時が来たのだ」
韓信の嘆きを、劉邦は聞いた。
そして、ぴたりと動きを止めた。
劉邦の心は揺れていた。
確かに韓信は建国の功臣だ。韓信がいなければ、項羽に勝つことは不可能だったろう。
その韓信を、用済みになったからといって殺してしまう……そのことに、劉邦は罪悪感を覚えはじめた。
結局、劉邦は、その場で処分を決めることができず……
ひとまず韓信から楚王の印章を奪うと、韓信を馬車の後ろに縛っておかせた。
*
劉邦は、韓信を拘束しおえると、そのまま予定通り雲夢へ進み始めた。
しばらく馬車に揺られて進み、日が暮れ始めた頃。
劉邦は、部下に尋ねた。
「ここから雲夢まで、どのくらいある?」
部下が答える。
「あと30里(12km )ほどです」
劉邦は、少し疲れた顔で微笑んだ。
「そっか。じゃあ、久々に少し馬でも走らせてみようかな」
劉邦は馬車から降りると、白馬に跨がり、みずから手綱を取って進みだした。
雲夢の景観を眺めながら、ゆるゆると馬を歩ませる。
韓信のことでささくれだった劉邦の心も、この壮大なる風景を前に、少しずつ癒えていくようだった。
ところが……劉邦が大きな林の手前まで来た、そのとき。
突然、劉邦の馬が咆哮し、落ち着かぬ様子で足踏みしはじめた。
劉邦は顔色を変えた。
自慢にはならないが、劉邦は今まで数えきれないほどの死線を乗り越えてきた。
その経験で育まれた勘によって、劉邦は鋭く危険を察知した。
劉邦は、樊噲を呼んだ。
「おい樊噲!
馬の様子がおかしい。
この林の中に刺客がいるに違いない。
お前、兵を連れて、林の中を探りに行ってくれ」
「承知!」
樊噲は威勢よく答え、100人ほどの兵を率いて林に入っていった。
すると、劉邦の直感した通り、林の中に壮士(壮年の男)が1人見つかった。
年齢は30歳ほどだろうか。
林の中に身を隠し、弓を引いて矢をつがえている。これは穏やかではない。
樊噲は、たちまち壮士を捕らえ、劉邦の前に引っ張っていった。
劉邦は壮士を見て問う。
「汝は何者だ? どうして、この林に隠れていた?」
壮士は答えた。
「臣は、淮陰出身の任侠。かつて楚王韓信様から厚恩を蒙った者です。
皇帝陛下が罪も無い韓信様を縛ったと聞き、この林に隠れていたのです。
韓信様がここを通り過ぎた時、行列を襲って韓信様を奪い取ろうというつもりで……」
これを聞くと、劉邦は目の色を変えて怒りだした。
「嘘をつけっ!
汝は韓信を救おうとしたんじゃあるまい! 本当は、この俺を射殺そうとしてたんだろう!
幸いにも俺の馬が警告してくれて、難を逃れることができた!
もし間違って林に入っていたら、きっとお前に殺されていただろう!」
そして劉邦は、左右の部下に命じた。
「おい! こいつを殴り殺せ!」
いまや劉邦は皇帝である。将も、兵も、みな皇帝劉邦の意のままに動く。
劉邦の部下たちは、金属の棍棒を振り上げ、壮士を滅多打ちに打ちまくり……そのまま打ち殺してしまった。
韓信は、この話を伝え聞くと、頬に一筋の涙を流し、壮士の死を惜しんだという。
(つづく)