龍虎戦記 項羽vs劉邦【翻案・通俗漢楚軍談】   作:外清内ダク

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七十七の下 狡兎死して走狗煮らる

 

 

 韓信捕縛という目的を果たした劉邦は、都(みやこ)への帰路についた。

 陽翟(ようてき)に宿を取り、その翌日には洛陽(らくよう)を過ぎて、関中に入る。

 こうして劉邦は、無事、都(みやこ)へ帰還した。

 

 その翌朝。

 文武の群臣は、早朝の謁見(えっけん)のために集合すると、劉邦の前で左右に分かれて列を作った。

 そのとき、大夫(たいふ)の田肯(でんこう)が列から進み出て言った。

 

「皇帝陛下は、韓信を得たことによって関中を治め、世にふたつとない偉業を成しとげられました。

 韓信の功績は、はなはだ偉大であります。

 

 しかし陛下は、人々の言葉に流され、巡狩(じゅんしゅ)と偽(いつわ)って雲夢(うんぼう)に遊幸(ゆうこう)なさり、韓信を捕らえて戻ってこられました。

 

 そもそも関中は、かつて秦(しん)の強さを支えた形勝(けいしょう)の国。つまり、守りに適した堅固(けんご)な土地でございます。

 険(けわ)しい山河(さんが)が帯(おび)のように横たわり、他国からは千里も隔(へだ)てられている。

 たとえ敵が100万の軍勢で攻めてこようと、こちらに2万ほどの兵があれば、十分に守ることができましょう。

 

 そのうえ、関中の地勢は大変に便利。

 この地から諸侯に協力を求めれば、援軍は、高い屋根から水瓶(みずがめ)の水を落とすような勢いで集まってくるでしょう。

 

 一方、斉(せい)の地は、東に琅琊(ろうや)・即墨(そくぼく)という豊かな土地があり、南は泰山(たいざん)が守りを固め、西は濁(にご)った黄河に沿い、北には渤海(ぼっかい)の水利がございます。

 

 斉(せい)の広さは実に2千里。

 敵が100万の兵で攻めてきても、守る側は10分の2の兵力で守りきれる。それが斉(せい)という国です。

 

 この2国が手に入ったのは、皆(みな)これ韓信の功績でございます。

 韓信が三秦(さんしん)を攻め取り、斉(せい)を攻略したからこそ、これらの国は皇帝陛下の手中に収まったのです。

 

 陛下は、ご自身で秦(しん)の土地に都(みやこ)を置き、安寧(あんねい)を享受(きょうじゅ)しておられます。

 また、斉(せい)の国には、そのうち御一族(ごいちぞく)のどなたかを封(ほう)じなさるおつもりでしょう。

 

 このように秦(しん)斉(せい)両国の恩恵(おんけい)を得ているにもかかわらず、その2国を手に入れた韓信を捕らえ、罪も無く誅殺(ちゅうさつ)しようとしておられる。

 以前の陛下であれば、こんなことは、なさらなかったはず。

 臣は思います。どうして陛下は、これほど冷たくなってしまわれたのかと!」

 

 劉邦は、うめきながら言い返した。

「大夫(たいふ)の言うことには、確かに理がある、と思う……

 だが、韓信は長いあいだ異心(いしん)を抱(いだ)いていた。きっと遠くない未来に乱を起こすだろう。

 だから、疑わないわけには、いかないんだ」

 

 田肯(でんこう)が言う。

「それほど韓信をお疑いならば、彼に兵権を与えなければよいのです。

 韓信から軍事力を剥奪(はくだつ)し、この咸陽(かんよう)に住まわせておく……これで無事に収まるのではありませんか?」

 

 劉邦は、パッと顔に喜色(きしょく)を浮かべた。

「あっ、そうか! それで良かったんだ!」

 

 劉邦は、田肯(でんこう)に褒美(ほうび)として黄金500斤(きん)を賜(たま)わった。

 

 

   *

 

 

 劉邦は、さっそく韓信を朝廷に呼び出した。

 

 劉邦は、その場で韓信を釈放(しゃくほう)し、こう諭(さと)した。

「韓信将軍。

 汝が楚(そ)に背(そむ)いて漢へ来たとき、俺は祭壇を築(きず)いて汝を大元帥に任命した。

 ああして重大な役目を任せたのは、韓信将軍を本当に頼りにしていたからだ。

 

 汝を斉(せい)王に封(ほう)じ、その後、楚(そ)に改封(かいほう)した。

 こうして王爵(おうしゃく)を与えたのは、汝の功績に報(むく)いるためだ。

 その待遇(たいぐう)は、『すごく手厚かった』と言えるんじゃないか?

 

 その汝が鍾離昧(しょうりまい)を匿(かくま)い、異心(いしん)を抱(いだ)くだなんて、俺は予想だにしていなかった。

 俺は、その罪を正そうと思い、汝を捕らえて、ここに連れてきた。

 

 本当なら、重く罪に問うところだ。

 しかし、卿(けい)が開国の元勲(げんくん)であることを考慮(こうりょ)に入れて、命(いのち)は助けようと思う。

 

 汝の罪を許し、あらためて淮陰(わいいん)侯(こう)に封(ほう)じる。

 これからは都(みやこ)に住まいを構え、朝廷に出仕し、きれいに心を入れ替えて前非(ぜんぴ)を悔(く)い、真心(まごころ)をこめて国に尽くせ。

 そうすれば、いつか再び汝を王爵(おうしゃく)に封(ほう)じ、楚(そ)を破った功績に負けないほどの位(くらい)につけてやることも、できるようになるだろう」

 

 かくして、韓信は王位を剥奪(はくだつ)され、侯にまで格下げとなったものの、処刑だけは免(まぬが)れた。

 

 この処分は、劉邦としては、最大限の恩情のつもりだった。

 韓信もまた、その場では感謝の言葉を述(の)べたのだが……

 

 韓信は内心けっしてこの処分に納得していなかった。

 韓信は、他の侯たちと同列に置かれることを恥じ、これ以後は病気と称(しょう)して自宅に閉じこもり、朝廷に顔を出さなくなってしまった。

 

 

   *

 

 

 ともかくも、楚(そ)軍残党をめぐるイザコザは、ついに全て決着をみた。

 劉邦は都(みやこ)咸陽(かんよう)に腰を落ち着け、静かになった天下を治めるべく、新たな政策に力を注ぎはじめた。

 

 まず劉邦は、儒者(じゅしゃ)叔(しゅく)孫通(そんとう)に命(めい)じて、宮中での礼儀作法を制定させた。

 これは、荒くれ者の多い漢の大将たちを落ち着かせるための施策(しさく)である。

 

 蕭何(しょうか)には、新たに法律の体系を定めさせた。

 かつて劉邦が定めた『法三章』は、分かりやすく人民に喜ばれたが、それだけでは治安を維持できなくなりつつあったからである。

 

 また、祖先の霊廟(れいびょう)や社稷(しゃしょく)(土地の神を祀(まつ)る祭壇(さいだん))を立て、祭祀(さいし)の場を整えた。

 長男の劉盈(りゅうえい)を皇太子として立て、やがてくる皇位継承のための道筋をつけた。

 

 そして5日に1回は父太公のもとを訪(おとず)れ、家族として、父子の礼を尽くして父に接した。

 

 

   *

 

 

 あるとき、太公に仕える近侍(きんじ)の臣が、太公に言った。

「古(いにしえ)より、『天に二日(にじつ)無く、民(たみ)に二王(におう)無し』と申します。

 皇帝陛下は、もちろん人の子ではありますが、天下の王でもあらせられるのです。

 

 太公と皇帝陛下の関係は、一家の中で論じるなら、父と子でございましょう。

 しかし、国家の中で論じるなら、主君と臣の関係でございます。

 主君が臣下を拝(おが)むようなことが、あってよいものでしょうか?」

 

 太公は、このときはじめて、自分が礼を失(しっ)していたことを悟った。

 

 そこで、ある日。

 劉邦が訪(たず)ねてくると、太公は、みずから箒(ほうき)を持って、門の脇(わき)に立って劉邦を迎えた。

 箒(ほうき)を持って立つのは、賓客(ひんきゃく)を迎えるときの礼儀作法である。

 

 劉邦は、これを見て大いに驚いた。

「親父様! なんで、そんな臣下みたいな礼儀をやってるんだよ?」

 

 太公は答えて言う。

「皇帝陛下は、天下の人々の主(あるじ)であらせられます。

 わし1人だけが、天下の礼法を乱すわけには、まいりません」

 

 父が、かしこまった態度で自分を迎える……

 そんな父の姿を見て、劉邦は無性に寂しくなった。

 

 なるほど、確かに劉邦は皇帝である。身分のうえでは一般人に過ぎない太公が皇帝に向かって偉そうにしていたのでは、他の者たちにし(・)め(・)し(・)がつかない。

 だが劉邦には、父に対して孝養(こうよう)を尽くしたいという気持ちがある。父の前では、皇帝である以前に1人の息子でいたいのだ。

 

 そこで劉邦は、一計を案じた。

 

 

   *

 

 

 劉邦は群臣と相談し、以下のような詔書(しょうしょ)を作って、天下に告知した。

『家族の中で、父と子ほど親しい関係は他にない。

 ゆえに、父が天下を手に入れれば、それを息子に継承させる。

 子が天下を手に入れれば、その尊(とうと)さは父にも及ぶ。

 これこそ人道の極みである。

 

 これまで天下は大いに乱れ、いくつもの戦(いくさ)が同時に起きて、万民は苦しめられてきた。

 そこで朕(ちん)は、みずから鎧(よろい)を纏(まと)い、鋭い武器を握り、軍勢を率(ひき)いて戦った。

 

 多くの危難を乗り越え、秦(しん)の大乱を平定し、諸侯を立て、敵兵を食い止め、民衆を安息させ、ついに天下に大いなる平安をもたらすことができた。

 これは、すべて我が父、太公が朕(ちん)を教え育ててくれた結果である。

 

 諸侯、将軍、群臣、大夫(たいふ)が、朕(ちん)を皇帝として立てた。

 しかし、我が父太公には、いまだ尊号(そんごう)がない。

 そこで今、太公に尊号(そんごう)を贈(おく)り、太上皇(たいじょうこう)とする』

 

 太上皇(たいじょうこう)とは、かつて秦(しん)の始皇帝が、亡き父に追尊(ついそん)した尊号(そんごう)である。

 劉邦は、これを太公に尊号(そんごう)として贈(おく)ることで、太公を自分より上の地位に置いたのだ。

 

 これで父子と君臣の上下関係の矛盾は解消された。

 劉邦が太公を敬(うやま)って見せても、制度上、なんの問題もなくなったわけである。

 

 

   *

 

 

 太公が太上皇(たいじょうこう)の地位につくと、群臣は、皆(みな)で祝賀の言葉を述べた。

 劉邦は、その返礼として盛大に酒宴(しゅえん)を開き、群臣たちを労(ねぎら)った。

 天下泰平と平穏無事を象徴するかのような、晴れがましい宴(うたげ)に、一同は酔いしれた……

 

 が。

 その酒宴(しゅえん)の最中(さなか)、韓(かん)国の馬邑(ばゆう)県から、急報が飛び込んできた。

 

「申し上げます!

 北方の異民族匈奴(きょうど)の君主、冒頓(ぼくとつ)単于(ぜんう)が挙兵し、韓(かん)国へ侵攻してきました!

 

 韓(かん)王姫信(きしん)は、匈奴(きょうど)の猛攻に対抗することができず、窮地(きゅうち)に追い込まれ……

 その結果、なんと韓(かん)王姫信(きしん)は、麾下(きか)の軍勢を連れて匈奴(きょうど)に帰順。我が漢に対して謀反(むほん)いたしました!

 

 韓(かん)王姫信(きしん)は太原(たいげん)を侵略し、白土(はくど)人の曼(まん)丘臣(きゅうしん)・王黄などと語(かた)らい、趙(ちょう)の将軍であった趙利(ちょうり)を勝手に王としました。

 そして30万の軍勢を集め、周囲の郡県を脅(おびや)かしつつあります。

 

 人民は不安に駆られております。

 どうか陛下、兵をお出しになって、この反乱を収めてくださいませ!」

 

 

   *

 

 

 劉邦は驚き、急いで謀士(ぼうし)陳平(ちんぺい)たちを集めて、緊急会議を開いた。

 

 臣の1人が提案する。

「近隣諸国に出兵を命(めい)じ、大軍に纏(まと)めあげてから匈奴(きょうど)や姫信(きしん)を征伐(せいばつ)しよう」

 

 別の者が異を唱える。

「いや、事態は急を要する。

 悠長(ちゅうちょう)に大軍を集めていては手遅れになるかもしれん。

 手元にある兵だけでも、すぐ太原(たいげん)に向かわせるべきだ」

 

 このように、諸臣の意見は、まちまちだった。

 会議は紛糾(ふんきゅう)し、なかなか結論が出ない。

 

 劉邦は、しびれを切らして、こう宣言した。

「汝らの意見は、凶賊(きょうぞく)の群(むれ)を征服するには不十分だ!

 

 こうなったら、この俺が自(みずか)ら大軍を率(ひき)いて出陣し、各地の軍勢を集めながら攻撃を仕掛(しか)ける!

 俺の手で北方の地を攻め取り、賊徒(ぞくと)どもが二度と暴れられないようにしてやる!」

 

 劉邦は、相国(しょうこく)蕭何(しょうか)に関中の守りを命(めい)じ、自分は親征(しんせい)(君主みずから出征すること)の準備に取りかかった。

 

 まずは、反乱軍の状況を探(さぐ)るべく、千戸(せんこ)(約千人の兵を率(ひき)いる部隊長)を10人先行させた。

 そのうえで劉邦自身は、曹参(そうさん)、樊噲(はんかい)、靳歙(きんきゅう)、盧綰(ろわん)ら20人の大将と精兵30万人を率(ひき)い、都(みやこ)から出陣したのだった。

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

■次回予告■

 

 突如(とつじょ)北より襲来した新たな脅威、匈奴(きょうど)の覇者冒頓(ぼくとつ)単于(ぜんう)。百戦錬磨の漢軍さえも翻弄(ほんろう)する智謀を前に、劉邦は絶体絶命の危機に陥(おちい)る。

 鴻門(こうもん)、睢水(すいすい)、滎陽(けいよう)にも並ぶ生涯最大の苦難から、果たして劉邦は生還することができるのか?

 

 次回「龍虎戦記」第七十八回

 『白登山(はくとさん)の屈辱』

 

 乞(こ)う、ご期待!




●注釈
(1)
 蕭何(しょうか)が新たに法律を作る場面があった。これについて、「漢書・刑法志」に以下のことが記されている。
『漢が興(おこ)り高祖(劉邦)が初めて関中に入った時、法を三章に簡略化した。秦(しん)時代の煩(わずら)わしく苛酷な法が削除されて、人民は大いに喜んだ。その後、四方の異民族が漢に服従せず、戦(いくさ)が収束しなかったため、三章の法だけでは姦(よこしま)な行いを防ぐのに不十分となった。そこで相国(しょうこく)蕭何(しょうか)は秦(しん)の法律から時勢に適したものを取捨選択し、九章の法律を作成した』
 このとき蕭何(しょうか)が作成したとされるのが、漢代に用いられた九章律という法典である。

(2)
 本編に韓(かん)王姫信(きしん)が登場した。彼は確かに姓(せい)が『姫(き)』なのだが、氏(し)は『韓(かん)』という。(姓(せい)が大きな血族集団、氏(し)はその中の小グループ)そのため姫信(きしん)は、「史記」などでは通常『韓信』と呼ばれている。
 国士無双の大元帥韓信とは、まったくの別人である。同時代の同勢力に同名の別人が所属しているという極めてややこしい状況なので、姫信(きしん)の方を『韓(かん)王信』と表記して区別することも多い。
 「西漢通俗演義」や「通俗漢楚軍談」では一貫して姫信(きしん)と表記されている。史書ではあまり見かけない表記ではあるものの、大元帥韓信との区別をはっきりさせるためには有益な書き方だろう。そこで本編でも、「演義」「軍談」に倣(なら)って姫信(きしん)の名で統一することにした。
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