都咸陽から北東へ1500里(約600km)……
中国北部の大都市晋陽は、東西北を山に囲まれた肥沃な盆地にあり、黄河の支流を擁して水も豊富である。
そのため、この街は交通の要衝として春秋・戦国の頃から大いに栄えた。
秦の始皇帝が中国を統一したとき、この一帯に太原郡が設置され、その政庁は晋陽に置かれた。
劉邦が天下を取ると、太原郡は韓国に組み込まれ、韓王姫信に領土として与えられた。
晋陽は、北方異民族の領域に接する防衛の要でもある。
だがそれは、この街が異民族たちにとっての侵略の足がかり……つまり中国への玄関口となってしまうことをも意味する。
韓王姫信は、異民族匈奴と手を結んで反乱を起こし、この晋陽を占領せんと南下してきた。
そして匈奴の君主冒頓単于もまた、晋陽北の代谷に陣を張っているという。(単于:匈奴の君主の称号)
これを放置すれば、どれほど被害が広がるか分からない。
皇帝劉邦が自ら軍勢を率いて出陣したのは、こうした危機感に突き動かされてのことなのである。
*
劉邦は、匈奴と反乱軍を鎮圧すべく大軍を率いて北上。
晋陽付近で匈奴軍と衝突し、一気呵成に攻撃を仕掛けた。
匈奴軍は……弱かった。
いや、あるいは漢軍が強すぎたのだろうか。
いずれにせよ、漢軍の攻撃によって匈奴軍はたちまち崩れ、北へ向けて撤退を開始した。
劉邦率いる漢軍は、匈奴を追ってさらに北へ進軍。
中国北の辺境にある広武の街まで進出した。
ここまでくれば、もう匈奴の領域は目の前である。
劉邦は、広武に入ると、敵の動向を探るべく、10人の千戸(部隊長)を先行させた。
そして、次なる戦いの準備を整えつつ、千戸たちの報告を待った。
*
ここまで漢軍は堅実に戦を進めてきたように見える。
……が。
実はこの時、漢軍の動きは、一から十まで冒頓単于に筒抜けとなっていた。
冒頓は、漢軍の偵察隊が接近していることを知ると、一計を案じた。
まず平城という城の付近にある白登山に陣を張り、わざと屈強の精兵を山の後ろへ隠した。
そして陣の前面には、弱った老兵や、痩せ衰えた牛や羊ばかりを配置したのである。
漢軍の千戸たちは、冒頓の策略に、まんまと騙され……
広武に帰還すると、見てきたままを劉邦に報告してしまった。
「冒頓の陣には老兵ばかり。匈奴軍は弱体です」
劉邦は上機嫌に笑った。
「そうだろうな。蛮夷の賊徒どもが、俺の中国兵に敵うわけがない。
じゃあ、すぐに兵を進めよう!」
すると、謀士陳平が諌めた。
「匈奴は、詐りの計略を多用する民族です。
しかも今は、戦慣れした韓王姫信が匈奴に協力しているのです。
おそらく敵は、なんらかの罠を用意しておりましょう。
陛下。再び偵察隊を派遣し、敵の虚実を念入りに探りなさいませ。兵を進めるのは、その後にしたほうがようございます」
劉邦は笑った。
「冒頓や姫信が強いといっても、項羽や旧六国ほどじゃないだろ?
汝は、ちょっと心配しすぎだよ」
だが陳平も引かない。
「いやいや。敵を侮る者は、必ず敗れます。
冒頓は非常な強敵です。陛下、決して軽く見てはいけません」
他ならぬ陳平の言うことでは、劉邦も無視できない。
そこで劉邦は、今度は劉敬を派遣して、敵の様子を探らせることにした。
劉敬は数日して戻り、報告した。
「私が見たところ、陳平殿の申し上げた通り、敵には深い計略があるように見受けられました。
そもそも、両国が相争うときには、威勢を輝かし、武力を盛んに見せ、自分の強さを誇示するのが普通でしょう。
ところが、冒頓の陣は、どこもかしこも疲れ弱った老兵ばかりなのです。
これは、わざと強さを隠して弱いところを見せ、皇帝陛下を油断させる策であろうと思います。
陛下が近づいてきたところで、急に強兵を出して陛下を討とうとしているのです。
もし軽々しく進みなされば、必ずや敵の計略に陥るでしょう。
まずは誰か大将を先行させ、敵の情報を慎重に探り、敵が弱体であることが真実だと分かってから陛下が進みなさるのがよいと思われます」
劉敬の意見は、至極まっとうなものであったが……
ここで劉邦は、思わぬ反応を見せた。
突然、普段にない激しさで怒りだし、劉敬を頭ごなしに りつけたのである。
「劉敬!
汝は弁舌で高官を授かっただけで、今まで一度も戦場で功績を立てたことがないだろうがッ!
それが、敵が強いの弱いのと妄言を吐き、俺の軍の進行を妨げ、人々の心を動揺させやがったな!
さては、姫信に賄賂を掴まされて内通してるんだろう!」
とんでもない言いがかりである。
劉邦らしくない。まるで人が変わってしまったかのようだ。
満座の群臣が唖然として事態を見守る中、劉邦は左右の部下に命じて劉敬を拘束し、広武の牢に放り込んでしまった。
そして劉邦は、すぐに三軍を出発させ、匈奴との戦いに向かった。
*
劉邦は、北へ進んで平城に接近した。
ここで劉邦は、樊噲を派遣して匈奴の様子を探らせた。
しばらくして樊噲が戻ってきた。
「確かに、敵は、まったく備えをしていないようです。
匈奴は、城の北にある白登山に陣取っていますが、旗幟の数も少ないですし、隊列は乱れきっています。
その兵力にしたって、多く見積もって4万か5万ってとこでしょう」
劉邦は、報告を聞いて笑った。
「やっぱり、そうか。
劉敬が『敵には深い計略がある』なんて言ったのは、匈奴と内通していたからだな。
俺が大軍で攻めようとしていたもんだから、『敵に伏兵があるかもしれない』なんて言って脅し、俺の動きを止めるつもりだったんだ。
おおかた、匈奴どもは夜のうちに逃げ出す気なんだろう。
冒頓の陣を打ち破るのは、朽ちた木を叩き割るくらい簡単だ。
恐れることなんて、なにも無いな」
劉邦は、三軍を動かして平城に入り、みずから中軍から諸軍へ指示を出していった。
*
ところが……その日の黄昏頃。
思わぬ出来事が起きた。
城外の四方で鉄砲の音が鳴り響いたかと思うと、いきなり匈奴の大軍が湧きだし、数え切れぬほどの兵力で平城へ攻め寄せてきたのである。
劉邦は、慌てて物見の兵を城壁に登らせた。
物見の兵は、外の様子を一目見ると、あわただしく城壁から駆け下りて報告した。
「匈奴の大軍が、この城を囲んでいます!
その勢力の大きさは、かつての項羽などとは比べ物になりません!
城壁から見渡すこと数十里、火把(松明)の光が延々と連なり、その数は……100万にも達するかと!」
「ひゃっ、100万!?」
劉邦は、飛び上がって驚いた。
劉邦の顔面が、みるみる青ざめていく。
「しまった……!
劉敬が正しかったのか!
俺が劉敬の言葉を無視したせいで、まんまと敵の計略にハマってしまった……!」
劉邦は、すぐに陳平を呼んだ。
「陳平!
この城は完全に包囲されてしまった。匈奴は、信じられないほどの大軍だ。どうすればいい!?」
陳平は、落ち着いて答える。
「蕃兵(異民族の兵)は戦を好み、はなはだ勇壮です。
力によって包囲を破ることは不可能でしょう。
ただし、奇計によって敵の心を惑わせば、この困難な状況から逃れることも可能かと」
劉邦が問う。
「その奇計とは?」
陳平は、劉邦の前に近づき、耳元で囁いた。
「聞くところによりますと、冒頓は、たいへんな愛妻家だそうです。
匈奴では、君主の妻を閼氏と呼びます。
冒頓は閼氏を深く寵愛するあまり、閼氏の言うことなら、政治のことでもなんでも聞いてしまうのだそうです。
どこへ行くにも閼氏を同伴させ、少しも離れようとせず、側室を迎えようともしない……
冒頓は、それほど一途に閼氏を愛しております。
この閼氏に働きかけてみましょう。
臣の手下に、姓は李、名は周という者がおります。
この者は、極めて絵の上手い画工でございます。
この李周に、美人画を1枚、描かせます。
五色あざやかに装飾し、艶めかしさ極まる美女の絵です。
そして、使者に千金を持たせ、ひそかに匈奴の陣へ遣わします。
陣門の番をしている将兵に、たっぷりと賄賂を掴ませて、陣の中に潜りこみ……
閼氏に対面して、金銀珠玉と一緒に、美人画を贈るのです。
そして、閼氏に、こう囁きます。
『冒頓が、あまりに急に城を攻めてきたため、漢軍は対抗できなくなった。
そのため、この絵の美人を冒頓に贈って、和睦を申し入れたい。
閼氏よ。どうか、この申し出を冒頓に取り次いでいただきたい』と……
閼氏は、美人画を見て、こう考えるでしょう。
『漢帝が、こんな美人を贈ってきたら、冒頓は、この美人を愛するに違いない。私への寵愛が薄れてしまう……』
となれば、閼氏は和睦の阻止を狙う。
すなわち、冒頓に働きかけ、匈奴軍が自発的に撤退するよう仕向けるはず。
そうして冒頓が兵を退いたところを狙い、陛下は大軍を率いて城から脱出なさいませ」
劉邦は、大いに喜んだ。
「なるほど! すごい計略だ!
さっそく取りかかってくれ!」
*
陳平の命により、李周は夜を徹して美人画を描き上げた。
美人画が仕上がると、陳平は心腹の部下に金銀宝珠と美人画を持たせ、匈奴の陣へ派遣した。
使者は、匈奴の臣たちに賄賂を贈り、計画通りに閼氏と対面を果たした。
使者は、閼氏に金銀珠玉の贈り物と一緒に、例の美人画を献上した。
閼氏は、戸惑って尋ねた。
「金銀や宝玉は、謹んで頂戴しましょう。
しかし、この美人画は……? こんなものを受け取って、私にどうしろというのか?」
漢の使者は答えた。
「漢朝の皇帝は、冒頓大王に城を包囲され、明日にも滅びようとしております。
そこで、冒頓大王に美人を献上し、和睦を求めようと考えております。
その美人画は、献上する予定の美女を描いたもの。
どうか娘娘(高貴な女性に対する敬称)、その絵を冒頓大王へ見せ、我らの意思を伝えてくださいませ」
閼氏は、絵を見て暗に思った。
「漢帝が、これほどの美女を贈ってきたら、冒頓は必ず深くこの女を愛するだろう。
私などは、どこに捨てられてしまうかも分からない……
そうだ!
冒頓に兵を退かせ、漢の天子を都へ帰らせてやろう。
そうすれば和睦の話は自然に立ち消え、この美女が贈られてくることもなくなる。私の心配も解消されよう」
そこで閼氏は、使者に向かって言った。
「汝は、城に帰り、よくよく漢の天子に申し上げよ。
『美人を贈る必要はない。私が明日、冒頓に勧めて、兵を退かせよう。
決して冒頓を誘惑するでないぞ!』
……とな」
使者は、心の中で、
「うまくいったぞ」
と喜んだ。
使者が答える。
「もし娘娘が冒頓大王に勧めて兵を退かせてくだされば、漢帝は、娘娘に毎年貢物を贈るようになるでしょう。
もちろん、美人が贈られてくることも、ありません。
娘娘のお怒りを買いたくは、ございませんから」
(つづく)