その夜。
閼氏は、冒頓に会いに行き、こう言った。
「我が軍が漢の天子を包囲して、もう7日になります。
しかし、漢軍が弱っている様子は見られません。城内には元気な軍馬が数多く残っております。
これはきっと、天地の神祇が漢帝を守護しているからに違いありません。
それに加えて、天下の諸侯も拱手(胸の前で手を組み合わせる礼)して漢に帰服しているのです。
あまり長く包囲を続けて漢帝を困らせると、まずいことになるかもしれません。
各地の諸侯が大軍を起こして漢帝の救援に来たら、破られるのは我々のほうです。
もし大王様が殺されるようなことがあれば、私と気持ちよくお楽しみになることも、もう二度とできないのですよ」
冒頓は、閼氏の言葉を聞いて、うなずいた。
「よく申してくれた。
確かに、その通りかもしれん。
よし。明日、包囲を解いて、漢の天子を解放しよう」
*
次の日。
韓王姫信は、匈奴軍の動きを伝え聞くと、大慌てで冒頓の前に飛んできた。
「冒頓大王!
漢帝を解放なさるとは、一体どういうわけなのですか!
すでに我々は、漢帝を包囲して城の中に閉じ込めているのですぞ!
漢帝の命は、もう我らの手の中にあります。
漢帝を解放するなど、捕らえた虎を解き放って山へ帰らせるようなもの。後に必ず災いを引き起こすでしょう!
それに、噂で聞きましたぞ。
漢帝が閼氏のところへ使者を寄越し、美人画を献上して和睦を求めたそうですね。
これは、あきらかに計略です!
敵は、大王を欺いて、兵を退かせようとしているのです。
ですから今日、城を攻めなさるとき、まず美人の有無を確認なさいませ。
本当に城の中に美人がいたなら、包囲を解いて漢帝を解放するのも、まあ良いでしょう。
しかし、もし美人が存在しないようなら……それは敵が我らを欺いている証拠です。
その時は、一気に攻めて漢軍を滅ぼすべきです。
まあ、私の考えでは、城の中に美人など、いるはずがありませんがね」
冒頓は、姫信の言葉に納得し、平城の城壁前まで人を送って呼びかけさせた。
「漢帝は、『美人を献上して和睦を求める』と言った!
もし本当に美人が城中にいるなら、見えるところへ出してみせろ!
美人の姿を確認したら、包囲を解いて、漢帝を都へ帰らせてやろう!
だが、もし嘘であったら、いますぐに城を踏み破ってやる!」
*
劉邦は、これを聞いて、大慌てで陳平を呼んだ。
「冒頓は、『この目で美人を見たら、その後で包囲を解いてやる』なんて言ってきたぞ!
城の中に美人なんか、いない! どうやって敵を騙せばいい?」
陳平は笑いだした。
「ははは……! こうも思った通りに動いてくれるとは!
ご安心ください。冒頓が美人を自分の目で見たがるだろうことは、すでに予測しておりました。
あらかじめ工匠に命じ、木偶人形を20体ほど作らせてあります。
あざやかな五色に彩り、華やかな衣服を着せて、本物の美女のように見せかけた人形です。
今晩、城壁の上に燈火を掲げ、その下に木偶人形を並べ置きます。
薄暗い燈火の下、しかも遠目であれば、本物の美女のように見えるでしょう。
匈奴は、きっと陛下を城から解放いたします」
劉邦は限りなく喜び、さっそく人を城壁の上に登らせ、匈奴へ呼びかけさせた。
「今晩、城壁の上に多くの美人を出して、お見せしよう!
冒頓大王よ! その中から、お好みの美人を選びたまえ!」
*
冒頓は、漢軍の言葉を聞いて、はなはだ喜んだ。
その日の晩……
冒頓は、みずから城壁の下まで来ると、城壁の上を見上げた。
すると……
城壁の上、ぼんやりと光る燈火の下に、美女がズラリと並んでいる。
花の姿に月の顔。まことの天女と見紛わんばかりの美女たちが、よりどりみどり、20人あまりも勢ぞろいしているではないか。
冒頓は、魂まで蕩けんばかりに喜び、すぐさま命じた。
「おい! 包囲を解け!
漢の皇帝の逃げ道を開けてやれ!」
*
劉邦は、待ってましたとばかり、大小の将兵を率いて城から飛び出した。
匈奴軍は、約束通り左右に分かれて逃げ道を開けてくれている。漢軍は匈奴軍の間をつっきって、しゃにむに走って南へ向かった。
陳平の策は見事に成功したが、あまり時間の余裕はない。
匈奴軍が城に入れば、あの美女が木偶人形にすぎないことは、すぐにバレる。
冒頓は、騙されたと悟り、すぐさま追手を差し向けてくるはずだ。
劉邦は、夜を徹して逃走した。
殿(最後尾の守り)を務めるのは樊噲、曹参、周勃、王陵の4人。
彼らに3万の兵を預け、冒頓の追撃を防ぐ計画なのだ。
*
一方の冒頓は、漢軍が全て出ていくのを待ってから、ウキウキと胸はずませて入城した。
が……城の中に残っているのは、20個あまりの木偶人形のみ。
本物の美女など、1人も居ない。
「あ! 騙された!
……おのれ漢帝、やってくれたな!」
冒頓は、勃然として大激怒した。
冒頓は、すぐに大将の王壙を呼んだ。
「汝は、兵を率いて漢帝を追え!
追いついたら、ことごとく討ち殺せ!」
「は!」
王壙は、飛ぶように漢軍を追っていった。
*
王壙は、30里(12km)ほど軍を走らせたところで、漢軍の後ろに追いついた。
王壙は、
「漢軍どもめ! 逃げられるものか!」
と叫び、驀地暗に漢軍へと攻めかかった。
これを見た漢軍からは、樊噲、曹参、周勃、王陵の4将が飛び出し、その場に踏みとどまって王壙の軍を迎えうった。
鋒を交える両軍。
樊噲たちは、漢軍きっての豪傑である。
追撃を受けるのは不利なものだが、それでも樊噲たちは激しく暴れて匈奴軍を押し返した。
そしてついには、押し返すどころか逆に匈奴軍を四方から囲み、1兵も残さぬ、とばかりに猛攻をしかけだした。
これに王壙は焦り、
「いかん! どうする……どうやって包囲を脱出すればいい!?」
と、目ばかりを忙しく動かして活路を探した。
その王壙の背後から、樊噲が戟を挙げて斬りかかった。
「かあッ!」
樊噲が大喝一声すれば、その響きは泰山も崩れんばかり。
樊噲の怒れる鬼髭が逆立ち、そのありさまは、あたかも夜叉羅刹のよう。
王壙は、大いに震え慄き、思わず馬から転げ落ちた。
そこへ樊噲が飛びかかり、たちまち王壙の首を取ると、戟に刺して掲げ上げた。
「敵将、討ち取ったあ!」
匈奴の軍勢は、大将が討たれたのを見ると、我さきにと四方八方へ逃げうせた。
樊噲・王陵などの大将たちは、逃げる敵を、あえては追わず……
そのまま兵を撤収させ、太原の大道を通って劉邦に追いつき、一緒に広武へ入ったのだった。
*
劉邦は、広武へ入ると、すぐに命じた。
「劉敬を獄中から釈放しろ!」
劉邦は、劉敬に対面すると、申し訳なさそうに言った。
「俺はバカだった。
汝の言葉に耳を貸さず、軽率に進軍し、敵の包囲で7日7夜も閉じ込められてしまった。
あのまま死んでもおかしくなかったが、幸い、陳平の計略で虎口を逃れることができたんだ。
最初に送った10人の千戸が誤った情報を持ってきたんで、俺は、すっかり騙されてしまったよ」
そこで劉邦は、誤情報をもたらした10人の千戸を捕らえ、ことごとく斬首して罰した。
そして劉敬に重く恩賞を与え、新たに建信侯に封じたのだった。
*
次の日。
劉邦は兵を率いて広武を出ると、都咸陽への帰路についた。
劉邦は、まず東へ移動し、蒲陰陘という山越えの道をたどって、曲逆県まで、やってきた。
曲逆の壮麗な風景を見ると、劉邦は感嘆の声を上げた。
6つの街と3つの市場が立ち並び、行き交う人々の起こす砂煙が入道雲のように立ちのぼっている。
郷村や集落はどこまでも繋がり、果ても見えないほどだ。
劉邦は、左右の部下を見回しながら言う。
「賑わってるなあ、この曲逆って所は!
俺も天下のあちこちに行ったが、これほどの賑わいは、洛陽くらいでしか見たことがないぞ!」
劉邦は、ふと何かを思いついた様子で、陳平を呼んだ。
「陳平よ。
卿は、俺の下に来て以来、何度も見事な計略を実行して、大きな功績を立ててくれた。
今回だって、白登山での危機から抜け出せたのは、卿の謀のおかげだ。
だから、この地を卿に与えて、改めて曲逆侯に封じよう。
いつか引退する日が来たら、ここに屋敷でも構えて、のんびり老後を楽しむといい」
陳平は、劉邦の前に平伏した。
「陛下が危機から脱出なされたのは、臣の能力のためではありません。
すべては陛下の仁義と徳が四海(世界)に及んでいたおかげ。天が陛下を助けたのでございますよ」
(つづく)