あるとき、張良が自宅で静かに過ごしていると……
息子の張辟彊が、父張良に会いにやってきた。
「父上は、帝王の師として、しきりに大功をお立てになりました。
三公(最高位の官職)に昇りつめ、玉のような食事と1万もの杯を並べ、心安らかに富貴を享受し、一国を平和に治め、1万代先の子孫まで爵位を受け継がせる元勲となりなさっても、決して過ぎた身分ではないと思います。
それなのに、なぜ父上は門を閉ざして来客も断り、こんな寂しい土地に住んで、清廉の苦しみばかりを甘受しておられるのですか?」
張良は、薄く微笑した。
「お前は知らないだろうな。
この世で富貴を貪る者は、自分の立てた功名を楽しみ、目も眩むほどの栄華を喜び、地位を享受しながら高い所へふんぞりかえるものだ。
自分が1つ声をあげれば、100人の部下がそれに従う。
美しい妻と妾が自分の前に列を作っている。
笙の笛が自分の耳を満たしている……
そうして、『これぞ我が一生の志の極みである!』などと言いだすのだ。
位人臣を極めることこそ天下の忌み嫌うところであると、なぜ気づかない?
高い所にあるものは、必ず転落の危機が訪れる。
器に満ちたものは、いつか溢れる時が来る。
臣下の権威が大きくなれば、君主は疑いを抱くもの。
天もまた、あまりに満たされすぎた者を嫌うのだ。
邪な者たちは常に他人の隙を伺い、弱みにつけこんで誹謗や讒言を行う。
もし一度、天子が怒りを発し、大勢の人々が寄ってたかって責めたててきたら、もはや挽回はできなくなり、逃げる場所も失ってしまう。
そうなれば自分は処刑され、妻子は奴隷に落とされる。
富貴も、栄華も、一瞬のうちに空虚と化してしまうだろう。
だから私は、このように暮らしているのだ。
雲や水を静かに眺め……
笑傲江湖(世俗の権威を笑いとばすこと)し……
酒の酔いの中で乾坤(天地)の理を感じ……
壺中日月(壺の中にある仙境)で悠々と過ごす……
1人で部屋の中にいれば、1万個の心配も、みんな消えてなくなるのだよ。
たしかに寂しい土地に暮らしてはいるが、この胸の中には快楽がある。
たしかに藜や豆の葉などという粗末な食事に甘んじているが、俗世の外で気ままに暮らせてもいる。
寵愛や侮辱に心を乱されることなく、人々の利害にも関係せずに済む。
暇があるときには老子の説く玄虚(奥深い道)を実践し、静かなときには万物の自得(あるがままの状態で満ち足りること)するさまを観察する。
これこそ、身を保ち、命を惜しみ、天寿を全うして楽しむのに十分な方法だ。
汝らの家業を安定させ、末永く良臣として仕えられるようにしているのだよ。
この方が、春の花のように儚い富貴より勝っている、と言えるのではないかな?」
父張良の言葉を聞くと、張辟彊は、地に拝伏した。
「私は今日、はじめて父上が避穀しておられる意図を知りました!
これはまさに、道理に通じた人物の保身法でございます!」
*
それから、しばらくした、ある日。
張良は穀城の東へ旅行に来ていた。
穀城の東といえば、覇王項羽の墓所を建てた土地である。
張良が、そのあたりを巡っていると……
道のそばに、1つの黄色い石が転がっていた。
その石を見て、張良は、ハッ! と目を見開いた。
「あれはもう何年前のことだろうか……
私が始皇帝暗殺に失敗し、項伯のもとへ身を隠していたとき、橋の上で奇妙な老人と出会ったのだ。
(第二回参照)
あの老人は、私に兵法の極意を伝授し、こう予言した。
『十年後、お前は必ず世に出ることになる。
それからさらに三年後、穀城の東で、お前は一人の国君を葬るだろう。
そのとき、空き地の中に黄色い石が一つある。それが、このわしなのだよ』
今、私は黄色い石に出会った。
まさに、あの老人の言葉通りだ」
そこで、張良は黄色い石の前に伏して拝み、祠を建てて、黄色い石を祀ったのだった。
*
一方そのころ……
北方では、異民族の匈奴が、再び動きはじめていた。
匈奴の君主、冒頓単于は、かつて陳平の計略に欺かれ、劉邦を逃がしてしまった。
これを悔いた冒頓は、大軍を率いて中国北部の郡県を攻め、その地の住民たちを脅かしたのである。
匈奴襲来の報は、すぐさま皇帝劉邦の元へも伝わった。
劉邦は、この事態を深く憂慮し、諸臣を集めて対策の協議を行った。
その協議の場で、劉敬が言った。
「陛下は天下を平定なさったばかりで、士卒は、長きにわたる戦いに疲れ果てております。
武力によって匈奴を服従させることは不可能でしょう。
冒頓は、先代単于であった父を殺して地位を奪い、継母たちまで自分の妻としてしまった、犬畜生のような男です。
それが武力を背景にして威を振るっておりますから、仁義をもって説得することも不可能でしょう。
そこで……
公主(姫君。ここでは劉邦の娘のこと)のうちで結婚に適した年齢のお方を、冒頓に嫁がせましょう。
冒頓は必ずや喜んで公主を閼氏(妻)とし、後に子が生まれれば太子とするでしょう。
さすれば、冒頓の生きている間は冒頓が陛下の婿。
冒頓の死んだあとは陛下の外孫が匈奴の主となります。
外孫と外祖父が争うことなど、ありえましょうか?
これで匈奴との関係は安定するでしょう」
劉邦は、露骨に不快の表情を浮かべた。
「俺は堂々たる中国の君主だ。
俺の支配権は四海(世界)を覆い、兵も軍備も強く、国の勢いも弱まっていない。
野蛮な異民族を治めるのに、他に手が無いわけでもないだろう。
俺の公主を獣臭い犬や羊の妻にするだなんて、そりゃ一体どういう道理だ!
この話を天下の諸侯が耳にしたら、大笑いして俺を辱めるに決まってる!」
劉敬は、落ちついて答えた。
「匈奴の実力は、白登山で包囲されたときに、陛下ご自身の目で、ご覧になったはずです。
もし陳平の計略がなければ、あそこで陛下は滅ぼされておりました。
陛下は、これまで数年に渡り、楚と70回以上も戦い続けてこられました。
あの大戦で殺され、傷つけられた人民は、何百万人いるかも分からぬほどです。
天下の主となった陛下が最も重視すべきものは、民の命でございます。
どうして大軍を動かし、いま以上に天下を疲れさせようとなさるのですか。
そんなことになれば、人民は、いったい何を希望にして生きていけばよいのですか。
いま匈奴に和睦を請うことは、確かに一時膝を屈することではありましょう。
しかし、これは天下蒼生(民衆)のために必要な施策なのです。
もし公主を嫁がせることが我慢ならないのでしたら、庶人の中から娘を召しあげ、宮中に隠し養って、偽の公主となさいませ。
その後で、臣が使者として匈奴の地へ赴き、偽公主を嫁がせる条件で講和を成立させてきましょう。
こうして冒頓に兵を収めさせれば、陛下は北方のことを心配する必要もなくなります。
これこそ未来を見すえた策というものではないでしょうか?」
劉邦は、
「なるほど……」
と納得し、さっそく劉敬の策を実行に移した。
すなわち、民の中から女子を1人選んで偽公主とし、劉敬を和睦の使者として匈奴の元へ遣わしたのである。
(つづく)