龍虎戦記 項羽vs劉邦【翻案・通俗漢楚軍談】   作:外清内ダク

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七十九の中 赤松子の遊ぶに従い

 

 

 あるとき、張良が自宅で静かに過ごしていると……

 息子の張(ちょう)辟彊(へききょう)が、父張良に会いにやってきた。

 

「父上は、帝王の師として、しきりに大功をお立てになりました。

 三公(最高位の官職)に昇りつめ、玉のような食事と1万もの杯(さかずき)を並べ、心安らかに富貴を享受(きょうじゅ)し、一国を平和に治め、1万代先の子孫まで爵位(しゃくい)を受け継がせる元勲(げんくん)となりなさっても、決して過ぎた身分ではないと思います。

 

 それなのに、なぜ父上は門を閉ざして来客も断り、こんな寂しい土地に住んで、清廉の苦しみばかりを甘受(かんじゅ)しておられるのですか?」

 

 張良は、薄く微笑した。

「お前は知らないだろうな。

 この世で富貴を貪(むさぼ)る者は、自分の立てた功名を楽しみ、目も眩(くら)むほどの栄華を喜び、地位を享受(きょうじゅ)しながら高い所へふんぞりかえるものだ。

 

 自分が1つ声をあげれば、100人の部下がそれに従う。

 美しい妻と妾(めかけ)が自分の前に列を作っている。

 笙(しょう)の笛が自分の耳を満たしている……

 そうして、『これぞ我が一生の志(こころざし)の極みである!』などと言いだすのだ。

 

 位(くらい)人臣(じんしん)を極めることこそ天下の忌(い)み嫌うところであると、なぜ気づかない?

 高い所にあるものは、必ず転落の危機が訪(おとず)れる。

 器(うつわ)に満ちたものは、いつか溢(あふ)れる時が来る。

 

 臣下の権威が大きくなれば、君主は疑いを抱(いだ)くもの。

 天もまた、あまりに満たされすぎた者を嫌うのだ。

 

 邪(よこしま)な者たちは常に他人の隙(すき)を伺(うかが)い、弱みにつけこんで誹謗(ひぼう)や讒言(ざんげん)を行う。

 もし一度(ひとたび)、天子が怒りを発し、大勢の人々が寄ってたかって責めたててきたら、もはや挽回(ばんかい)はできなくなり、逃げる場所も失ってしまう。

 

 そうなれば自分は処刑され、妻子は奴隷に落とされる。

 富貴も、栄華も、一瞬のうちに空虚と化してしまうだろう。

 

 だから私は、このように暮らしているのだ。

 雲や水を静かに眺(なが)め……

 笑傲(しょうごう)江湖(こうこ)(世俗の権威を笑いとばすこと)し……

 酒の酔いの中で乾坤(けんこん)(天地)の理(ことわり)を感じ……

 壺中日月(こちゅうじつげつ)(壺(つぼ)の中にある仙境)で悠々(ゆうゆう)と過ごす……

 

 1人で部屋の中にいれば、1万個の心配も、みんな消えてなくなるのだよ。

 

 たしかに寂しい土地に暮らしてはいるが、この胸の中には快楽がある。

 たしかに藜(あかざ)や豆の葉などという粗末な食事に甘んじているが、俗世の外で気ままに暮らせてもいる。

 

 寵愛や侮辱に心を乱されることなく、人々の利害にも関係せずに済む。

 暇があるときには老子の説(と)く玄虚(げんきょ)(奥深い道)を実践し、静かなときには万物の自得(あるがままの状態で満ち足りること)するさまを観察する。

 

 これこそ、身を保ち、命(いのち)を惜(お)しみ、天寿を全(まっと)うして楽しむのに十分な方法だ。

 汝らの家業を安定させ、末永(すえなが)く良臣として仕えられるようにしているのだよ。

 この方が、春の花のように儚(はかな)い富貴より勝(まさ)っている、と言えるのではないかな?」

 

 父張良の言葉を聞くと、張(ちょう)辟彊(へききょう)は、地に拝伏した。

「私は今日、はじめて父上が避穀(へきこく)しておられる意図を知りました!

 これはまさに、道理に通じた人物の保身法でございます!」

 

 

   *

 

 

 それから、しばらくした、ある日。

 張良は穀城(こくじょう)の東へ旅行に来ていた。

 穀城(こくじょう)の東といえば、覇王項羽の墓所を建てた土地である。

 

 張良が、そのあたりを巡っていると……

 道のそばに、1つの黄色い石が転がっていた。

 

 その石を見て、張良は、ハッ! と目を見開いた。

「あれはもう何年前のことだろうか……

 私が始皇帝暗殺に失敗し、項伯のもとへ身を隠していたとき、橋の上で奇妙な老人と出会ったのだ。

(第二回参照)

 

 あの老人は、私に兵法の極意を伝授し、こう予言した。

 

『十年後、お前は必ず世に出ることになる。

 それからさらに三年後、穀城(こくじょう)の東で、お前は一人の国君を葬るだろう。

 そのとき、空き地の中に黄色い石が一つある。それが、このわしなのだよ』

 

 今、私は黄色い石に出会った。

 まさに、あの老人の言葉通りだ」

 

 そこで、張良は黄色い石の前に伏して拝(おが)み、祠(ほこら)を建てて、黄色い石を祀(まつ)ったのだった。

 

 

   *

 

 

 一方そのころ……

 北方では、異民族の匈奴(きょうど)が、再び動きはじめていた。

 

 匈奴(きょうど)の君主、冒頓(ぼくとつ)単于(ぜんう)は、かつて陳平(ちんぺい)の計略に欺(あざむ)かれ、劉邦を逃がしてしまった。

 これを悔(く)いた冒頓(ぼくとつ)は、大軍を率(ひき)いて中国北部の郡県を攻め、その地の住民たちを脅(おびや)かしたのである。

 

 匈奴(きょうど)襲来の報は、すぐさま皇帝劉邦の元へも伝わった。

 劉邦は、この事態を深く憂慮(ゆうりょ)し、諸臣を集めて対策の協議を行った。

 

 その協議の場で、劉敬(りゅうけい)が言った。

「陛下は天下を平定なさったばかりで、士卒は、長きにわたる戦いに疲れ果てております。

 武力によって匈奴(きょうど)を服従させることは不可能でしょう。

 

 冒頓(ぼくとつ)は、先代単于(ぜんう)であった父を殺して地位を奪い、継母(ままはは)たちまで自分の妻としてしまった、犬(いぬ)畜生(ちくしょう)のような男です。

 それが武力を背景にして威を振るっておりますから、仁義をもって説得することも不可能でしょう。

 

 そこで……

 公主(姫君。ここでは劉邦の娘のこと)のうちで結婚に適した年齢のお方を、冒頓(ぼくとつ)に嫁(とつ)がせましょう。

 

 冒頓(ぼくとつ)は必ずや喜んで公主を閼氏(えんし)(妻)とし、後に子が生まれれば太子とするでしょう。

 さすれば、冒頓(ぼくとつ)の生きている間は冒頓が陛下の婿(むこ)。

 冒頓(ぼくとつ)の死んだあとは陛下の外孫(がいそん)が匈奴(きょうど)の主(あるじ)となります。

 

 外孫と外祖父が争うことなど、ありえましょうか?

 これで匈奴(きょうど)との関係は安定するでしょう」

 

 劉邦は、露骨に不快の表情を浮かべた。

「俺は堂々たる中国の君主だ。

 俺の支配権は四海(世界)を覆(おお)い、兵も軍備も強く、国の勢いも弱まっていない。

 

 野蛮な異民族を治めるのに、他に手が無いわけでもないだろう。

 俺の公主を獣(けもの)臭(くさ)い犬や羊の妻にするだなんて、そりゃ一体どういう道理だ!

 この話を天下の諸侯が耳にしたら、大笑いして俺を辱(はずかし)めるに決まってる!」

 

 劉敬(りゅうけい)は、落ちついて答えた。

「匈奴(きょうど)の実力は、白登山(はくとさん)で包囲されたときに、陛下ご自身の目で、ご覧(らん)になったはずです。

 もし陳平(ちんぺい)の計略がなければ、あそこで陛下は滅ぼされておりました。

 

 陛下は、これまで数年に渡り、楚(そ)と70回以上も戦い続けてこられました。

 あの大戦で殺され、傷つけられた人民は、何百万人いるかも分からぬほどです。

 

 天下の主(あるじ)となった陛下が最も重視すべきものは、民(たみ)の命(いのち)でございます。

 どうして大軍を動かし、いま以上に天下を疲れさせようとなさるのですか。

 そんなことになれば、人民は、いったい何を希望にして生きていけばよいのですか。

 

 いま匈奴(きょうど)に和睦(わぼく)を請(こ)うことは、確かに一時(いっとき)膝(ひざ)を屈することではありましょう。

 しかし、これは天下蒼生(そうせい)(民衆)のために必要な施策なのです。

 

 もし公主を嫁(とつ)がせることが我慢(がまん)ならないのでしたら、庶人の中から娘を召(め)しあげ、宮中に隠し養って、偽(にせ)の公主となさいませ。

 その後で、臣が使者として匈奴(きょうど)の地へ赴(おもむ)き、偽(にせ)公主を嫁(とつ)がせる条件で講和を成立させてきましょう。

 

 こうして冒頓(ぼくとつ)に兵を収めさせれば、陛下は北方のことを心配する必要もなくなります。

 これこそ未来を見すえた策というものではないでしょうか?」

 

 劉邦は、

「なるほど……」

 と納得し、さっそく劉敬(りゅうけい)の策を実行に移した。

 

 すなわち、民(たみ)の中から女子を1人選んで偽(にせ)公主とし、劉敬(りゅうけい)を和睦(わぼく)の使者として匈奴(きょうど)の元へ遣(つか)わしたのである。

 

 

(つづく)

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