次の日。
陳豨は、兵を率いて出陣し、蕃軍の目の前まで接近した。
蕃軍の方からは、蕃王が自ら馬を出し、陳豨に向かって叫びかけてきた。
「漢王劉邦は、冒頓の勢いを恐れ、公主を送って嫁がせ、和睦を成した!
わしにも数百万の軍勢があるぞ!
わしのところにも、漢王の公主を妻として送ってこい!
さもなくば、たちまち踏みつぶしてやる!
なんにせよ、汝のような無名の小物に用はない!
さっさと帰って、漢王を俺の前に連れてこい!」
これに対し、陳豨は大いに怒った。
「我が主君は大漢の皇帝にあらせられる!
汝のような蕃族ふぜいが、拝謁の栄誉など得られるものか!」
陳豨は刀をあげ、蕃王へと斬りかかった。
そのとき、蕃王の後ろから、1人の蕃将が飛び出てきた。
蕃将は斧を振り回しながら陣の前に進むと、陳豨を迎えうった。
陳豨と蕃将、両者の馬が交差し、武器と武器が火花を散らす。
あちらが行けば、こちらが来る。あちらがぶつかれば、こちらが突く。
2人で刃を交えること20合あまり。
ここで陳豨は、
「くそっ」
と吐き捨て、蕃将に背を向けて逃げ出した。
陳豨は、南の方角へ一目散に駆けていく。
蕃将は、
「逃がさん!」
と、馬を打って追いかけた。
追いつ追われつ10里(4km)あまり走ったところで、前方に、高い山が見えはじめた。
山の麓には、大きな渓流が横たわっている。
しかし水は浅く、容易に走って渡れれそうである。
陳豨は馬に鞭を入れ、一気に渓流を走り抜けた。
その後に、蕃将が大軍を率いて続く。
……と。
蕃将配下の軍勢が渓流を渡り切った、そのとき。
突然、すさまじい水音がドウドウと響いてきた。
蕃将が驚いて振り返れば、さきほど渡った渓流に、急に大量の水が漲り流れ込んできたではないか!
逆波が天をも浸すほどの水量。流れは矢の飛ぶがごとくに速い。
蕃将は慌てた。
前方には高い山。後方には深い渓流。
前後を塞がれ、蕃将は行き場を失ってしまった。
そのときである。
あたりに、一声の鉄砲が鳴り響いた。
いつのまにか山上に上っていた陳豨が、部下たちへ合図を送ったのである。
すると、蕃将の左右の谷際から、二手の精兵が飛びだしてきた。
漢軍の待ち伏せである。陳豨がここまで逃げてきたのは、蕃将を誘い込む策略だったのだ。
逃げ場をなくしたところへ、左右からの挟撃。
そのうえ漢軍の太鼓は喧しいほどに鳴り響き、放たれる矢は蝗の大群さながらの数である。
蕃軍は身を隠すこともできず、次々に討たれていった。
蕃将は、
「こうなったら、漢軍の総大将を討つしかない!」
と一発逆転を狙い、陳豨のいる丘を駆けのぼりはじめた。
ところが、これも陳豨の予測通りの行動だった。
陳豨が兵に命令を下すと、漢兵たちは、丘の上から丸太を次々に投げ落とした。
この丸太が、蕃将の馬に命中した。
馬が倒れ、蕃将は地に振り落とされた。
その落馬した場所というのが、ちょうど屏風を立てたような断崖絶壁の上であったから、運がない。
蕃将は足を踏み外し、そのまま深さ数千丈の谷底まで転げ落ち、微塵に砕けて死んでしまった。
この蕃将こそが、昨日の間者の報告にあった哈延赤であった。
*
一方そのころ。
蕃王は、万一の事態に備えるため、後軍として哈延赤の後を追っていた。
しばらく進むと、前方の山で両軍が激突しているのが見えてきた。
その様子を見て、蕃王は目を見開いた。
哈延赤の軍が、さんざんに掻き乱されているではないか! 哈延赤は漢軍に破られてしまったのだ!
「いかん! 救援に行かねば!」
蕃王は急いで後軍を前進させた。
だが、少し進んだところで、蕃王は立ち止まるはめになってしまった。
例の渓流が、蕃王の行く手を塞いでいたのだ。
水の勢いは強く、とても渡れそうにない。
「どこかに流れの緩い所はないか?」
蕃王は、上流へ下流へと駆け回った。
しかし、渡れそうな場所は、どこにもない。
そのときである。
蕃王の元へ、後方から報告が飛び込んできた。
「大王様が出陣して空となった要塞に、漢軍が攻め込んできました!
漢軍は要塞の門を突破し、そこらじゅうに放火して、兵糧物資を全て焼き払ってしまいました!
周囲4ヶ所の陣にいた味方の兵は、要塞から火の手が上がったのを見て、救援のため出陣しましたが……
漢軍は、そこを狙って、さらに攻撃を仕掛けてきました。
味方は前後の連携も取れなくなり、ズタズタに分断されて八つ裂き状態です!
みんな逃げ去ってしまい、もう、どこへ行ったかも分かりません!」
蕃王は、悔しそうに歯噛みした。
「そんな状況なら、今から引き返したところで、要塞を取り戻すことは不可能だろう……」
しかたなく、蕃王は北蕃へ続く道を目指し、撤退していったのだった。
*
陳豨は、蕃王が撤退しはじめたのを丘の上から見ていた。
「敵が退きはじめたか。
おそらく、蕃軍の兵糧を焼く計略が成功したのだろう」
そこで陳豨は、兵に下知して、渓流の上流の方へ石を運ばせた。
その石で渓流を堰き止めると、水の勢いはみるみる収まり、半時ほどで歩いて渡れるようになった。
陳豨は軍勢を率いて渓流を渡り、蕃軍の要塞へ向かった。
そこで諸将と合流し、各軍の戦果をまとめてみると……
今日一日で討滅した蕃兵は、なんと40万人にものぼることが分かった。
まさに大勝利である。
次の日。
陳豨は趙の城に入り、酒宴を開いて将兵を労った。
酒が進み、皆がホロ酔いになったところで、陳豨は盃を取り、大将たちに言った。
「今回、蕃兵は大敗し、遠くへ逃げ去っていった。
これは、私の計略が的中したのもあるが、なにより、諸君が二心なく私を助けてくれたおかげである。
ただ……
私の考えでは、漢帝は戦時の憂いを共にすべき方ではあるが、太平の楽しみを共にすべき方ではない。
たとえば韓信だ。
韓信は、5年にわたり血で血を洗う戦いを続け、いくつもの大功を立て、ついに天下を平定した。
それなのに今、漢帝は韓信を無用のものとして捨て置いている。
それどころか、韓信の落ち度を探し、機を見て殺そうとする気配さえある。
あの韓信でさえ、このありさまだ。
私には数度の勲功があるとはいえ、韓信の半分にも及ばない。
こうして心と力を尽くして蕃兵を破ったが、皇帝陛下は重く賞してくださらないだろう。
そこで……
私の愚見を述べる。
我らは、このままこの地に兵を駐屯させ、趙・代を占領すべきである!
各地の要害を抑え、兵糧や馬草を集め、四方の豪傑を招き集めて、鋭気を養う。
こうして、天下を手に入れる計画を進めるのだ。
当然、漢は我らを討伐しようとするだろう。
だが最近では、漢帝も年老い、戦場に出るのを嫌がるようになった。
おそらく諸将の誰かに討伐を命じるだろうが、韓信に匹敵するほどの将は、どこにもいない。恐るるに足らぬ。
私が王となる野望を成就させた暁には、ここにいる諸君も王爵に封じ、ともに富貴を享受することを約束しよう。
どうだろうか? 諸君、なにか考えがあれば、遠慮なく思うところを申されよ」
諸将は、ざわめいた。
陳豨の言うことには一理ある。
韓信が漢帝に誅殺されかけ、これといった役目も与えられぬまま飼い殺しとなっているのは周知の事実。
それに、いったん漢帝国が安定してしまった今、どれほど懸命に戦ったとしても、たいした出世は望めまい。
以前からそういう不安を抱えていた諸将に、陳豨の提案は強く響いた。
諸将は、声をそろえて答えた。
「陳豨将軍の計略に従い、ともに力を尽くします!」
*
かくして――
この年の7月、陳豨は趙・代周辺に勢力を持つ王黄などの諸将に檄文を送り、各地で挙兵させた。
そして陳豨は、ついに自ら立って代王となった。
陳豨の侵略によって、趙・代は大混乱に陥った。
各郡県の人民は、略奪や戦乱を恐れ、逃亡を始めたのである。
(つづく)