龍虎戦記 項羽vs劉邦【翻案・通俗漢楚軍談】   作:外清内ダク

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八十の丙 そそのかす者

 

 

 次の日。

 陳豨(ちんき)は、兵を率(ひき)いて出陣し、蕃(ばん)軍の目の前まで接近した。

 

 蕃(ばん)軍の方からは、蕃(ばん)王が自(みずか)ら馬を出し、陳豨(ちんき)に向かって叫びかけてきた。

「漢王劉邦は、冒頓(ぼくとつ)の勢いを恐れ、公主を送って嫁(とつ)がせ、和睦を成(な)した!

 

 わしにも数百万の軍勢があるぞ!

 わしのところにも、漢王の公主を妻として送ってこい!

 さもなくば、たちまち踏みつぶしてやる!

 

 なんにせよ、汝のような無名の小物(こもの)に用はない!

 さっさと帰って、漢王を俺の前に連れてこい!」

 

 これに対し、陳豨(ちんき)は大いに怒った。

「我が主君は大漢の皇帝にあらせられる!

 汝のような蕃(ばん)族ふぜいが、拝謁(はいえつ)の栄誉など得られるものか!」

 

 陳豨(ちんき)は刀をあげ、蕃(ばん)王へと斬りかかった。

 

 そのとき、蕃(ばん)王の後ろから、1人の蕃(ばん)将が飛び出てきた。

 蕃(ばん)将は斧を振り回しながら陣の前に進むと、陳豨(ちんき)を迎えうった。

 

 陳豨(ちんき)と蕃(ばん)将、両者の馬が交差し、武器と武器が火花を散らす。

 あちらが行けば、こちらが来る。あちらがぶつかれば、こちらが突く。

 2人で刃を交えること20合あまり。

 

 ここで陳豨(ちんき)は、

「くそっ」

 と吐き捨て、蕃(ばん)将に背を向けて逃げ出した。

 

 陳豨(ちんき)は、南の方角へ一目散に駆けていく。

 蕃(ばん)将は、

「逃がさん!」

 と、馬を打って追いかけた。

 

 追いつ追われつ10里(4km)あまり走ったところで、前方に、高い山が見えはじめた。

 山の麓(ふもと)には、大きな渓流(けいりゅう)が横たわっている。

 しかし水は浅く、容易に走って渡れれそうである。

 

 陳豨(ちんき)は馬に鞭(むち)を入れ、一気に渓流(けいりゅう)を走り抜けた。

 その後に、蕃(ばん)将が大軍を率(ひき)いて続く。

 

 ……と。

 蕃(ばん)将配下の軍勢が渓流(けいりゅう)を渡り切った、そのとき。

 突然、すさまじい水音がドウドウと響いてきた。

 

 蕃(ばん)将が驚いて振り返れば、さきほど渡った渓流(けいりゅう)に、急に大量の水が漲(みなぎ)り流れ込んできたではないか!

 逆波(さかなみ)が天をも浸(ひた)すほどの水量。流れは矢の飛ぶがごとくに速い。

 

 蕃(ばん)将は慌てた。

 前方には高い山。後方には深い渓流(けいりゅう)。

 前後を塞(ふさ)がれ、蕃(ばん)将は行き場を失ってしまった。

 

 そのときである。

 あたりに、一声の鉄砲が鳴り響いた。

 いつのまにか山上に上(のぼ)っていた陳豨(ちんき)が、部下たちへ合図を送ったのである。

 

 すると、蕃(ばん)将の左右の谷際から、二手の精兵が飛びだしてきた。

 漢軍の待ち伏せである。陳豨(ちんき)がここまで逃げてきたのは、蕃(ばん)将を誘い込む策略だったのだ。

 

 逃げ場をなくしたところへ、左右からの挟撃。

 そのうえ漢軍の太鼓は喧(やかま)しいほどに鳴り響き、放たれる矢は蝗(いなご)の大群さながらの数である。

 

 蕃(ばん)軍は身を隠すこともできず、次々に討たれていった。

 

 蕃(ばん)将は、

「こうなったら、漢軍の総大将を討(う)つしかない!」

 と一発逆転を狙い、陳豨(ちんき)のいる丘を駆けのぼりはじめた。

 

 ところが、これも陳豨(ちんき)の予測通りの行動だった。

 陳豨(ちんき)が兵に命令を下すと、漢兵たちは、丘の上から丸太を次々に投げ落とした。

 

 この丸太が、蕃(ばん)将の馬に命中した。

 馬が倒れ、蕃(ばん)将は地に振り落とされた。

 

 その落馬した場所というのが、ちょうど屏風(びょうぶ)を立てたような断崖絶壁の上であったから、運がない。

 蕃(ばん)将は足を踏み外し、そのまま深さ数千丈の谷底まで転げ落ち、微塵(みじん)に砕けて死んでしまった。

 

 この蕃(ばん)将こそが、昨日の間者(かんじゃ)の報告にあった哈(は)延(えん)赤(せき)であった。

 

 

   *

 

 

 一方そのころ。

 

 蕃(ばん)王は、万一の事態に備えるため、後軍として哈(は)延(えん)赤(せき)の後を追っていた。

 

 しばらく進むと、前方の山で両軍が激突しているのが見えてきた。

 その様子を見て、蕃(ばん)王は目を見開いた。

 哈(は)延(えん)赤(せき)の軍が、さんざんに掻き乱されているではないか! 哈(は)延(えん)赤(せき)は漢軍に破(やぶ)られてしまったのだ!

 

「いかん! 救援に行かねば!」

 蕃(ばん)王は急いで後軍を前進させた。

 

 だが、少し進んだところで、蕃(ばん)王は立ち止まるはめになってしまった。

 例の渓流(けいりゅう)が、蕃(ばん)王の行く手を塞(ふさ)いでいたのだ。

 水の勢いは強く、とても渡れそうにない。

 

「どこかに流れの緩(ゆる)い所はないか?」

 蕃(ばん)王は、上流へ下流へと駆け回った。

 しかし、渡れそうな場所は、どこにもない。

 

 そのときである。

 蕃(ばん)王の元へ、後方から報告が飛び込んできた。

 

「大王様が出陣して空(から)となった要塞に、漢軍が攻め込んできました!

 漢軍は要塞の門を突破し、そこらじゅうに放火して、兵糧(ひょうろう)物資を全て焼き払ってしまいました!

 

 周囲4ヶ所の陣にいた味方の兵は、要塞から火の手が上がったのを見て、救援のため出陣しましたが……

 漢軍は、そこを狙って、さらに攻撃を仕掛(しか)けてきました。

 

 味方は前後の連携も取れなくなり、ズタズタに分断されて八(や)つ裂(ざ)き状態です!

 みんな逃げ去ってしまい、もう、どこへ行ったかも分かりません!」

 

 蕃(ばん)王は、悔(くや)しそうに歯噛(はが)みした。

「そんな状況なら、今から引き返したところで、要塞を取り戻すことは不可能だろう……」

 

 しかたなく、蕃(ばん)王は北蕃(ほくばん)へ続く道を目指し、撤退していったのだった。

 

 

   *

 

 

 陳豨(ちんき)は、蕃(ばん)王が撤退しはじめたのを丘の上から見ていた。

 

「敵が退(ひ)きはじめたか。

 おそらく、蕃(ばん)軍の兵糧(ひょうろう)を焼く計略が成功したのだろう」

 

 そこで陳豨(ちんき)は、兵に下知(げち)して、渓流(けいりゅう)の上流の方へ石を運ばせた。

 その石で渓流(けいりゅう)を堰(せ)き止めると、水の勢いはみるみる収まり、半時(はんとき)ほどで歩いて渡れるようになった。

 

 陳豨(ちんき)は軍勢を率(ひき)いて渓流(けいりゅう)を渡り、蕃(ばん)軍の要塞へ向かった。

 そこで諸将と合流し、各軍の戦果をまとめてみると……

 

 今日一日で討滅(とうめつ)した蕃(ばん)兵は、なんと40万人にものぼることが分かった。

 まさに大勝利である。

 

 次の日。

 陳豨(ちんき)は趙(ちょう)の城に入り、酒宴を開いて将兵を労(ねぎら)った。

 

 酒が進み、皆(みな)がホロ酔いになったところで、陳豨(ちんき)は盃(さかずき)を取り、大将たちに言った。

 

「今回、蕃(ばん)兵は大敗し、遠くへ逃げ去っていった。

 これは、私の計略が的中したのもあるが、なにより、諸君が二心(ふたごころ)なく私を助けてくれたおかげである。

 

 ただ……

 私の考えでは、漢帝は戦時の憂(うれ)いを共にすべき方ではあるが、太平の楽しみを共にすべき方ではない。

 

 たとえば韓信だ。

 韓信は、5年にわたり血で血を洗う戦いを続け、いくつもの大功を立て、ついに天下を平定した。

 それなのに今、漢帝は韓信を無用のものとして捨て置いている。

 それどころか、韓信の落ち度を探し、機を見て殺そうとする気配さえある。

 

 あの韓信でさえ、このありさまだ。

 私には数度の勲功があるとはいえ、韓信の半分にも及ばない。

 こうして心と力を尽くして蕃(ばん)兵を破ったが、皇帝陛下は重く賞してくださらないだろう。

 

 そこで……

 私の愚見(ぐけん)を述べる。

 我らは、このままこの地に兵を駐屯(ちゅうとん)させ、趙(ちょう)・代(だい)を占領すべきである!

 

 各地の要害を抑(おさ)え、兵糧(ひょうろう)や馬草(まぐさ)を集め、四方の豪傑を招き集めて、鋭気を養う。

 こうして、天下を手に入れる計画を進めるのだ。

 

 当然、漢は我らを討伐(とうばつ)しようとするだろう。

 だが最近では、漢帝も年老(としお)い、戦場に出るのを嫌がるようになった。

 おそらく諸将の誰かに討伐(とうばつ)を命(めい)じるだろうが、韓信に匹敵するほどの将は、どこにもいない。恐るるに足らぬ。

 

 私が王となる野望を成就(じょうじゅ)させた暁(あかつき)には、ここにいる諸君も王爵に封(ほう)じ、ともに富貴を享受(きょうじゅ)することを約束しよう。

 どうだろうか? 諸君、なにか考えがあれば、遠慮なく思うところを申されよ」

 

 諸将は、ざわめいた。

 陳豨(ちんき)の言うことには一理ある。

 韓信が漢帝に誅殺(ちゅうさつ)されかけ、これといった役目も与えられぬまま飼い殺しとなっているのは周知の事実。

 それに、いったん漢帝国が安定してしまった今、どれほど懸命に戦ったとしても、たいした出世は望めまい。

 

 以前からそういう不安を抱えていた諸将に、陳豨(ちんき)の提案は強く響いた。

 諸将は、声をそろえて答えた。

「陳豨(ちんき)将軍の計略に従い、ともに力を尽くします!」

 

 

   *

 

 

 かくして――

 この年の7月、陳豨(ちんき)は趙(ちょう)・代(だい)周辺に勢力を持つ王黄(おうこう)などの諸将に檄文(げきぶん)を送り、各地で挙兵させた。

 

 そして陳豨(ちんき)は、ついに自(みずか)ら立って代(だい)王となった。

 

 陳豨(ちんき)の侵略によって、趙(ちょう)・代(だい)は大混乱に陥(おちい)った。

 各郡県の人民は、略奪や戦乱を恐れ、逃亡を始めたのである。

 

 

(つづく)

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