龍虎戦記 項羽vs劉邦【翻案・通俗漢楚軍談】   作:外清内ダク

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八十一の中 皇帝の用兵

 

 

 随何(ずいか)は、陳豨(ちんき)の陣に入った。

 陣内で随何(ずいか)は陳豨(ちんき)と対面し、君臣の礼……すなわち君主に対する礼儀作法を用いて挨拶(あいさつ)した。

 

 陳豨(ちんき)は、とまどった。

「私と随何(ずいか)大夫(たいふ)は、ともに漢朝に仕える同列の臣でしょう。

 なぜ、そのように大げさな礼を行うのです?」

 

 随何(ずいか)が言う。

「陳豨(ちんき)将軍は、100万の兵を率(ひき)いて趙(ちょう)・代(だい)で威勢をふるい、漢帝と天下を賭(か)けて争っているお方です。

 

 もし失礼があれば、陳豨(ちんき)将軍の剣の切れ味を私の体で試すことになると……

 そう恐れて、このように礼をいたしたのです」

 

 陳豨(ちんき)は笑いだした。

「ははは……!

 大夫(たいふ)は間違(まちが)っておられます。

 私が謀反(むほん)したのは、決して本心からではない。

 やむをえなかった。こうするしかなかったのです。

 

 漢帝は、猜疑(さいぎ)心が強く、冷酷で、他人が立てた功績も忘れてしまう性格です。

 こういう人物とは、ともに富貴を享受(きょうじゅ)することができない。

 だから私は謀反(むほん)したのですよ。

 

 まあ、それはよいでしょう。

 大夫(たいふ)は、私に何を説(と)きにいらしたのです?」

 

 随何(ずいか)が言う。

「私は、漢帝から『陳豨(ちんき)将軍を諭(さと)して降参させよ』との勅命(ちょくめい)を受け、詔書(しょうしょ)を持参したのです。

 すぐに兵を収めて漢に帰服なさるなら、陛下は陳豨(ちんき)将軍を代(だい)王に封(ほう)じなさるおつもりです」

 

 随何(ずいか)は詔書(しょうしょ)を差し出した。

 

 陳豨(ちんき)は、すぐに詔書(しょうしょ)を開いて読み始めた。

 すべて読み終わり、陳豨(ちんき)は心の中で考えた。

「これは偽(いつわ)りの計略だ。もし降参したら、きっと擒(とりこ)にされてしまうだろう」

 

 そこで陳豨(ちんき)は、随何(ずいか)に向かって言った。

「漢帝は、大軍を率(ひき)いて近くまで来ているのでしょう。

 まだ私と一度も戦っていないのに、大夫(たいふ)を寄越(よこ)して降伏を呼びかけるとは解(げ)せぬ話です。

 これは偽(いつわ)りですね」

 

 随何(ずいか)は首を横に振った。

「いやいや、そうではありません。

 皇帝陛下も、はじめは貴公と交戦し、勝負を決めようと考えておいででした。

 しかし、群臣と協議した結果、考えを改めなさったのです。

 

『軍を全(まっと)うするを上となし、軍を破るはこれに次ぐ。

 国を全(まっと)うするを上となし、国を破るはこれに次ぐ……

 そういう諺(ことわざ)もある。できれば軍も国も傷つけることなく、民(たみ)の命(いのち)を守りたい』

 

 陛下は、そうおっしゃって、詔書(しょうしょ)をお送りになりました。

 もし貴公に帰服する意思が無いのであれば、私は別に強要しません。

 すぐに帰って、貴公の言葉をそのまま皇帝陛下にお伝えするまでです」

 

 陳豨(ちんき)は、うなずいて言った。

「この陳豨(ちんき)と韓信の功績は、どちらが大きいと思う?

 韓信は、楚(そ)を破(やぶ)り天下を平定した。

 その功労は、私が蕃(ばん)兵を破(やぶ)った功績に比べて百倍、いや千倍以上も大きなものだ。

 

 韓信は、それだけの大功を成しとげたうえ、一点の異心さえ抱いてはいなかった。

 それほどの韓信ですら、皇帝陛下は、雲夢(うんぼう)に行幸(ぎょうこう)すると偽(いつわ)って捕らえてしまった。

 

 たとえ私が帰服したとしても、漢帝は反逆の罪を許しはしまい。

 私は、この詔(みことのり)には従えない。

 大夫(たいふ)、お帰りになったら、この旨(むね)を漢帝にお伝えいただきたい」

 

 随何(ずいか)は、

「いや、そうは仰(おっしゃ)いますが……」

 と食い下がった。

 

 そこから随何(ずいか)は、あれやこれやと言葉を尽くし、半日以上も陳豨(ちんき)と話し込んだ。

 結局、陳豨(ちんき)の心を動かすことはできなかったが、それは問題ではない。

 なぜなら、随何(ずいか)の狙いは、話を引き延ばすことそのものにあったからである。

 

 たっぷりと時間をかけて話し合ったところで、随何(ずいか)は思った。

「よし。このくらい時間を稼げば、計略も上手くいっているだろう」

 

 そこで随何(ずいか)は、説得を諦めたフリをして陳豨(ちんき)と別れ、陣営から退出した。

 

 陣外に出たところで従者と合流し、首尾を聞いてみると、従者は、してやったりという顔で、ほくそ笑んだ。

「ご指示どおり、100斤(きん)の黄金を全て陳豨(ちんき)麾下(きか)の大将たちに配っておきました。

 みんな限りなく喜んでいましたよ」

 

「よし。よくやった」

 随何(ずいか)は満足げに笑い、うなずいた。

 そして急ぎ帰還し、劉邦に事(こと)の次第(しだい)を報告したのだった。

 

 

   *

 

 

 次の日。

 

 劉邦は満(まん)を持(じ)して出陣し、みずから兵を率(ひい)いて陳豨(ちんき)の陣へ押し寄せていった。

 それに対応して陳豨(ちんき)の方も出陣し、軍を展開させて漢軍の到着を待ち受けた。

 

 広い平地で両軍は出会い、互いに距離を空けて布陣した。

 睨(にら)み合いの形である。

 

 ここで先に動いたのは陳豨(ちんき)の方だった。

 陳豨(ちんき)は軍勢の前に進み出ると、劉邦へ向けて馬上から頭を下げて礼をし、呼びかけた。

 

「陛下も、だんだん春秋(しゅんじゅう)(年齢)が高くなってこられました!

 どうして聖なるお体を苦しめてまで、矢や石の飛び交(か)う戦場に出ていらしたのですか!」

 

 劉邦も、大声で叫び返した。

「俺は、汝に悪くしたことは一度もないぞ!

 それなのに、どうして謀反(むほん)なんかしたんだ!」

 

 陳豨(ちんき)が答える。

「陛下は、功臣を誅殺(ちゅうさつ)し、残忍な行いばかりして、他人にあまり恩を施(ほどこ)しておられない!

 これは秦(しん)の過酷な法を引き継ぎ、項羽の悪行をマネする行為です!

 それゆえ、臣は背(そむ)かずにいられないのです!」

 

 この言葉が、劉邦の逆鱗(げきりん)に触れた。

 劉邦は激怒して、背後の軍勢のほうへ振り返った。

「おい! あの逆賊を誅殺(ちゅうさつ)するのは誰だっ?」

 

「俺だ!」

「自分も!」

 そろって飛び出てきたのは、樊噲(はんかい)と周勃(しゅうぼつ)。

 漢軍きっての豪傑2人である。

 

 樊噲(はんかい)・周勃(しゅうぼつ)は、勢いそのまま陳豨(ちんき)の軍へ突っ込んでいき、戦いを挑(いど)んだ。

 

 2対1で刃を交え、戦い合うこと20合あまり。

 ここで漢軍から王陵・周昌も槍を引っさげ駆けつけて、四方から陳豨(ちんき)を取り囲む形となった。

 

 陳豨(ちんき)も、蕃(ばん)軍討伐(とうばつ)に抜擢(ばってき)されただけあって、優秀な将ではあった。

 しかし、項羽との激闘を乗り越えてきた漢軍主力が相手では、さすがに分(ぶ)が悪い。

 

 陳豨(ちんき)は大(おお)いに敗れ、兵をまとめて南方へ逃走しはじめた。

 

 南には、陳豨(ちんき)麾下(きか)の大将、劉武(りゅうぶ)や楚招(そしょう)らが陣を構えている。

 陳豨(ちんき)は、

「劉武(りゅうぶ)たちの救援を受けて、態勢を立て直そう!」

 と、彼らをアテにしていたのだ。

 

 が、これは全くの見込み違いであった。

 

 劉武(りゅうぶ)たちは、随何(ずいか)から黄金を贈られたことで、すでに戦意を失っていたのである。

 そのため劉武(りゅうぶ)たちは陳豨(ちんき)を救援しようともせず、そのまま陣を畳(たた)んで、四方へ逃げ散ってしまったのだった。

 

 陳豨(ちんき)は絶体絶命の危機に陥(おちい)った。

 態勢を立て直すこともできぬまま、ひたすら敗走する陳豨(ちんき)……

 

 劉邦は、その様子を見て、

「よし! 追撃だ!」

 と、大軍を動かした。

 

 劉邦率(ひき)いる漢軍は、陳豨(ちんき)を容赦(ようしゃ)なく追いかけていった。

 

 

(つづく)




●注釈
 随何(ずいか)のセリフの中に、『軍を全(まっと)うするを上となし、軍を破るはこれに次ぐ。国を全(まっと)うするを上となし、国を破るはこれに次ぐ』という言葉が登場した。
 本編では『諺(ことわざ)』と言われていたが、これは「孫子・謀攻篇」からの引用である。
『孫子曰く、凡そ用兵の法は、国を全うするを上と為し、国を破るは之れに次ぐ。軍を全うするを上と為し、軍を破るは之れに次ぐ……(中略)……この故に百戦百勝は善の善なるものに非ざるなり。戦わずして人の兵を屈するは善の善なるものなり』
 軍事力を用いる時には、敵国や敵軍を傷つけずに降伏させるのが最上であり、戦って敵を破ることはその次の価値しかない。だから、『百回戦って百回勝つ』ことは最も良い戦略とは言えない。戦わずに相手の兵を屈服させることこそ最善の戦略なのだ……と、おおむねそのような意味になる。
 孫子は有名な兵法家だが、その軍事思想の根底には、徹底したコストパフォーマンス重視の姿勢があった。たとえ目先の戦闘に勝利しても、それで得られる利益が支払ったコストに見合わなければ意味がない。だから戦争前の綿密な調査と準備が欠かせないし、戦わずに済むならそれに越したことはない。どうしても戦わねばならないなら短期間で終わらせること……そうした孫子の思想の一端が垣間見える一節だ。
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