章邯は、ひとまず勅使趙常を拘束した。
「さて、これからどうするか?」
部下たちに意見を問うと、謀士陳豨が進言した。
「趙高は、すでに章邯将軍の一族を捕らえて投獄してしまいました。将軍がどれほど大きな功を立てたとしても、誰がそれを考慮に入れるでしょうか。もはや一族の滅亡は避けられません。
ならば、いっそ早く趙常を斬って決心なさいませ」
「決心せよ」とは、つまり「秦から離反せよ」ということである。
陳豨の見立ては、おそらく正しい。「どうせ家族は助からないのだから」という意見も、冷淡ではあるが理にかなっている。
しかし章邯は、決めきれなかった。できることなら家族を救いたい。長年仕えた秦を裏切りたくもない。
ためらい、悩み、決断を下せないまま数日が過ぎたある日、趙の大将陳余の元より、書簡(手紙)を携えて使者がやってきた。
陳余といえば、つい先日、鉅鹿において秦と戦った武将である。
それが、敵であるはずの章邯に対して、一体なにを言ってきたのであろうか?
章邯は急いで書簡を紐解いた。
『かつて秦最強の名将と讃えられた白起は、南方において楚の鄢・郢を併合し、北方において趙の馬服君趙奢と渡り合い、攻めた城や攻略した土地は数えあげればキリがないほどであったのに、突然、王から死を賜った。
また秦将蒙恬は、北方において戎(異民族)を追い払い、楡中の地を切り拓くこと数千里に及んだというのに、ついに陽周において死に追い込まれた。
これほど功績が多い能臣たちでさえ、諸侯に封じてもらえないどころか、法によって誅殺されてしまう。なぜだ?
章邯将軍は、秦軍の総大将となって3年。失った兵は十数万におよぶ。しかも諸侯が一斉に立ち上がって、ますます処罰の口実が増えた。
趙高は、反乱制圧の失敗によって二世皇帝から誅殺されることを怖れはじめた。だから章邯将軍に罪をなすりつけて誅殺し、総大将を他の人間にすげ変えることで、自分が責任を問われるのを避けようとしているのだ。
功があっても誅殺され、功がなくても誅殺される。しかも今、天命によって秦が滅ぼされようとしていることは、愚か者でも賢人でも、みんな知っている。
あなたは国外ばかりに目を向けていたから、国内に対しては隙だらけだ。内においては皇帝に諌言する道を塞がれ、外においては滅びゆく祖国のために孤立しながら戦い続けようとしている。これを哀れまずにいられようか?
章邯将軍。兵を解散させ、我々諸侯の仲間に入り、みずから王位につく道を選んでみないか?
それとも、我が身を斧で切り裂かれ、妻子を殺戮者の手に譲り渡すほうが良いというのか?
陳余、百回拝礼しながら謹んで記す』
忠心を捧げてきたはずの二世皇帝から功績の全てを否定された、その直後に、この書簡である。
味方の趙高や皇帝よりも、敵であるはずの陳余の方が、ずっと深く自分の気持ちを分かってくれている……章邯の心は、揺れた。
章邯は書簡を巻き取りながら、大将たちに言った。
「陳余の言うことには一理ある。もし秦を離れるとしたら、どこに身を寄せるのがよいだろうか?」
陳豨が答えた。
「今、諸侯みな秦に背き、六国の子孫が王として立っておりますが、それに服従する者はたいして多くありません。人民は彼らに疑いを抱いているのです。
しかし楚の項羽は、猛烈な戦功を一気に立てたうえ、英雄的な気概は天下を覆うほどに盛んで、兵も強く、将も猛々しい。ゆえに大国の諸侯も、ひざまずいて項羽の命に従っている。
私の予測では、後日秦を滅ぼすものは間違いなく楚でありましょう。
将軍がもし楚に降伏なされば、王侯の貴い位に至ることができます」
項羽。その名を聞いて、章邯は顔を曇らせた。
「わしは、前に項羽の叔父の項梁を殺した。『不倶戴天の敵だ』と奴自身も言っていたぞ。降伏を受け入れるはずがあるまい」
陳豨が進み出る。
「私が説得します。章邯将軍のため、楚に利害を説き示して、必ず降伏を実現させてみせます」
「よし……分かった。頼む!」
章邯が同意すると、すぐさま陳豨は馬に乗り、楚の陣へと駆けていった。
*
楚陣の前にたどり着いた陳豨は、堂々と声を張り上げた。
「私は秦の使者だ! 楚の大将軍にお会いしたい!」
項羽は、すぐに陳豨を幕舎へ招き入れた。
陳豨と対面した項羽の表情は、ニヤニヤと、妙にだらしなく緩んでいる。どうも、陳豨を軽んじて、からかうような気分でいるらしい。
「章邯は困り果てて、お前に説客なんかやらせようとしてるのか?」
説客とは、春秋戦国時代に流行った弁舌の士のことである。
巧みな話術と豊かな学識をもって各地の王侯を説得し、主君の味方として引き込んだり、自分自身の理想とする政策を実行させたりする。合従連衡で名高い蘇秦・張儀をはじめ、歴史に名を残した説客は少なくないが、武人肌の項羽は「しょせん舌先三寸」と甘く見ているふうであった。
しかし陳豨は、うろたえなかった。丁寧に、それでいて媚びもせず、涼しげに語り始めた。
「秦楚両軍が戦ってともに疲弊すれば、軍資金や食糧が足りなくなり、百姓に負担をかけます。これは、秦にとって不利益というだけではない。楚のためにも利のないことです」
項羽は頬杖をついた。
「じゃあ、お前はどうしろというんだ」
陳豨が言う。
「章邯は大将軍として秦に仕えること3年。百度の戦を戦い抜き、功労は多くございます。
しかし趙高が讒言し、これを殺害しようと企んだ。ゆえに今、章邯将軍は秦の勅使を捕らえ、その首を献上して楚に降伏したいと願っております。その切ない心情は、赤子が父母を恋しがるが如きものです。項羽将軍はこれをいかがなさいますか」
項羽は激怒し、座の前にあった机を拳で叩き割った。
「章邯は俺の叔父を殺した! 千年経っても許さん! 百代先まで敵だ! 俺はいつか奴の頭蓋骨を叩き割って便器を作ってやろうと思ってたんだ! 降伏なんか許してやるものかッ!」
陳豨は、このすさまじい怒声を聞くと、天を仰いで笑い出した。
項羽はますます怒る。
「貴様ッ! なんで笑う! 俺の剣の切れ味を味わってみたいってことか!」
項羽が腰の剣に手をかけた。が、陳豨は眉ひとつ動かさない。
「項羽将軍ともあろうものが、ちっぽけなことばかり成しとげて、大きな物を失おうとしている。だから私は笑ったのだ。
一人前の大丈夫は、国のために我が家のことを忘れ、賢者を用いて仇敵さえ味方に引き込むものだ。以前に章邯が項羽将軍の叔父御を殺したのは、それぞれ自分の主君のために働いた結果に過ぎない。これは人臣の忠義であり、知恵のある人は必ずこれを大切にする。
項羽将軍、あなたはなぜ私心にばかり囚われて、器の狭さを晒しなさるのか」
項羽の怒りはまだ収まらなかったが、ここで、そばに控えていた軍師范増がささやいた。
「しばらく陳豨を退出させておきなされ。私から少し話がある」
項羽は鬼神のように顔面を紅潮させ、突風のような勢いで鼻息を吹いていたが、やがて、吐き捨てるように言った。
「……陳豨! 外に出ていろ。よく考えてから返事する」
陳豨は丁重に礼をして、幕舎から下がっていった。
(つづく)