龍虎戦記 項羽vs劉邦【翻案・通俗漢楚軍談】   作:外清内ダク

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十一の中 決戦の時

 

 

 范増(はんぞう)と二人きりになったところで、項羽は深呼吸で怒りを抑え込みながら尋ねた。

「で、先生、話ってなんですか」

 

 范増(はんぞう)が説く。

「項羽将軍。我らの勢力はこれほど大きいのに、なかなか函谷関(かんこくかん)を越えられずにいる。それは章邯(しょうかん)(しん)のためによくがんばって、防ぎ止めているからだ。

 その章邯(しょうかん)が、趙高の讒言(ざんげん)で一族を投獄され、自分自身にも死を(たま)わった。ゆえに行き場を失って、やむをえず()に降ろうとしている。

 

 もしそなたが昔の恨みを捨て、恩義によって彼の心を(つか)み、手下の大将としたならば、章邯(しょうかん)は深く恩を感じて、将軍ために命を賭けるようになるだろう。

 だいいち、(しん)のめぼしい大将は章邯(しょうかん)一人なのだ。その章邯(しょうかん)がこちらの味方になった後、一体誰が(しん)を守るというのか?

 主将がいなくなった国のことを虚国という。その虚に乗じて長征(ちょうせい)すれば、(しん)を破るのは容易(たやす)いことよ。

 

 逆にここで降伏を許さなければ、章邯(しょうかん)は必ず他の国へ降参し、いつか()の敵になる。これでは(しん)を滅ぼすつもりが、もう一つの(しん)を増やすようなものだ。

 昔の人も『三軍は得やすく、一将は求めがたし。天の与えるものを受け取らなかったら、逆にその罰を受ける』と言っている。私的な復讐を忘れ、すばやく降伏を受け入れたなら、そなたは(まこと)の豪傑と言えよう」

 

 范増(はんぞう)滔々(とうとう)と語るのを聞くうちに、項羽の気持ちも落ち着いてきた。

 老軍師范増(はんぞう)に対しては、無邪気なまでに全幅の信頼を置いている項羽である。素直に范増(はんぞう)の教えを受け入れ、再び陳豨(ちんき)を幕舎へ招き入れた。

 

「お前の言ったことをよく考えてみた。

 最初、章邯(しょうかん)は叔父を殺した(かたき)だから降伏なんか許したくないと思ったが、国家の大計というやつは、人を殺すのではなく用いることが第一に大切だ。

 だから、昔の恨みは考えないことにした。

 叔父の(かたき)は俺ひとりの私事(わたくしごと)、人を用いるのは天下の(おおやけ)だ。

 章邯(しょうかん)が俺に服従するつもりなら、遺恨を捨て、必ず重く用いてやろう。早く(しん)勅使(ちょくし)を斬って、手勢を連れてくるがいい」

 

 陳豨(ちんき)は喜んで拝謝(はいしゃ)し、函谷関(かんこくかん)へと引き返していった。

 

 

   *

 

 

 が、ここでまた話がこじれた。

 陳豨(ちんき)から報告を受けた章邯(しょうかん)が、不安げに眉をひそめたのである。

御辺(ごへん)が勧めたとおり、勅使(ちょくし)を斬って()に降伏しようとは思っている。

 だが、どうも話が(うま)すぎないか? 范増(はんぞう)は日ごろから計略を多用する奴だ。わしを(だま)し、捕まえて殺そうという策ではないだろうか。

 陳豨(ちんき)よ、もう一度()陣に行って、嘘か本当か探ってきてくれ」

 

 陳豨(ちんき)は頭を抱えた。だが、当の章邯(しょうかん)猜疑心(さいぎしん)(とりこ)となってしまっては、どうにもならない。

 やむなく陳豨(ちんき)()陣へ駆け戻り、再び項羽と会見した。

 

 項羽は首をかしげた。

「なんだ? また来たのか? 章邯(しょうかん)はどうした」

 

 陳豨(ちんき)が言う。

章邯(しょうかん)は、もう降伏するつもりでおります。

 ただ……項羽将軍が章邯(しょうかん)(だま)して殺すつもりなのではないかと、それを恐れているようなのです」

 

 これに対して項羽は、

「男の約束は泰山(たいざん)より重い!

 章邯(しょうかん)を殺したいなら、他にどうとでもやりようはあるんだ。(だま)して殺すなんてのは、立派な君子(くんし)のやることじゃないっ!」

 こう、きっぱりと言い切った。

 

 それから項羽は、その場で矢を折り、陳豨(ちんき)に渡した。

 古代の中国において、矢を折ることは神に誓いを立てることを意味した。つまりこの場合は、絶対に約束を守る、という意志の証明なのであった。

 

 陳豨(ちんき)は折られた矢を持って函谷関(かんこくかん)に戻り、項羽の態度と言葉を詳しく章邯(しょうかん)に報告した。

 

 これでようやく不安から解放された章邯(しょうかん)は、大喜びで勅使(ちょくし)趙常の首を()ねた。

 すぐに諸大将と10万の兵を引きつれ、全員で函谷関(かんこくかん)を出ると、漳南(しょうなん)の30里手前で陣を取り、自身は(しん)の大将数十人のみを連れて、()の陣門に投降していった。

 

 そして……()陣において、章邯(しょうかん)は思わぬ出迎えを受けた。

 

 左右を見渡す限り埋め尽くす、一糸の乱れすらない()の隊伍。

 勢ぞろいする武具。幾重(いくえ)にも(つら)なりはためく軍旗。

 堂々たる威儀があたり一面に満ちる中、(つづみ)が三度鳴り響き、(おごそ)かに轅門(えんもん)が開いていく。

 

 その向こうで待っていたのは、他でもない、総大将項羽その人。

 

 まるで王者を迎えるかのような、これ以上は考えられないほどに丁寧な儀礼であった。

 この出迎えを指揮していたのは、もちろん知恵者范増(はんぞう)章邯(しょうかん)を懐柔するための策の一環ではあっただろう。

 だがこの出迎えは、范増(はんぞう)の思惑以上に深く、章邯(しょうかん)の心に突き刺さった。

 

 中国全土を西へ東へ、死ぬような思いで戦い続けたあげく、味方から罪を問われて生死の狭間に転落した章邯(しょうかん)。ずっと抱え続けていた不安、悔しさ、切なさに、項羽からの丁重な扱いが、染み入るように、効いた。

 

 章邯(しょうかん)()陣の中に踏み込むや、膝から地に崩れ落ち、男泣きに涙を流し、震える声で項羽に告げた。

「それがし……趙高に讒言(ざんげん)され……二世皇帝は救援を送ってくれず……それどころか(みことのり)(くだ)して死を(たま)い、妻子一族を投獄され……進もうにも退()こうにも、頼れる相手はどこにもいなくなってしまったっ……

 赤ん坊が父母にすがるような気持ちでここに投降してきましたが、それがしは定陶(ていとう)(いくさ)のとき、将軍の叔父御(おじご)を殺害いたした。その罪は万死でもまだ軽い。

 それなのに! こんなにも、こんなにも尊重していただけるなんて……思ってもみなかった!

 この御恩は天地のように深い。これからは一命を捨てて(しん)と戦い、将軍に命を拾われた恩に(むく)い、三族を殺された恨みを晴らしまする!」

 

 項羽は章邯(しょうかん)に歩み寄ると、膝をつき、さっぱりと笑って、章邯(しょうかん)の丸まった背中を叩いた。

「お前たちは、もう俺に降伏したんだ。昔のことは気にするな。

 忠義を尽くして国に奉公しろよ。(しん)を滅ぼしたら、地位も財産も思うがままだぞ! な!

 さあ行こう。酒宴を用意してあるんだ。飲もう飲もう! あははは……」

 

 同じ武人として章邯(しょうかん)慟哭(どうこく)に共鳴したのか、あるいは、兄貴分として尊重されることが生まれつき好きなのか……いずれにせよ、つい先日まであれだけ凄まじい怒りを向けていた相手に、こうも気さくに心を寄せることができる。

 思えばこの項羽も、面白い男であった。

 

 

   *

 

 

 一方、函谷関(かんこくかん)を守っていた(しん)の大将は、この事態に青ざめていた。

 彼は、あくまで要塞函谷関(かんこくかん)の責任者であって、章邯(しょうかん)の部下ではない。ゆえに章邯(しょうかん)に同行はしなかったのだが、10万の大軍を(よう)する章邯(しょうかん)の行動を止めるだけの力も持ち合わせていない。

 大急ぎで(みやこ)咸陽(かんよう)へ早馬を飛ばし、事の次第を報告するのが精一杯であった。

 

章邯(しょうかん)勅使(ちょくし)を殺し、10万の兵を引き連れて()に降伏しました。章邯(しょうかん)と項羽、力を合わせて関中へ攻め入ろうとしています。緊急事態です!」

 

 これを聞いた趙高は(おお)いに怒り、二世皇帝のもとへ駆け込んだ。

章邯(しょうかん)たちが謀反しそうですよ、と何度も申し上げましたのに、陛下がノンビリしていらっしゃるから、本当に10万の軍勢を率いて()に降伏しちゃいましたよ!」

 

 二世皇帝は仰天(ぎょうてん)した。そしてまず最初に手を付けたのが、降参した章邯(しょうかん)ら諸将の妻子一族を片っ端から処刑することであった。

 

 

   *

 

 

 この話は、遠く()陣の章邯(しょうかん)らの元へも伝わった。

 覚悟していたこととはいえ、家族を皆殺しにされる衝撃は、深い。元(しん)軍の大将たちは、みな声をあげて悲しみ、怒りを総身に満たして項羽の元へ押し寄せた。

 

「項羽将軍! 今なら函谷関(かんこくかん)を守る者はおりません。

 すぐに漳河(しょうが)を渡り、新安(しんあん)澠池(べんち)(ともに函谷関(かんこくかん)手前の都市)を攻めましょう。そうすれば(しん)を破るのは簡単です」

 

 これを聞いた項羽が、軍師范増(はんぞう)に相談すると、范増(はんぞう)は首を横に振った。

「味方の大軍は長期に渡り国外にいたから、人馬は疲れ、軍資金なども不足しはじめておる。

 それに、このあいだ()懐王(かいおう)陛下が彭城(ほうじょう)遷都(せんと)なさったばかりで、(みやこ)の開発などもまだ済んではおらぬ。

 

 主力を失ったとはいえ、(しん)は国力豊かで兵は強い。軽々しく戦ってはいけません。

 ここはいったん彭城(ほうじょう)に帰還し、懐王(かいおう)(まみ)え、地盤をしっかりと固めて人馬の気力を養い、兵糧も蓄えたうえで、東西二路より同時に(しん)を攻めるのがよろしかろう。

 さすれば敵は前後両面の対処に追われて連携を失うでしょう。

 

 逆にもし軽率に攻め込んで、その(すき)に万一彭城(ほうじょう)を敵に襲われたら、苦労ばかりで功は得られぬ。それどころか、かえって名折れになるというものだ」

 

 項羽はこの意見にうなずくと、すぐに撤収を開始した。

 

 

(つづく)

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