元号という制度が始まったのは、紀元前113年、漢の武帝の時代のことである。
それ以前の中国では、「王や皇帝の即位から何年」という形で年を表現していた。これを即位紀元という。この紀年法で表すなら――
二世皇帝の3年、春2月。
沛公劉邦は10万余騎で彭城を出立し、昌邑という里に到達した。
昌邑軍は、城門を固く閉ざし、数千の兵を要害に配置して、劉邦軍10万の侵攻を食い止めようとしている。
この昌邑の防備を見て、劉邦の義弟にして親友たる大将樊噲は、大声で罵った。
「一気に攻め破ってやらぁ!」
しかし沛公劉邦は彼を制止した。
「まあ待てよ。
こんな狭い邑の小さな城、どんなに頑張って守ろうともタカが知れてる。踏み破るのは、自分の手のひらをひっくり返すくらい簡単だ。
でもさ。この邑の人たちだって、長いこと秦の政治に苦しんできたんだ。俺らの大軍が一気に攻めかかったら、あんな城、一発で粉になっちまう。
俺が軍隊を使うのは、人々を守り、安心させてやるためだぞ。力で暴れまわるのは、王者のやる戦じゃない」
そう言って劉邦は、いったん戦闘を停止するよう全軍に命じた。
この話は、昌邑城内の人々にも噂として伝わった。
昌邑の住人たちは、いっこうに攻め込んでこない劉邦軍を眺めながら、ひそひそと相談し始めた。
「秦の法律は苛酷だった。わしらはいつも、水や火の中に放り込まれたような気持ちで暮らしていたんだ。
でも、沛公劉邦は違う。沛公に服従した地方では、恵みの雨が降るみたいに安らかな暮らしを取り戻せたそうだ。
その沛公に敵対するのは、天に逆らうようなものじゃないか? もし沛公が怒って城を攻め破ったら、わしらは皆殺しにされてしまうのだし。
となれば、早く城門を開いて投降しようじゃないか」
かくして、昌邑住人は決心した。城門を開き、香り高い花を供え、劉邦を迎え入れたのである。
劉邦は、城に入ると、まず住人たちに安心するよう声をかけた。
一方、手下の軍勢に対しては、
「乱暴なことはするなよ。もし民の物を奪ったりしたら、首を刎ねるぞ!」
と、厳しく下知した。
これを聞いた住民たちは、ますます恩を感じて劉邦に心服した。
昌邑開城のいきさつは、あっというまに近隣各地へ知れ渡った。
逆らいさえしなければ何も危険はない、と知った各地の人々は、劉邦軍が近づくと、自分から門を開いて降伏するようになった。
そのため、劉邦軍は、まったく刃を血で濡らすことなく、順調に進むことができたのだった。
*
劉邦はさらに駒を進めて、高陽城にやってきた。
高陽の守将は王徳。彼もまた、すぐに城門を開いて劉邦に降伏した。
この王徳、実に才気にあふれた有能な人物だった。沛公劉邦も、王徳と対面するなり、その才能に惚れこんでしまった。
「王徳、俺のところへ来ないか? いっしょに秦を討伐して、でかい仕事をやろうよ」
王徳は拝伏して言った。
「劉邦将軍の麾下に入りたいのは山々なれど、私がここを去ってしまうと高陽を治める者がいなくなってしまいます。
そこで、別の人物を推薦したく思うのですが」
「別の人って?」
「この邑に、酈食其という賢人がおります。
歳はすでに68歳。貧乏なのに酒好きで、酔っ払うと大声で歌を歌う。しかもその歌が節も形式もメチャクチャなので、人々からは狂人扱いされています。
このように一見して取るに足らない老人なのですが、正体は違う。
胸には一万石の宝珠を貯え、腹には満天の星々を連ねている。国が発展・衰退する仕組みを知り、どんな時に国が治まり、あるいは乱れるかを知っている。
世にも稀な、正真正銘の賢士です。
狂人のようなふるまいは、秦の焚書坑儒から我が身を守るために演じはじめたことに過ぎません。彼自身も、いつも人に向かって『わしは一日中泥酔しているが、もし素晴らしい主君に出会ったなら必ず目覚める』と言っております。
この者を登用して別駕(副官)に任命し、朝夕に物事を相談なさいましたら、大いにお役に立つでしょう」
沛公劉邦は限りなく歓び、酈先生――すなわち酈生を招いてくるよう、王徳に依頼した。
*
王徳が訪ねていくと、酈生は酷い二日酔いのまま、よろめきながら対面した。
毎度のことなので、王徳も少々苦笑する程度で、気にしてもいない。
頭をぐらぐらさせている酈生の前で、王徳はしきりに沛公劉邦の人徳を褒めそやした。
「沛公は、心が広い仁愛の人です。最後には必ず王業を成しとげるでしょう。
そこで、沛公に先生を推薦しておきましたよ。沛公も『酈生が来てくれたら別駕に任命しよう』と乗り気でした。
先生は、それほどに大きな才を抱いていながら、長いあいだ仕えるべき主君に出会えなかった……今、ついに先生にふさわしい主が見つかったのです。どうぞ、お早く沛公に出仕なされませ」
酈生は、疑わしげに眉を吊り上げる。
「沛公は度量こそ大きいが、賢人を侮る男だと聞いたぞ。
礼を尽くして迎えられたわけでもないのに、自分から顔を出したりしたら、尊重されるどころか辱められるのがオチじゃないか?」
気難し屋の酈生らしい言い分である。しかし王徳は、この老賢人の扱いをよく心得ていた。
「そこは先生、先生は機略策略に精通しておられるのですから。ご自身で対面し、沛公の志がどの程度か、試してごらんになれば」
「そうか。それも面白いな」
酈生は納得し、王徳に案内されて沛公の陣へ向かった。
*
酈生が現れた時、劉邦は寝床に腰かけ、二人の女に足を洗わせているところだった。
このありさまを見るや、酈生は簡単に長揖(お辞儀)だけして拝礼せず、ずかずかと中に入り込んで、いきなり劉邦に怒鳴りつけた。
「あなたは秦を助けて諸侯を攻めようと思っているのか! 諸侯を率いて秦を攻めようと思っているのか! どっちだ!」
初対面の人間に出会い頭で責められて、劉邦は反射的に酈生を罵った。
「うるさい腐れ儒者っ!
天下の人々はみんな秦の苛酷な法律に苦しんでいるんだ。俺は懐王の命令で西の道から秦を討伐し、天下のために無道を取りのぞこうとしてるんだぞ。秦を助けるわけないだろ!」
酈生が言う。
「秦を討伐して無道に天誅を下そうというなら、つまり義兵を立ち上げて天下を心服させる気なのだろう。
なのに、なぜ足を洗いながら年上の人間に会うような無礼を働くのか!
そんなことをしていたら、賢人や徳のある人に見離される。あなたは一体、誰とともに天下を治めるつもりなのだ!」
これを聞いて劉邦は顔色を変えた。
慌てて身なりを整え、酈生を招き入れて上座に座らせた。
「申し訳ない。先生がすぐに来るとは知らなかったんです。出迎えもせずに失礼しました。どうか許してください」
この変わり身の速さときたら。『君子は豹変す』とはよく言ったものだが、劉邦はまさにそれである。
自分が間違っているとみたらすぐに相手の言葉を受け入れられる。劉邦の素直さを、酈生は好もしく感じたようだった。
そこで酈生は、己の知るところを劉邦に語り始めた。
六国がうまく連合して秦を討つための方策。秦の無道の要点と急所。その弁舌は河の如く滔々と流れて留まるところを知らない。
劉邦は興奮した。これまで彼の軍勢に、武勇の将や事務の専門家は何人もいたが、この手の理論家は一人もいなかったのだ。
大喜びで秦討伐の計略を尋ねると、酈生が答えた。
「あなたは各地から駆り集めた軍勢10万を率いて、そのまま強力な秦へ攻め入ろうとしておられる。これは羊を連れて虎の口に飛び込むようなものだ。
そこでです。この近くにある陳留の地は交通の要衝で、四方八方と道が繋がっており、城中の貯えも極めて多い。
その太守は陳同という者だが、私が行って利害を説けば、必ずあなたに降伏するでしょう。
まずこの陳留を取って拠点とし、四方の軍馬を集めて力を増したうえで、機をみはからって武関を打ち破る。これが最上の戦であろう」
劉邦は、しきりにウンウンうなずきながら耳を傾けた。
そして話を聞き終わるや、すぐにこの方針を採用し、酈生を陳留へ派遣したのだった。
(つづく)