陳留太守の陳同は、平生から酈生と酒を酌み交わす仲であった。
酈生が訪ねてきたと聞くと、陳同はいつものように屋敷の奥へ迎え入れ、酒を勧めた。
その席で、酈生はいつになく真面目な顔をして、こう切り出した。
「『良い鳥は木をよく調べてから巣を作り、賢い臣下は仕える主を選んで補佐する』という。
秦は無道を極め、諸侯はこぞって反逆した。私は長いあいだ酒乱のフリをしながら良い主君を探していたが、これという人間には出会えなかった。
だが昨日、沛公劉邦に会ってみると、どうだ。
人相は隆準龍顔でまことに貴く、性格は度量が広くて細かいことに拘らない。戦のやり方に仁義があり、寛大で温厚な処置をするから各地の邑はみな心服していく。
太守陳同よ。君は交通の要衝である陳留を、この小城によって守っているのだ。もし沛公劉邦の兵が来たら、こんな城、鼓の一叩きでたちまち破られてしまうだろう。
そうしたら、君は無駄に首を差し出して死ぬ運命だぞ。早く心を決めて、我が身を守ることを考えたまえ」
陳同は、これを聞いて低くうなだれた。
しばらくジッと考えこみ、やがて陳同は、唸るように言った。
「先生の言うことは一理あります。しかし、私は長いあいだ秦からの俸禄で食ってきました。今になって裏切るのは申し訳なく思えて……」
もう一押しだな、と弁士酈生が目を光らせる。
「むかし、周の武王は殷の紂王を討ったが、大陸中の人々は喜んで武王に服従した。
民から見離された君主のことを独夫という。武王は独夫に天誅を下したのであって、主君を弑逆(殺害)したわけではないということだ。
二世皇帝は現代の独夫だ。今、二世皇帝の残虐暴虐に、天下の人々は歯を食いしばって耐えているのだぞ。
それを倒すのは正義の行いだ。裏切りを謗る者など、一人も居りはせぬ」
陳同は、これを聞いて心を決めた。
劉邦を城に迎え入れたのである。
劉邦は蕭何、曹参らとともに陳留城に入り、民を労わりながら1ヶ月あまり逗留した。
その間にあちこちの勢力に声をかけたところ、5万人にも及ぶ軍勢が新しく味方に加わった。
「これはみんな酈生のおかげだ!」
と劉邦は深く喜び、酈生に広野君という称号を与えた。
以来、劉邦は酈生をいつもそばに置き、事あるごとに計略を問うようになったのである。
*
それからしばらく経ったある日、酈生が劉邦に進言した。
「私は沛公から手厚く恩を受け、日々親しくお仕えしておりますが、まだ奇妙の功(並外れて優れた功績)を立てたとは言えません。
そこで、秦を破るための、大いなる助けとなる人物を推薦したく思います。
この地に一人いるのです。湯王に仕えた伊尹や、周に仕えた太公望呂望(いずれも伝説的政治家)にも劣らぬ、世を経め民を済う経済の才能を抱いた男が。
もしこの男を得たならば、『秦を破れなかったらどうしよう』などという心配は過去のものとなりますぞ」
劉邦は思わず腰を浮かせた。
普段あれだけ辛辣な酈生が、こうまで言葉を尽くして褒めるほどの人物……
「一体誰なんです、それは?」
「韓国の張良、字は子房という者です。
先祖五代にわたって韓の宰相を務めた家の出身で、かつて仙人の指導を受けたのだとか。
前々から秦を滅ぼし韓の仇討ちをしようと考えていましたが、まだ韓国の復興が始まったばかりで態勢が整っていませんから、これまで軽率に動くことなく時が満ちるのを待っていました。
この張良が沛公に仕えたなら、天下はもう手に入れたようなものですな」
ご記憶であろうか。かつて始皇帝暗殺を企てるも、あと一歩のところで失敗し、逃亡者となった……あの張良である。
あの暗殺未遂事件から、はや11年。この間に、張良は反秦の潮流に乗って韓の公子を王位につかせ、故国韓を復興させていたのだった。
劉邦は首をかしげた。
「その張良という人は、もう韓国に仕えてるんでしょ? 俺のところに来てくれるかなあ」
酈生が言う。
「私が計略を用いて、張良を連れてきます。
そのとき沛公がご自身で対面し、耳のとろけるような殺し文句で勝負をかければ、彼は必ず味方につく。お得意でしょう?」
劉邦が眉をひそめる。
「まあ、がんばるけど……で、張良を連れてくる計略というのは?」
酈生が、ニヤリと悪戯な笑みを浮かべた。
「韓王に書簡を送るのです。その内容はこう。
『今、我々は兵を率いて秦を討伐し、滅びた六国の仇討ちをしようとしているが、食糧が底をついてきたため、すぐに進軍できなくなってしまった。どうか同盟国の好によって、兵糧5万石を貸していただきたい』
これで計略は完了です」
どうしてこんな書簡一つで張良を呼び寄せられるというのか?
いまいち納得できなかったが、ともかく劉邦は言われた通りに書簡を整え、酈生を使者として韓国へ向かわせた。
*
当時の韓王は、名を成といった。
韓王成は、もともと韓の公子であったが、旧韓が秦に滅ぼされて地位を喪失。その21年後、張良の努力と奔走によって、復興した韓国の王位についたのだった。
その韓王のもとに、使者として酈生がやってきた。
届けられた書簡を開いてみると……
『楚の征西大将軍沛公劉邦、お手紙を韓王殿下にお送りします。
つらつら考えてみるに、始皇帝は無道にも六国を併呑し、二世皇帝も残虐で横暴で、その罪は溢れんばかりに積もり積もって、人民はもう非難ごうごう、恨み骨髄に入る、といったところです。
そのため、我々は大軍を率いて天下に宣言し、義によって秦の残虐を取りのぞき、世の怒りを洗い流そうと頑張っております。
ただ、軍を進めることすでに100里。大軍を維持するだけで毎日1万金を消費しており、とにかく軍需物資が足りません。
近隣の郡や邑は、長年の圧政によって10ヶ所中の9ヶ所までが無人になっているありさまで、どこにも借りられるところがないのです。
そこで、お願いがあって酈食其をそちらへ送りました。
どうか食糧5万石を貸していただけないでしょうか?
秦を破った後で、必ず倍にしてお返しします。
この征討は公のものです。決して私的なことに使おうというわけではありません。そこを考慮に入れて、お早く我らを窮地から救ってくださいませ。
そうすれば、たとえ韓国が直接兵馬を出して戦ったわけではなくとも、人民のための世界を作るのに多大な貢献をなさったことになります。
このお手紙を書きながら、今、切々と願っております。どうか我々を希望の光でお照らし下さい。
ああ、伝えたいことがいっぱいで、とても全て言い尽くせない!――不宣』
読み終えた韓王は、左右の家臣たちを見回した。
「我が国は一度秦に滅ぼされてしまったのだ。新しく国を立て直したとはいっても、まだ貯えは少なく、国内の需要さえ満たせずにいる。
他人を援助するような余裕はないぞ」
家臣たちは口を揃えて答える。
「沛公劉邦は、懐王の命をうけて、秦を討伐するために兵を動かしている。これは天下の大義というものです。
その沛公が食糧を借りたいと言ってきたのですから、5万石全ては無理でも、せめてその半分は送って、同盟国としての義務を果たしておくのがよいと思われます。
でなければ、我が国が大義を無視する形になってしまいます」
この意見を受けてもなお、韓王の悩みは消えなかった。半分の2万5千石ですら、今の韓にとっては捻出しがたい量だったのだろう。
そこへ、張良が進み出た。
「ここはまず、こころよく沛公の使者をおもてなしなさいませ。
その後、私が自ら出向いて沛公にお会いし、送ろうにも食糧がないという我が国の実情を説明いたします」
韓王は、ホッと安心して、顔をほころばせた。
「そうか、頼む。お前が行くのなら、両国の友好関係を傷つけないよう上手く説明してくれるだろう」
この話を聞いて、酈生は、ほくそ笑んだ。
「これで計略は成就した」
そして打ち合わせ通りに劉邦へ連絡を飛ばし、張良とともに劉邦軍の陣へ向かった。
(つづく)