劉邦の元へ向かう道の途中で、すでに張良は酈生や劉邦の意図を見抜いていた。
「酈生の様子を見るに、どうやら食糧を借りたいというのは嘘だな。
本当は、私を沛公劉邦のもとで働かせるのが目的だろう」
張良は、素知らぬ顔をして劉邦軍の陣へおもむき、轅門(陣営の門)をくぐった。
そこで出迎えたのは、劉邦の義弟樊噲だった。丁重に歓迎の礼をする樊噲に、張良は、かすかに眉を動かした。
「おお……! この人物は、開国の功臣となる人相だ」
さらにその奥の寨門(砦)まで進むと、蕭何、曹参、滕公夏侯嬰、王陵ら、そうそうたる猛将・能臣を率いて、沛公劉邦みずから張良を出迎えた。
張良は目を細めた。
劉邦の人相は隆準龍顔。国を治め民に安らぎをもたらす本物の君主の相である。
さらに、それに従う蕭何、曹参らもまた、みな国土を広げ開拓する功労者となるべき人相の持ち主だった。
張良は思わずつぶやいた。
「一代の君あれば、必ず一代の臣あり……か」
一代で国を作る主君のそばには、必ず一代で名を成す有能な家臣が集まってくる。張良の目に、劉邦らの姿は、まさにそう見えたのであった。
そして心の内で、こうも思った。
「言葉たくみに沛公を説得しようと思ってここまできたが、まさか、これほどのお人であったとは。
かつて我が師の黄石公は、『真の君主を助けて支え、名を万世に伝えよ』とおっしゃった……その予言が現実のものとなる日が来たのかもしれぬ」
張良は半ば覚悟を決めながら、地にひざまずいて再拝した。
その張良を、劉邦は幕舎の中に迎え入れて、もてなした。
劉邦と向かい合うなり、張良は少し悪戯っぽく微笑んだ。
「沛公は、秦を討つために軍を立ち上げなさった。そして諸国の勢力が沛公の気風に惹かれて次々に帰服している。この状況で、兵糧が不足するはずがありますまい。
一体なぜ狂人の言葉などに耳を貸して、韓王に食糧を借りたいなどと嘘をついてまで、この張良をお招きになったのですか」
全てを見透かしたこの一言に、劉邦は心底驚いた。
おかげで、張良を味方に引き込むために用意していた誘い文句が、ぜんぶ頭から吹っ飛んでしまった。
口をパクパクさせている劉邦を見かねて、そばにいた蕭何が口を出した。
「我が君が食糧を借りると言ったのは、実は張良殿を借りるためです。
しかし張良先生、あなたがいらっしゃったのは、我が君に韓の実情を説くためでしょう? なのに、なぜその話をなさらないのです? それは、我が君を見て心の中に思うことがあるからでしょう。
かつて博浪沙において始皇帝の車を撃った勇士に比べ、我が君の実力は百倍……いや、それ以上に優っている。
先生が我が君に仕えて秦と戦ったならば、韓のために仇討ちを成すという先生の志は、苦もなく成し遂げられるでしょう」
これを聞いて、張良は改めて地に拝伏した。
「私の心は蕭何殿に見透かされてしまいました。
そうです。私は、たしかに韓のために仇討ちを成したいと思っています。どうか私も、沛公の軍に加えてくださいませ。
しかし、その前にまず韓王に報告して、了解を得たいのですが」
劉邦は限りなく喜んだ。
そこで次の日、劉邦の大軍は陳留を離れ、均州(現在の湖北省)の道を通って、韓の国へやってきた。
劉邦の到来を聞くと、韓王は城を出て遠くまで迎えに行った。
劉邦は大軍を城外に留まらせ、酈生、蕭何、樊噲、張良ら100騎ほどを率いて城に入った。
韓王は酒宴を設けて劉邦をもてなし、その席で言った。
「劉邦将軍は、暴秦を討伐しようとして仁義の軍隊を立ち上げなさった。
先日、食糧を借りたいとの旨はご使者から伺ったのですが、我が国は新しく立ち上がったばかりで貯えが無く、ご命令に応じることができません。そこで張良を謝罪に向かわせたのです。
劉邦将軍、どうかご理解くださいませ」
劉邦は柔和に笑ってみせた。
「いやいや! 張良殿から話を伺って、韓王殿下が困っておられたことを知りました。どうして無理なお願いなどできましょうか!
ところで、その張良殿ですが。
彼は頭の中にたくさんの計略を持っていて、胸に大志も抱いています。食糧の代わりと言ってはナンですが、我が軍の頭脳として、しばらく張良殿をお借りできませんか?
いや、そんなに長く引き留める気はないですよ! 秦を滅ぼしたら、すぐにお返ししますから」
思わぬ要求に、韓王は、しばし悩み、やがて静かにうなずいた。
「分かりました。張良には片時も韓を離れてほしくありませんが、劉邦将軍は天下のために秦の無道に天誅を下そうとされているのです。その助けとなるならば、しばらく張良をお貸ししましょう。
しかし、秦を滅ぼしなさった後は、どうか約束通り早くお返しくださいますよう」
劉邦は喜んで感謝を述べ、張良を連れて自軍に帰っていった。
*
これ以後、劉邦は食事時には張良と同じ食卓を囲み、寝るときにも張良と同じ寝床を使い、昼も夜も張良から古の兵法書の講義を受けた。
張良は、劉邦に極意を一つ一つ説き示しながら、ここちよい驚きを感じていた。
この劉邦という男、何を聞いてもパッと目の前が開けるように、たちまち理解していくのである。
「黄石公の教えを受けてからというもの、私は多くの人々と兵法書について議論してきた。
だが、誰も彼もボンヤリとしたもので、きちんと理解できる者は一人もいなかった。
それなのに沛公は、私が説明したことを一字も詰まることなく飲み込んでいく。まるで元々すべて暗記していたかのようだ。
この私でさえ、何年も熟読して、ようやく理解したというのに……
沛公の頭脳明晰さには、とても敵わない。聡明さも、仁義も、知恵も、全て天から授かったお方……彼こそが本物の君主だ」
張良は大いに喜び、己の知りうる限りを劉邦に教え込んでいったのである。
(つづく)
■次回予告■
項羽・劉邦両軍が、疾風怒涛の快進撃で秦の都へ押し寄せる。追いつめられた趙高は、我が身かわいさ、その一念で、究極の暴挙に手を染めた。
咸陽に降る主殺しの鮮血。不満と憎悪が天地揺るがし国を傾けんとしたその時、始皇帝の血を受け継いだ一人の青年が立ち上がる。
次回「龍虎戦記」第十三回
『こま切れ趙高』
乞う、ご期待!