秦国内で血塗られた政変が起きていた、そのころ……
沛公劉邦の大軍は怒涛の勢いで秦国に侵入し、都咸陽を守る最後の砦、嶢関に猛攻をしかけていた。
しかし、快進撃を続けていた劉邦軍の足が、ここへきて急に止まった。
救援に駆けつけた秦の新手が勇猛果敢によく戦って、劉邦軍の侵攻をピタリと防ぎ止めたのである。
この戦況を見て、劉邦軍の軍師張良が進言した。
「全盛期の勢いこそ失いましたが、秦の兵はまだ勇猛です。軽々しく戦うべきではありません。
秦の大将の多くは商人の子で、利を貪る旨味を知っています。ここは敵の心を攻めましょう」
劉邦は身を乗りだした。
「心を攻めるって、どんなふうに?」
「まず嶢関の正面に軍旗をたくさん立て、山の上にも疑兵……つまり藁人形を配置して、実態以上の大軍に見せかけます。
そのうえで、陸賈や酈生のような弁舌の士を敵陣に送り、利害を説かせ、金銀を贈って和睦を持ちかけたならば、敵将は必ず心を動かすでしょう」
「そうやって敵を味方に引き込むわけか」
「いいえ? 敵は『和睦の交渉が進んでいる最中に襲ってくるはずがあるまい』と考えて、油断するでしょう。そこを狙って不意打ちするのですよ」
劉邦はこれを聞いて大笑い。
「悪い人だなあ、張良先生は!」
劉邦は張良の案を採用し、部下に命令を下した。
まず、周囲の山々峰々に、おびただしい数の旗を立て、大軍が今にも攻めかかろうとしているように見せかける。
そして、ひそかに陸賈と酈生を使者として秦の陣へ向かわせた。
嶢関にやってきた酈生は、秦の守将朱蒯、援軍の大将韓栄の2名と会見した。
酈生が、得意の弁舌をふるって滔々と説く。
「今、秦は無道の行いで人民を悩ませております。
ゆえに天下の人々が兵を起こして秦を討とうとしている。あなたがたの敵は沛公劉邦だけではないのです。戦ったとて、いつまで持ちこたえられましょうか?
もし民を憐れむ心をお持ちなら、関門を開いて沛公に降伏なさいませ。
さすれば、沛公は楚の懐王にあなたがたの功績を報告し、千金をもって賞したうえ、万戸候に封じて謝礼とするでしょう」
韓栄が言う。
「私は長いあいだ秦から禄をいただいてきた。それなのに、危なくなったからといって秦を裏切ったら、それは不義というものだ。
酈食其先生、今日のところはお帰りください。私は、心を静かにしてよく考えてみたいのです」
酈生が退出してしまうと、秦の大将たちは、みなで首を寄せ合い議論を戦わせはじめた。
「降伏しよう」と言う者もあれば、「降伏してはいけない」と言う者もあり。意見は、まちまちであった。
ただ一つだけ、「降伏を誘いかけてきた以上、交渉が決裂するまでは攻撃してくるまい」という点では、みなの認識が一致していた。
そのため、嶢関を死守せんとする秦大将たちの決意は、本人も気づかぬうちに、じわじわと薄れていったのである。
翌日。
酈生はまた嶢関を訪れて、秦将韓栄に尋ねた。
「韓栄将軍、ご決断は如何?」
韓栄が首を振った。
「他の連中がみんな『降伏してはならない』と言うのだ。私にはどうすることもできん」
酈生が言う。
「さようですか。しかし、まだ降伏しておられなくとも、沛公劉邦はあなたの志に深く感謝しております。
そこで、韓栄将軍への贈り物として、金千両を持参いたしました。どうぞお受け取りください。
さらに、沛公は韓栄将軍に敬意を払い、寄手の軍勢をしばらく後退させて他の諸侯の合流を待とうと考えておいでです」
韓栄は戸惑った。
「私は沛公の敵ですぞ。どうして千金もの贈り物を受け取れましょう」
当時の1両は約16g。金千両なら16kg……現代の日本円に換算すると2億円近い価値がある。気軽に受け取れるような金額ではない。
たじろぐ韓栄に、酈生は畳みかける。
「この贈り物を受け取らないということは、沛公との交わりを拒絶するということです。
後日、天下の諸侯が集合して攻撃を仕掛ければ、嶢関は、たちどころに破られるでしょう。そのとき、あなたはどんな顔をして沛公と会うおつもりです?
悪いことは言いません。この贈り物を受け取って、後々のために好を結んでおきなさい」
韓栄は焦った。確かに酈生の言うとおり、今は角を立てたくない。
「わかり申した。では、この贈り物は仮に受け取ったことにしておきましょう。
そのうえで、沛公に要望いたす。どうか、他の諸侯と相談して和睦の準備を整え、戦を止めて民衆を塗炭の苦しみから救っていただきたい」
酈生は穏やかに微笑した。
「よく伝えておきます。沛公は寛容で温厚なお方ですから、必ず和睦は実現できましょう」
(つづく)