龍虎戦記 項羽vs劉邦【翻案・通俗漢楚軍談】   作:外清内ダク

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十五の上 新たなる暗雲

 

 

 劉邦が(しん)を降伏させ、人民の慰撫(いぶ)に力を注いでいた、そのころ。

 東路から(しん)を目指していた項羽は、(しん)の入口たる函谷関(かんこくかん)すら、まだ越えていなかった。

 

 項羽が現在いるのは、函谷関(かんこくかん)の手前に位置する新城という所。

 河北地方を攻略し終え、諸侯の兵を集めて(みやこ)咸陽(かんよう)へ進軍していく、その道の途中であった。

 

 さて、ある夜。

 駐屯する大軍の陣中を、総大将の項羽は、みずから巡回していた。

 あちこちの部隊を視察して回り、ある陣営までやってきたところで、兵たちの、ひそやかに語り合う声が聞こえてきた。

 

「ああ、章邯(しょうかん)(だま)された。項羽に降伏したのは間違(まちが)いだった」

 

 ギクリ、と背筋に悪寒を感じ、項羽はこっそり陣の中をのぞき見た。

 そこは、かつて章邯(しょうかん)とともに降伏してきた、(もと)(しん)兵たちの陣だったのである。

 

 項羽に聞かれているとは夢にも思わず、(しん)兵たちは、しゃべりつづけた。

「項羽はいつも残虐なことばかりするし、人を評価したり罰したりするのも気分次第で、基準がよく分からない。

 だが沛公(はいこう)劉邦は心が広く、おおらかで、殺伐(さつばつ)を好まず、徳によって人の心を(つか)む。だから沛公(はいこう)は、一足先に関中(かんちゅう)に入ってしまったそうだ。

 懐王(かいおう)との約束があるから、きっと劉邦が天下の君主となるだろう。俺たちも、あの人の下についていればよかったなあ」

 

 これを聞いた項羽は、本陣に飛んで帰るなり英布将軍を呼び寄せた。

 

 英布は、すぐにやってきた。

「お呼びですか、項羽将軍」

 

「おう英布、大変なことになった!

 このあいだ降伏してきた(しん)の兵士20万人。あいつら、俺に謀反(むほん)しようと(たくら)んでるぞ。

 さっきたまたま通りかかって、この耳で確かに奴らの相談を聞いたんだ。

 

 後々(わざわ)いになりそうなものは、はやく取り除いたほうがいい。

 英布よ。兵30万を連れていき、(しん)兵を皆殺しにしてこい。ただし、司馬(しば)(きん)章邯(しょうかん)董翳(とうえい)の3人は生かしておいてかまわない」

 

「なんですと!?」

 そばで話を聞いていた老軍師范増(はんぞう)は、ものすごい剣幕(けんまく)で必死に(いさ)めた。

「絶対にいけません!

 (しん)兵が語っていたことは、どう考えても、単なる愚痴(ぐち)に過ぎない。末端の兵卒や庶民などは、往々(おうおう)にして、生活の不満を上官や政治家への批判にすりかえて吐き出すものです。

 そんなものを()に受けて、20万もの兵を虐殺するなど言語道断! せっかく得た兵力を無駄にするばかりか、民衆からの支持も失い、項羽将軍の評判は地に落ちてしまいますぞ!」

 

 しかし項羽は、范増(はんぞう)の言葉にまったく耳を貸さなかった。

 英布は命じられるまま30万の兵を率いていき、その夜のうちに、(しん)兵20万人を残らず生き埋めにして殺してしまった。

 

 翌朝……

 

 司馬(しば)(きん)章邯(しょうかん)(しん)の降将たちは、事態を知って驚愕(きょうがく)した。

 まさか一晩眠っている間に部下の兵が全滅しているなど、誰も予想しなかったに違いない。

 章邯(しょうかん)たちは、震え、恐れ、慌てて項羽の元へ飛んでいった。(しん)兵が皆殺しにされた以上、次は自分たちの番に違いない……そう考えて、命乞いをしに行ったのである。

 

 だが、平伏する章邯(しょうかん)たちを前にして、項羽はカラカラと()()()()()()

「ははは! いやいや、心配するな。怖がらなくていい。お前たちに罪はないんだ。

 昨夜、俺がひそかに聞いたところ、お前の陣の兵士たちが謀反(むほん)の相談をしていた。だから殺して後々の(わざわ)いを防いだ。それだけなんだからさ」

 

 それだけ? それだけだと?

 謀反(むほん)の具体的な計画や行動があったわけでもない。単に愚痴(ぐち)をこぼしていた……ただそれだけのことで、(しん)から章邯(しょうかん)に付き従ってきた20万の兵たちを、殺し尽くしてしまったというのか?

 

 章邯(しょうかん)たちは発すべき言葉ひとつなく、血の気の引いた顔のまま、ただひれ伏すばかりであった。

 

 

   *

 

 

 『(しん)兵20万人生き埋め』の話は、すぐさま劉邦たちの耳に届いた。

 もともと項羽は乱暴なところがあったが、今回の凶行は、いままでのものとは段違いである。味方であるはずの劉邦軍さえ項羽の行いに恐怖し、疑心暗鬼に駆られはじめた。

 

 その項羽が、大軍で函谷関(かんこくかん)に押し寄せてくる……

 その一報を聞いた義弟樊噲(はんかい)は、劉邦の幕舎(ばくしゃ)へ飛び込んできた。

「兄貴! 項羽が近づいてきたぞ!」

 

 劉邦は目を丸くする。

「そりゃ来るだろ。もともと一緒に(しん)を目指してたんだから」

 

「なに呑気(のんき)なこと言ってんですか!

 (しん)の国力は他国の十倍。地勢的にも極めて強い。項羽が大軍を率いて接近してきたのは、この(しん)を手中に収める意図に違いない。

 懐王(かいおう)との約束を破って、自分が関中の王になろうとしてるんですよ!

 早く対策を取らねば、項羽はすぐにやってきますぞ、兄貴!」

 

 劉邦は震え上がった。

「そんな! 項羽と争いになったら勝てるわけない! 対策って、一体どうすればいい?」

 

 樊噲(はんかい)が答える。

「とりあえず誰か大将を差し向けて函谷関(かんこくかん)を守らせ、他の諸侯が関中(かんちゅう)へ入れないようにしましょう。

 その間に(しん)の住民から兵を募集して軍勢を増やし、その力で項羽軍と戦うってのはどうです?」

 

「それがいいな」

 劉邦はうなずくと、薛欧(せつおう)陳沛(ちんはい)を大将とし、函谷関(かんこくかん)の守りを固めさせた。

 

 

   *

 

 

 項羽は大軍を駆り立て、函谷関(かんこくかん)へやってきた。

 だが、函谷関(かんこくかん)まであと少しというところで、先頭の部隊から、こんな報告が入ってきた。

沛公(はいこう)劉邦の兵が厳重に函谷関(かんこくかん)を閉ざしていて、先に進めません」

 

 項羽は眉をひそめた。

「劉邦は味方だぞ。なぜ俺の邪魔をする?」

 

 范増が、ささやいた。

沛公(はいこう)函谷関(かんこくかん)を閉ざしているいるのは、懐王(かいおう)との約束通り、自分が関中の王になろうとの意図です。

 項羽将軍、そなたは苦労して戦い抜くこと3年。百もの計略に頭を悩ませてきた。それなのに、最後の最後であっというまに他人に天下を奪われては、千年先まで続く赤っ恥というものではないかね?」

 

 項羽は力強く鼻息を吹く。

「劉邦の兵は10万に満たないし、強さだって章邯(しょうかん)には及ばない。(かん)の守りを固めたくらいで俺を止められるものか!」

 

 范増(はんぞう)は、うなずいた。

「そのとおり。だがここは硬軟(こうなん)両面の策を取るべきです。

 先日、項羽将軍は劉邦と義兄弟の誓いを交わしたであろう。あの(よしみ)を踏みにじると、こちらの評判が落ちる。それゆえ、寛容に交渉する姿勢を見せて、諸侯の批判を避けるのがよろしい。

 兵を差し向けて函谷関(かんこくかん)を攻撃させると同時に、書簡(しょかん)を送って劉邦に我が軍の到着を知らせるのだ」

 

「よし、そうしよう」

 項羽はすぐに動きだした。

 まず英布に10万の兵を与え、わめき叫んで攻めかからせた。

 函谷関(かんこくかん)を守る薛欧(せつおう)陳沛(ちんはい)は、門を閉ざして防御に(てっ)し、決して打って出ようとはしなかった。

 

 項羽は書簡(しょかん)を封印して矢に挟み、函谷関(かんこくかん)の中に射込(いこ)ませた。

 薛欧(せつおう)書簡(しょかん)を拾うと、早馬を飛ばして劉邦のもとへ届けた。

 

 

   *

 

 

 届いた書簡(しょかん)を劉邦が開いてみたところ、その内容は、こうであった。

 

魯公(ろこう)項籍(こうせき)(せき)は項羽の(いみな)、つまり本名)、書を沛公(はいこう)幕下(ばくか)へ送る。

 先日、貴公とともに懐王(かいおう)と約束を交わし、また義兄弟の(ちぎり)を結んで、兵を(おこ)し、(しん)を破り、その無道に天誅を(くだ)した。

 

 貴公が一足先に関中に入ったことは聞いている。貴公の戦術、謀略、素早い行動、まことに見事である。

 

 しかし、考えてみてほしい。私が懐王(かいおう)を立てて天下を服従させ、章邯(しょうかん)を降伏させて諸侯を制した。この私の働きなしに、貴公は(しん)を倒せただろうか?

 他人の功績を奪って自分が利益を得る……そんなのは、立派な大丈夫(だいじょうぶ)のやることではない。

 

 しかるに今、貴公は函谷関(かんこくかん)を封鎖して、私が(しん)へ入国することを嫌がっている。

 だが、この(かん)一つで長期間防ぎきれると思うのか? 私の兵は強力で、大将たちは勇猛だ。函谷関(かんこくかん)を破るなど、()ちた家を潰すくらい簡単だ。

 そんな事態になった後で、貴公はどんな顔をして私に対面しようというのか?

 

 今すぐ(かん)を開き、大義をわきまえる態度を見せれば、我ら義兄弟の(きずな)を失わずにすむだろう。

 このように申したが、(しん)を破った功績も、先に関中入りしたことへの約束も、私はきちんと考慮に入れるつもりだ。貴公、血迷(ちまよ)うでないぞ。

 項籍(こうせき)再拝』

 

 書簡(しょかん)を読み終えた劉邦は、頭を抱えた。

「どうしよう……」

 

 これはもう、ほとんど脅迫状である。慎重に言葉を選んではいるようだが、項羽の怒りが節々から感じ取れる。

 身を守るために函谷関(かんこくかん)を閉ざして項羽を締め出したのだが、その行為が、かえって事態を悪化させてしまったようだ。

 

 張良が進み出て提案した。

「項羽の勢力は大きく、函谷関(かんこくかん)といえども長く守り続けることはできますまい。

 味方は弱くて数も少なく、向こうは強くて数も多い。もし項羽に(かん)を突破されれば、我らはたちまち捕縛されるでしょう。

 ここは(かん)を開いて項羽を迎え入れるしかありません。その後のことは、私たちがどうにかしてみせましょう」

 

 

(つづく)

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