劉邦が秦を降伏させ、人民の慰撫に力を注いでいた、そのころ。
東路から秦を目指していた項羽は、秦の入口たる函谷関すら、まだ越えていなかった。
項羽が現在いるのは、函谷関の手前に位置する新城という所。
河北地方を攻略し終え、諸侯の兵を集めて都咸陽へ進軍していく、その道の途中であった。
さて、ある夜。
駐屯する大軍の陣中を、総大将の項羽は、みずから巡回していた。
あちこちの部隊を視察して回り、ある陣営までやってきたところで、兵たちの、ひそやかに語り合う声が聞こえてきた。
「ああ、章邯に騙された。項羽に降伏したのは間違いだった」
ギクリ、と背筋に悪寒を感じ、項羽はこっそり陣の中をのぞき見た。
そこは、かつて章邯とともに降伏してきた、元秦兵たちの陣だったのである。
項羽に聞かれているとは夢にも思わず、秦兵たちは、しゃべりつづけた。
「項羽はいつも残虐なことばかりするし、人を評価したり罰したりするのも気分次第で、基準がよく分からない。
だが沛公劉邦は心が広く、おおらかで、殺伐を好まず、徳によって人の心を掴む。だから沛公は、一足先に関中に入ってしまったそうだ。
懐王との約束があるから、きっと劉邦が天下の君主となるだろう。俺たちも、あの人の下についていればよかったなあ」
これを聞いた項羽は、本陣に飛んで帰るなり英布将軍を呼び寄せた。
英布は、すぐにやってきた。
「お呼びですか、項羽将軍」
「おう英布、大変なことになった!
このあいだ降伏してきた秦の兵士20万人。あいつら、俺に謀反しようと企んでるぞ。
さっきたまたま通りかかって、この耳で確かに奴らの相談を聞いたんだ。
後々災いになりそうなものは、はやく取り除いたほうがいい。
英布よ。兵30万を連れていき、秦兵を皆殺しにしてこい。ただし、司馬欣、章邯、董翳の3人は生かしておいてかまわない」
「なんですと!?」
そばで話を聞いていた老軍師范増は、ものすごい剣幕で必死に諌めた。
「絶対にいけません!
秦兵が語っていたことは、どう考えても、単なる愚痴に過ぎない。末端の兵卒や庶民などは、往々にして、生活の不満を上官や政治家への批判にすりかえて吐き出すものです。
そんなものを真に受けて、20万もの兵を虐殺するなど言語道断! せっかく得た兵力を無駄にするばかりか、民衆からの支持も失い、項羽将軍の評判は地に落ちてしまいますぞ!」
しかし項羽は、范増の言葉にまったく耳を貸さなかった。
英布は命じられるまま30万の兵を率いていき、その夜のうちに、秦兵20万人を残らず生き埋めにして殺してしまった。
翌朝……
司馬欣、章邯ら秦の降将たちは、事態を知って驚愕した。
まさか一晩眠っている間に部下の兵が全滅しているなど、誰も予想しなかったに違いない。
章邯たちは、震え、恐れ、慌てて項羽の元へ飛んでいった。秦兵が皆殺しにされた以上、次は自分たちの番に違いない……そう考えて、命乞いをしに行ったのである。
だが、平伏する章邯たちを前にして、項羽はカラカラと明るく笑った。
「ははは! いやいや、心配するな。怖がらなくていい。お前たちに罪はないんだ。
昨夜、俺がひそかに聞いたところ、お前の陣の兵士たちが謀反の相談をしていた。だから殺して後々の災いを防いだ。それだけなんだからさ」
それだけ? それだけだと?
謀反の具体的な計画や行動があったわけでもない。単に愚痴をこぼしていた……ただそれだけのことで、秦から章邯に付き従ってきた20万の兵たちを、殺し尽くしてしまったというのか?
章邯たちは発すべき言葉ひとつなく、血の気の引いた顔のまま、ただひれ伏すばかりであった。
*
『秦兵20万人生き埋め』の話は、すぐさま劉邦たちの耳に届いた。
もともと項羽は乱暴なところがあったが、今回の凶行は、いままでのものとは段違いである。味方であるはずの劉邦軍さえ項羽の行いに恐怖し、疑心暗鬼に駆られはじめた。
その項羽が、大軍で函谷関に押し寄せてくる……
その一報を聞いた義弟樊噲は、劉邦の幕舎へ飛び込んできた。
「兄貴! 項羽が近づいてきたぞ!」
劉邦は目を丸くする。
「そりゃ来るだろ。もともと一緒に秦を目指してたんだから」
「なに呑気なこと言ってんですか!
秦の国力は他国の十倍。地勢的にも極めて強い。項羽が大軍を率いて接近してきたのは、この秦を手中に収める意図に違いない。
懐王との約束を破って、自分が関中の王になろうとしてるんですよ!
早く対策を取らねば、項羽はすぐにやってきますぞ、兄貴!」
劉邦は震え上がった。
「そんな! 項羽と争いになったら勝てるわけない! 対策って、一体どうすればいい?」
樊噲が答える。
「とりあえず誰か大将を差し向けて函谷関を守らせ、他の諸侯が関中へ入れないようにしましょう。
その間に秦の住民から兵を募集して軍勢を増やし、その力で項羽軍と戦うってのはどうです?」
「それがいいな」
劉邦はうなずくと、薛欧と陳沛を大将とし、函谷関の守りを固めさせた。
*
項羽は大軍を駆り立て、函谷関へやってきた。
だが、函谷関まであと少しというところで、先頭の部隊から、こんな報告が入ってきた。
「沛公劉邦の兵が厳重に函谷関を閉ざしていて、先に進めません」
項羽は眉をひそめた。
「劉邦は味方だぞ。なぜ俺の邪魔をする?」
范増が、ささやいた。
「沛公が函谷関を閉ざしているいるのは、懐王との約束通り、自分が関中の王になろうとの意図です。
項羽将軍、そなたは苦労して戦い抜くこと3年。百もの計略に頭を悩ませてきた。それなのに、最後の最後であっというまに他人に天下を奪われては、千年先まで続く赤っ恥というものではないかね?」
項羽は力強く鼻息を吹く。
「劉邦の兵は10万に満たないし、強さだって章邯には及ばない。関の守りを固めたくらいで俺を止められるものか!」
范増は、うなずいた。
「そのとおり。だがここは硬軟両面の策を取るべきです。
先日、項羽将軍は劉邦と義兄弟の誓いを交わしたであろう。あの好を踏みにじると、こちらの評判が落ちる。それゆえ、寛容に交渉する姿勢を見せて、諸侯の批判を避けるのがよろしい。
兵を差し向けて函谷関を攻撃させると同時に、書簡を送って劉邦に我が軍の到着を知らせるのだ」
「よし、そうしよう」
項羽はすぐに動きだした。
まず英布に10万の兵を与え、わめき叫んで攻めかからせた。
函谷関を守る薛欧・陳沛は、門を閉ざして防御に徹し、決して打って出ようとはしなかった。
項羽は書簡を封印して矢に挟み、函谷関の中に射込ませた。
薛欧は書簡を拾うと、早馬を飛ばして劉邦のもとへ届けた。
*
届いた書簡を劉邦が開いてみたところ、その内容は、こうであった。
『魯公項籍(籍は項羽の諱、つまり本名)、書を沛公の幕下へ送る。
先日、貴公とともに懐王と約束を交わし、また義兄弟の契を結んで、兵を興し、秦を破り、その無道に天誅を下した。
貴公が一足先に関中に入ったことは聞いている。貴公の戦術、謀略、素早い行動、まことに見事である。
しかし、考えてみてほしい。私が懐王を立てて天下を服従させ、章邯を降伏させて諸侯を制した。この私の働きなしに、貴公は秦を倒せただろうか?
他人の功績を奪って自分が利益を得る……そんなのは、立派な大丈夫のやることではない。
しかるに今、貴公は函谷関を封鎖して、私が秦へ入国することを嫌がっている。
だが、この関一つで長期間防ぎきれると思うのか? 私の兵は強力で、大将たちは勇猛だ。函谷関を破るなど、朽ちた家を潰すくらい簡単だ。
そんな事態になった後で、貴公はどんな顔をして私に対面しようというのか?
今すぐ関を開き、大義をわきまえる態度を見せれば、我ら義兄弟の絆を失わずにすむだろう。
このように申したが、秦を破った功績も、先に関中入りしたことへの約束も、私はきちんと考慮に入れるつもりだ。貴公、血迷うでないぞ。
項籍再拝』
書簡を読み終えた劉邦は、頭を抱えた。
「どうしよう……」
これはもう、ほとんど脅迫状である。慎重に言葉を選んではいるようだが、項羽の怒りが節々から感じ取れる。
身を守るために函谷関を閉ざして項羽を締め出したのだが、その行為が、かえって事態を悪化させてしまったようだ。
張良が進み出て提案した。
「項羽の勢力は大きく、函谷関といえども長く守り続けることはできますまい。
味方は弱くて数も少なく、向こうは強くて数も多い。もし項羽に関を突破されれば、我らはたちまち捕縛されるでしょう。
ここは関を開いて項羽を迎え入れるしかありません。その後のことは、私たちがどうにかしてみせましょう」
(つづく)