龍虎戦記 項羽vs劉邦【翻案・通俗漢楚軍談】   作:外清内ダク

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十五の下 新たなる暗雲

 

 

 やむをえず、劉邦は函谷関(かんこくかん)符節(ふせつ)(使者)を送り、項羽を関中へ入れるよう通達した。

 

 連絡を受けた薛欧(せつおう)陳沛(ちんはい)は、矢倉(やぐら)に登り、項羽軍へ大声で呼びかけた。

寄手(よせて)の大将は何処(いずこ)におられるか! こちらへお越しくだされ! 申し上げたいことがござる!」

 

 この声を聞き、()軍の英布が馬を進めて(かん)の前に現れた。

 薛欧(せつおう)が英布に向けて叫ぶ。

「我らが沛公(はいこう)劉邦の(めい)を受けて函谷関(かんこくかん)を守っていたのは、けっして魯公(ろこう)項羽様を邪魔するためではありません! 盗賊の侵入を防ぐためです!

 沛公(はいこう)魯公(ろこう)書簡(しょかん)を見て、『はやく(かん)を開いてお迎えせよ』と(めい)をくだされました!

 どうぞ、お通りくださいませーっ!」

 

 その言葉どおり、薛欧(せつおう)は、すぐに門を開いた。

 英布から函谷関(かんこくかん)開門の報告を受けた項羽は、関中に入り、鴻門(こうもん)なる土地に陣を取った。

 

 

   *

 

 

 項羽は、その日のうちに間者(かんじゃ)10人あまりを放った。

 劉邦が咸陽(かんよう)に入った後の行状(ぎょうじょう)を調査するためである。

 

 間者(かんじゃ)たちは晩のころに帰還し、ここまでの劉邦の言動を、つぶさに項羽へ報告した。

 三世皇帝子嬰(しえい)を保護したこと。

 宮殿や宝物庫を封印し、略奪から守ったこと。

 そして法を三章に簡略化し、民の喝采(かっさい)を浴びたこと……

 

 項羽は眉間(みけん)に深くシワを寄せた。

「まちがいない……劉邦は懐王(かいおう)の約束通り、自分が関中の王になろうとしている。

 そうはさせるか。俺のほうが強いし軍勢も多い。奴は別の土地にでも移らせて、俺こそ関中の王になってやる」

 

 

   *

 

 

 このとき、軍師范増(はんぞう)もまた、独自に間者(かんじゃ)を出して劉邦の動きを調査していた。

 項羽と同様の内容を知った范増(はんぞう)は、はなはだ深く(うれ)えた。

 

 その夜、范増(はんぞう)は、ひそかに項伯を呼んだ。

 項伯は、今は()武信君(ぶしんくん)項梁(こうりょう)の兄弟。つまり、項羽にとっては叔父にあたる人物である。

 項梁(こうりょう)旗揚(はたあ)げしたとき()軍に参加し、項梁(こうりょう)の戦死後は(おい)の項羽にしたがって、ここまで戦ってきたのであった。

 

 その項伯が、范増(はんぞう)幕舎(ばくしゃ)に顔を出した。

「軍師、お呼びですか?」

 

「うん。呼んだ」

 范増(はんぞう)は、ひどく疲弊(ひへい)した様子で座についていたが、項伯の顔を見ると、いかにも重たげに腰を上げた。

「項伯どの。ちょっと、歩かんか」

 

「は? はあ」

 

 范増(はんぞう)と項伯は、連れだって陣営を出た。

 鴻雁川(こうがんせん)のほとりに出、丘に登って夜空を(のぞ)む。風の声も無く夜気(やき)()えわたり、一天の星斗(せいと)爛々(らんらん)たり――

 こぼれ落ちそうなほどの星光の下、范増(はんぞう)は枯れ木のように立ち尽くした。

 

「項伯殿は、天文をお読みになるか?」

 

 項伯は、うなずいた。

「多少は。

 幼少の頃からの友人で、(かん)国の張良という者がいるのですが、彼が言っておりました。『まず天文、地理、風雲、気象についてよく知ることだ。兵の(もち)(かた)は、その後のことだよ』と。

 その張良が教えてくれましたので、大まかなところは知っております。

 とはいえ、さほど詳しくはありません。范増(はんぞう)先生、教えてくださいませんか」

 

 范増(はんぞう)は、一つ一つ星を指差しながら語り始めた。

「まず、あれなる北斗の第二星(せん)、第三星()正対(せいたい)し、経度と緯度を計算に入れて星を読む。

 五星の躔度(てんど)十二周天。二十八宿(しゅく)。九州の分野三百六十五度。晦朔(かいさく)絃望(げんぼう)北辰(ほくしん)、南極、左輔(さほ)右弼(うひつ)……

 

 見よ。鴻雁川(こうがんせん)の味方の陣は、(ほとばし)る殺気が天を()き、将星は(はなは)(さか)ん。しかし表に現れない隠伏(いんぷく)の運気の遠大さに欠ける。

 

 一方、霸上(はじょう)の方角を(のぞ)めば、帝星が耿々(こうこう)と輝き、龍が五彩(ごさい)()していて、さながら水が流れ始めるが如く、日がまさに昇らんとするかの如き勢いだ。

 (せい)(けい)(へき)三宿の光を一手に集め、霸上(はじょう)(しん)の天命の(かたち)(あらわ)し、雲は旺気(おうき)()め、星が本宮(ほんきゅう)を照らしている……」

 

 范増(はんぞう)は、つくづくと……万感の思いを込めて星に見入り、やがて、項伯に問いかけた。

「そこもとは、沛公(はいこう)をどんな人物と見ておられるか」

 

 項伯は答えた。

「帝星が光を放ち、霸上(はじょう)旺気(おうき)に呼応しております。どうも、天運は沛公(はいこう)の側についているのではないかと……

 我が魯公(ろこう)項羽の(かたち)は、威武(いぶ)はなはだ(さか)んではありますが、殺気が強く、ただ群雄を制圧している事実に天が対応しているだけに見えます」

 

「……で、あろうな」

 范増(はんぞう)は目を閉じ、深く、深く、長嘆(ちょうたん)した。

「以前、徐州(じょしゅう)天子(てんし)の気が起こったことがある。徐州(じょしゅう)は劉邦の出身地。そして今また霸上(はじょう)に帝星が現れた。沛公(はいこう)が天命を得た男なのだ」

 

 項伯は薄く緊張の汗を浮かべながら、范増(はんぞう)に問いかけた。

「どうなさるおつもりです?」

 

「どうもせぬよ。

 たとえ天文の読みがこうであっても、心変わりする気は毛頭(もうとう)ない。私は魯公(ろこう)項羽に仕えているのだ。どうして二心(ふたごころ)など持ち()ようか。

 

 それに、勝ち目がないとも限らぬ。

 確かに、めでたい吉兆は天に現れる。だが、国家の存亡を決めるのは人の行いだ。

 ()の名臣申包胥(しんほうしょ)も言っている。『天が定まったとき()く人に勝つ。だが、人が定まったとき、また()く天に勝つ』とな」

 

「……勝てましょうか?」

 

「勝たねばなるまい」

 范増(はんぞう)は、薄く微笑(びしょう)して(きびす)を返した。

 

「忠義を尽くし、(はかりごと)を尽くす。手を休めるのは、くたばった後よ」

 

 

(つづく)

 

 

 

 

■次回予告■

 

 一つの玉座を争ってヒビ割れはじめた兄弟(けいてい)の縁。項羽に天下を(つか)ませるべく、軍師范増(はんぞう)は劉邦謀殺(ぼうさつ)を計画する。

 (みなぎ)る殺気。流血の予感。憤激、恐怖、友情、忠義、あらゆる情念(うず)を巻く死地鴻門(こうもん)の戦陣で、今、人生最大の危機が劉邦に襲いかからんとしていた。

 

 次回「龍虎戦記」第十六回

 『鴻門(こうもん)の会・前編』

 

 ()う、ご期待!

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