やむをえず、劉邦は函谷関に符節(使者)を送り、項羽を関中へ入れるよう通達した。
連絡を受けた薛欧と陳沛は、矢倉に登り、項羽軍へ大声で呼びかけた。
「寄手の大将は何処におられるか! こちらへお越しくだされ! 申し上げたいことがござる!」
この声を聞き、楚軍の英布が馬を進めて関の前に現れた。
薛欧が英布に向けて叫ぶ。
「我らが沛公劉邦の命を受けて函谷関を守っていたのは、けっして魯公項羽様を邪魔するためではありません! 盗賊の侵入を防ぐためです!
沛公は魯公の書簡を見て、『はやく関を開いてお迎えせよ』と命をくだされました!
どうぞ、お通りくださいませーっ!」
その言葉どおり、薛欧は、すぐに門を開いた。
英布から函谷関開門の報告を受けた項羽は、関中に入り、鴻門なる土地に陣を取った。
*
項羽は、その日のうちに間者10人あまりを放った。
劉邦が咸陽に入った後の行状を調査するためである。
間者たちは晩のころに帰還し、ここまでの劉邦の言動を、つぶさに項羽へ報告した。
三世皇帝子嬰を保護したこと。
宮殿や宝物庫を封印し、略奪から守ったこと。
そして法を三章に簡略化し、民の喝采を浴びたこと……
項羽は眉間に深くシワを寄せた。
「まちがいない……劉邦は懐王の約束通り、自分が関中の王になろうとしている。
そうはさせるか。俺のほうが強いし軍勢も多い。奴は別の土地にでも移らせて、俺こそ関中の王になってやる」
*
このとき、軍師范増もまた、独自に間者を出して劉邦の動きを調査していた。
項羽と同様の内容を知った范増は、はなはだ深く憂えた。
その夜、范増は、ひそかに項伯を呼んだ。
項伯は、今は亡き武信君項梁の兄弟。つまり、項羽にとっては叔父にあたる人物である。
項梁が旗揚げしたとき楚軍に参加し、項梁の戦死後は甥の項羽にしたがって、ここまで戦ってきたのであった。
その項伯が、范増の幕舎に顔を出した。
「軍師、お呼びですか?」
「うん。呼んだ」
范増は、ひどく疲弊した様子で座についていたが、項伯の顔を見ると、いかにも重たげに腰を上げた。
「項伯どの。ちょっと、歩かんか」
「は? はあ」
范増と項伯は、連れだって陣営を出た。
鴻雁川のほとりに出、丘に登って夜空を望む。風の声も無く夜気冴えわたり、一天の星斗爛々たり――
こぼれ落ちそうなほどの星光の下、范増は枯れ木のように立ち尽くした。
「項伯殿は、天文をお読みになるか?」
項伯は、うなずいた。
「多少は。
幼少の頃からの友人で、韓国の張良という者がいるのですが、彼が言っておりました。『まず天文、地理、風雲、気象についてよく知ることだ。兵の用い方は、その後のことだよ』と。
その張良が教えてくれましたので、大まかなところは知っております。
とはいえ、さほど詳しくはありません。范増先生、教えてくださいませんか」
范増は、一つ一つ星を指差しながら語り始めた。
「まず、あれなる北斗の第二星璇、第三星玑に正対し、経度と緯度を計算に入れて星を読む。
五星の躔度十二周天。二十八宿。九州の分野三百六十五度。晦朔、絃望、北辰、南極、左輔、右弼……
見よ。鴻雁川の味方の陣は、迸る殺気が天を衝き、将星は甚だ盛ん。しかし表に現れない隠伏の運気の遠大さに欠ける。
一方、霸上の方角を望めば、帝星が耿々と輝き、龍が五彩を成していて、さながら水が流れ始めるが如く、日がまさに昇らんとするかの如き勢いだ。
井・奎・壁三宿の光を一手に集め、霸上は真の天命の象を顕し、雲は旺気を籠め、星が本宮を照らしている……」
范増は、つくづくと……万感の思いを込めて星に見入り、やがて、項伯に問いかけた。
「そこもとは、沛公をどんな人物と見ておられるか」
項伯は答えた。
「帝星が光を放ち、霸上の旺気に呼応しております。どうも、天運は沛公の側についているのではないかと……
我が魯公項羽の象は、威武はなはだ盛んではありますが、殺気が強く、ただ群雄を制圧している事実に天が対応しているだけに見えます」
「……で、あろうな」
范増は目を閉じ、深く、深く、長嘆した。
「以前、徐州に天子の気が起こったことがある。徐州は劉邦の出身地。そして今また霸上に帝星が現れた。沛公が天命を得た男なのだ」
項伯は薄く緊張の汗を浮かべながら、范増に問いかけた。
「どうなさるおつもりです?」
「どうもせぬよ。
たとえ天文の読みがこうであっても、心変わりする気は毛頭ない。私は魯公項羽に仕えているのだ。どうして二心など持ち得ようか。
それに、勝ち目がないとも限らぬ。
確かに、めでたい吉兆は天に現れる。だが、国家の存亡を決めるのは人の行いだ。
楚の名臣申包胥も言っている。『天が定まったとき能く人に勝つ。だが、人が定まったとき、また能く天に勝つ』とな」
「……勝てましょうか?」
「勝たねばなるまい」
范増は、薄く微笑して踵を返した。
「忠義を尽くし、謀を尽くす。手を休めるのは、くたばった後よ」
(つづく)
■次回予告■
一つの玉座を争ってヒビ割れはじめた兄弟の縁。項羽に天下を掴ませるべく、軍師范増は劉邦謀殺を計画する。
漲る殺気。流血の予感。憤激、恐怖、友情、忠義、あらゆる情念渦を巻く死地鴻門の戦陣で、今、人生最大の危機が劉邦に襲いかからんとしていた。
次回「龍虎戦記」第十六回
『鴻門の会・前編』
乞う、ご期待!