次の日、事態は急変した。
一人の兵が項羽の陣を訪れ、こう述べたのである。
「沛公手下の左司馬曹無傷という者から、重大な密書を預かって参りました」
項羽が密書を開いてみると、そこには次のように書かれてあった。
『臣左司馬曹無傷、頓首百拝して魯公の幕下に上啓いたします。
かつて天下は秦の残虐暴虐に苦しみ、人民は一日たりとも心安らぐことができませんでした。
幸いにも明公(あなた様)が神武によって西方に攻め込んだため、秦王の嬴氏は地に手をついて降伏し、諸侯も恭順し、四海すべてが徳を仰ぐようになりました。
金石が決して磨り減らぬように、この功績もまた永久です。
一方、沛公劉邦ごときは、たいした力も無いまま、他人に頼って物事をなしとげたにすぎません。
あちこちから武力を借り、運よく武関に入っただけ。人様から指示を仰がねば仕事ができない、掃除係のような男です。
ならばせめて、他人の善行の邪魔をせず、王業を補佐することに徹してほしいものです。しかし、沛公は兵を遣って関中を守らせている。おそらく守り切ることはできますまい。
沛公は、ひとまず命令に従っているように見せかけていますが、本心は違います。軍勢を整え、戈(矛の一種)を振るって、明公と敵対する気でおります。約束通り自分が関中の王になるつもりなのです。
私は沛公の部下ですが、それ以前にまず楚の臣です。沛公の振舞いを放置しておけず、この書をお送りしてご報告いたしました。
もちろん私自身の恨みのためではありません。これは天下の公論であります。どうかご明察くださいますよう』
密書を読み終えるなり、項羽は激怒した。
すぐさま諸大将を呼び集めて声を荒げる。
「沛公劉邦が関中の王になろうとしているという、はっきりした証拠が出てきた! 奴の手下の曹無傷が、俺に心を寄せ、書簡を送ってきたのだ。
お前たち、これについて意見はあるか?」
軍師范増が言う。
「沛公が山東に住んでいたとき、色を好み、財産を貪っていたため、人々はみな彼を軽んじ、憎んですらいたそうです。
しかし今、関中に入った劉邦は、秦の財産を奪いもせず、婦女に手を出すこともなく、三箇条の法を定めて人心を懐かせました。
人気を得るために、本来の欲望を抑えて必死に身を慎んでおるのです。となれば、その志は小さなものではない。自分が王になるつもりなのは本当でしょう。
また、私が天文を観たところでも、劉邦の陣の方角に雲が五色を成していて、天子の気が漂っている。
項羽将軍、はやく劉邦を討滅して災いを取りのぞきなされ。もし対処が遅れれば、さらに問題の根が深くなり、動かすことが困難になりましょう」
項羽は、うなずいた。
「先生の言うとおりだ。じゃあ、大軍をもって霸上の劉邦を叩き潰そう!」
ところが范増はこれを止めた。
「いや、お待ちなされ。軽々しく打って出るのも良くない。
孫子の兵法に『十なるときは則ち之を囲み、五なるときは則ち之を攻むる』という。
敵の十倍の兵力があるなら包囲せよ、五倍の兵力があるなら攻撃せよ、という意味だ。
逆に、それだけの戦力差を確保できぬのに力押しを仕掛けたら、こちらの被害も甚大なものとなる。
沛公は10万の軍勢を持っていて、樊噲、周勃などという万夫不当の大将も50人以上いる。さらに、先に関中入りしてから、深く民衆の心を掴んでいる。
彼の手下には智謀の士も多いから、常に怠らず備えをしているだろう。
対して、こちらは大勢ではあるけれども、初めて来た場所で土地勘がないうえ、人馬が疲れているから簡単には前進できない。
ここは謀を用いるのがよろしい。私に一つ考えがある。
今夜の三更(夜11時ごろ)に、精兵を選び、二手に分かれて霸上を夜襲するのだ。
さすれば、必ず沛公を捕虜にできましょうぞ」
項羽はこの案を採用し、大急ぎで戦闘準備に取りかからせた。
*
慌ただしく動きだした楚陣の中で、項羽の叔父の項伯は、心に焦りを抱えていた。
「我が友の張良は、沛公劉邦に従って霸上にいる。
今夜、十分な備えをしていない劉邦軍を、我らの大軍が急襲したら、沛公の兵は一人も生き残れないだろう。
当然、張良も死ぬ……」
張良とは、劉邦が韓国から借り受けた、あの軍師張良のことである。
11年前、始皇帝暗殺に失敗した張良は、逃亡者となって身を隠した。あのとき張良を匿ったのが、他でもない、この項伯だったのだ。
命がけで助け合った親友同士が、何の因果か、一方は劉邦の腹心、他方は項羽の叔父として、敵対する羽目になってしまった。
とはいえ、項伯が張良に向ける思いは、今なお少しも変わっていない。
「幼い頃に、張良とは義兄弟の交わりを結んだ。自分の骨肉以上に彼のことが大切なのだ。
死なせたくない。死なせてなるものか……
……よし。今夜奇襲があることをひそかに伝えて、張良だけは逃がしてやろう」
項伯は、すぐに張良宛の書簡を調えた。
が、すぐに考え直した。
「いやいや。これほどの大事を書簡で知らせようとしたら、途中で誰かに奪われて、逆に災いの元になるかもしれん。
私みずから行って伝えるほうがいい。
項羽は、これを裏切りとみなすだろうなあ。もう楚軍に私の居場所は無くなるだろうが……
まあ、いい。私も彼と落ちのびよう。どこへでもいいさ、張良と一緒なら……」
覚悟を決めた項伯は、日が暮れるのを、じっと待った。
(つづく)