龍虎戦記 項羽vs劉邦【翻案・通俗漢楚軍談】   作:外清内ダク

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十六の上 鴻門の会・前編

 

 

 次の日、事態は急変した。

 一人の兵が項羽の陣を訪れ、こう述べたのである。

沛公(はいこう)手下の左司馬(さしば)(そう)無傷(むしょう)という者から、重大な密書を預かって参りました」

 

 項羽が密書を開いてみると、そこには次のように書かれてあった。

 

(しん)左司馬(さしば)(そう)無傷(むしょう)頓首(とんしゅ)百拝(ひゃくはい)して魯公(ろこう)幕下(ばくか)上啓(じょうけい)いたします。

 

 かつて天下は(しん)の残虐暴虐に苦しみ、人民は一日たりとも心安らぐことができませんでした。

 (さいわ)いにも明公(あなた様)が神武(しんぶ)によって西方に攻め込んだため、(しん)王の(えい)氏は地に手をついて降伏し、諸侯も恭順(きょうじゅん)し、四海すべてが徳を(あお)ぐようになりました。

 金石が決して()()らぬように、この功績もまた永久です。

 

 一方、沛公(はいこう)劉邦ごときは、たいした力も無いまま、他人に頼って物事をなしとげたにすぎません。

 あちこちから武力を借り、運よく武関に入っただけ。人様から指示を(あお)がねば仕事ができない、掃除係のような男です。

 ならばせめて、他人の善行の邪魔をせず、王業を補佐することに(てっ)してほしいものです。しかし、沛公(はいこう)は兵を()って関中を守らせている。おそらく守り切ることはできますまい。

 

 沛公(はいこう)は、ひとまず命令に従っているように見せかけていますが、本心は違います。軍勢を整え、()(ほこ)の一種)を振るって、明公と敵対する気でおります。約束通り自分が関中の王になるつもりなのです。

 

 私は沛公(はいこう)の部下ですが、それ以前にまず()(しん)です。沛公(はいこう)振舞(ふるま)いを放置しておけず、この書をお送りしてご報告いたしました。

 もちろん私自身の恨みのためではありません。これは天下の公論であります。どうかご明察くださいますよう』

 

 密書を読み終えるなり、項羽は激怒した。

 すぐさま諸大将を呼び集めて声を荒げる。

沛公(はいこう)劉邦が関中の王になろうとしているという、はっきりした証拠が出てきた! 奴の手下の(そう)無傷(むしょう)が、俺に心を寄せ、書簡(しょかん)を送ってきたのだ。

 お前たち、これについて意見はあるか?」

 

 軍師范増(はんぞう)が言う。

沛公(はいこう)山東(さんとう)に住んでいたとき、色を好み、財産を(むさぼ)っていたため、人々はみな彼を軽んじ、憎んですらいたそうです。

 しかし今、関中に入った劉邦は、(しん)の財産を奪いもせず、婦女に手を出すこともなく、三箇条の法を定めて人心を(なつ)かせました。

 

 人気を得るために、本来の欲望を(おさ)えて必死に身を(つつし)んでおるのです。となれば、その(こころざし)は小さなものではない。自分が王になるつもりなのは本当でしょう。

 また、私が天文を()たところでも、劉邦の陣の方角に雲が五色(ごしき)を成していて、天子の気が(ただよ)っている。

 

 項羽将軍、はやく劉邦を討滅(とうめつ)して災いを取りのぞきなされ。もし対処が遅れれば、さらに問題の根が深くなり、動かすことが困難になりましょう」

 

 項羽は、うなずいた。

「先生の言うとおりだ。じゃあ、大軍をもって霸上(はじょう)の劉邦を叩き潰そう!」

 

 ところが范増(はんぞう)はこれを止めた。

「いや、お待ちなされ。軽々しく打って出るのも良くない。

 孫子(そんし)の兵法に『十なるときは(すなわ)(これ)を囲み、五なるときは(すなわ)(これ)を攻むる』という。

 敵の十倍の兵力があるなら包囲せよ、五倍の兵力があるなら攻撃せよ、という意味だ。

 逆に、それだけの戦力差を確保できぬのに力押しを仕掛けたら、こちらの被害も甚大(じんだい)なものとなる。

 

 沛公(はいこう)は10万の軍勢を持っていて、樊噲(はんかい)周勃(しゅうぼつ)などという万夫(ばんぷ)不当(ふとう)の大将も50人以上いる。さらに、先に関中入りしてから、深く民衆の心を(つか)んでいる。

 彼の手下には智謀(ちぼう)の士も多いから、常に(おこた)らず(そな)えをしているだろう。

 

 対して、こちらは大勢ではあるけれども、初めて来た場所で土地勘(とちかん)がないうえ、人馬が疲れているから簡単には前進できない。

 

 ここは(はかりごと)を用いるのがよろしい。私に一つ考えがある。

 今夜の三更(さんこう)(夜11時ごろ)に、精兵を選び、二手に分かれて霸上(はじょう)を夜襲するのだ。

 さすれば、必ず沛公(はいこう)を捕虜にできましょうぞ」

 

 項羽はこの案を採用し、大急ぎで戦闘準備に取りかからせた。

 

 

   *

 

 

 慌ただしく動きだした()陣の中で、項羽の叔父の項伯は、心に焦りを抱えていた。

「我が友の張良は、沛公(はいこう)劉邦に従って霸上(はじょう)にいる。

 今夜、十分な備えをしていない劉邦軍を、我らの大軍が急襲したら、沛公(はいこう)の兵は一人も生き残れないだろう。

 当然、張良も死ぬ……」

 

 張良とは、劉邦が(かん)国から借り受けた、あの軍師張良のことである。

 11年前、始皇帝暗殺に失敗した張良は、逃亡者となって身を隠した。あのとき張良を(かくま)ったのが、他でもない、この項伯だったのだ。

 命がけで助け合った親友同士が、何の因果(いんが)か、一方は劉邦の腹心、他方は項羽の叔父として、敵対する羽目(はめ)になってしまった。

 

 とはいえ、項伯が張良に向ける思いは、今なお少しも変わっていない。

 

「幼い頃に、張良とは義兄弟の(まじ)わりを結んだ。自分の骨肉以上に彼のことが大切なのだ。

 死なせたくない。死なせてなるものか……

 ……よし。今夜奇襲があることをひそかに伝えて、張良だけは逃がしてやろう」

 

 項伯は、すぐに張良(あて)書簡(しょかん)調(ととの)えた。

 

 が、すぐに考え直した。

「いやいや。これほどの大事を書簡(しょかん)で知らせようとしたら、途中で誰かに奪われて、逆に災いの元になるかもしれん。

 私みずから行って伝えるほうがいい。

 

 項羽は、これを裏切りとみなすだろうなあ。もう()軍に私の居場所は無くなるだろうが……

 まあ、いい。私も彼と落ちのびよう。どこへでもいいさ、張良と一緒なら……」

 

 覚悟を決めた項伯は、日が暮れるのを、じっと待った。

 

 

(つづく)




●注釈
 曹無傷(そうむしょう)の密告文の中にある『人様から指示を(あお)がねば仕事ができない、掃除係のような男』という部分は、現代の(そして筆者の)価値観においては、許しがたい直球の職業差別である。
 しかし、「通俗漢楚軍談」「西漢通俗演義」ともにこのような表現になっており、その記述を尊重して記した。飽くまで当時の社会における価値観を反映した台詞であるとして、どうかご理解いただきたい。
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