龍虎戦記 項羽vs劉邦【翻案・通俗漢楚軍談】   作:外清内ダク

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十六の中 鴻門の会・前編

 

 

 その日、霸上(はじょう)の陣の張良は、朝から沛公(はいこう)劉邦の前で善後策を協議していた。

 日暮れ時に至り、ひとまず今日の会議は打ち切りとなって、張良は中軍の陣から外に出た。

 

 その直後。

 ふと天を見上げ、張良は息を()んだ。

 東南(たつみ)の空に、異様な殺気が一条(ひとすじ)隠々(いんいん)と走り渡っていたのだ。

 

 張良が(けわ)しい眼差(まなざ)しを向ける先で、殺気はいよいよ色濃く天に広がっていく。

 

「……不吉の(きざし)だ」

 と、張良が低く(うめ)いたその時、突如として、めでたい慶雲(けいうん)が湧き起こり、殺気を切り裂くように横切った。

 

 張良は、すぐさま(きびす)を返して陣内に戻り、劉邦の幕舎(ばくしゃ)に駆け込んだ。

 

 劉邦が目を丸くする。

「あれえ、張良先生? やっと一日はたらき終えたってのに、まだ休まないんですかい?」

 

 張良が言う。

「それどころではなくなりました。いま天文を見たところ、鴻門(こうもん)の方角に色濃く殺気が渦巻いている」

 

「……つまり?」

「項羽が攻めてきます。おそらく、今夜」

 

 項羽の名を聞いたとたん、劉邦は顔色を失った。

「そんなあ! 俺は力が弱いし軍勢も少ない。どうやって項羽と戦えばいいんだよお!」

 

 この緊急事態にも、張良は全く慌てることなく、言葉(おだ)やかに劉邦を(なだ)める。

「ご安心なさいませ。

 殺気が(はなは)だ大きく、非常に危険ではありますが、その中に慶雲(けいうん)もあって、君を守護しております。

 救いはあります。できることはなんでもやって、(わざわ)いを(まぬが)れましょう」

 

 かくして劉邦軍は、(あわ)ただしく(いくさ)支度(じたく)を開始した。

 

 

   *

 

 

 項伯は日が暮れるのを待ち、ただ一人、馬に乗ってひそかに鴻門(こうもん)の陣を出た。

 

 しかし軍の陣門であれば、当然、門番もいる。(あん)(じょう)、門前で()の大将丁公(ていこう)が項伯を呼び止めた。

「おや、老大王。こんな日暮れ時に、どちらへお出かけです?」

 

 項伯は項羽の叔父である。それゆえ()軍の者たちは、項伯を(たっと)び恐れて「老大王」と呼んでいるのだ。

 

 項伯は、なにくわぬ顔で答えた。

「急いで項羽将軍に確認せねばならないことがあってな。それで(ひそ)かに出かけるところなのだ」

 

「さようでございましたか」

 丁公(ていこう)は疑いもせず、拝伏(はいふく)して項伯を通した。

 

 うまく陣を抜け出した項伯は、すぐさま馬に(むち)を入れた。

 飛ぶが如くに、走り、走り、はや霸上(はじょう)まで残り20里(8km)。

 ところがここで、あたりを巡回していた兵の一団が、項伯の()()(はば)んだ。

 

「何者だ! そんなに(あわ)ただしく馬を走らせているのは!」

 項伯の前に立ち(ふさ)がったのは、劉邦軍の副将、夏侯嬰(かこうえい)の手勢だった。

 夏侯嬰(かこうえい)は警備のために夜回りをしていて、たまたま項伯を見つけたのである。

 

 項伯は言う。

「貴公は、沛公(はいこう)配下の大将ですな? ちょうどよかった。

 私は(ちょう)子房(しぼう)の親友だ。緊急で知らせたいことがござる。彼と対面させていただきたい」

 

 この言い分を、夏侯嬰(かこうえい)は怪しんだ。真偽(しんぎ)が分からない以上、無理からぬ話である。

 だが、軍師張良の友人と名乗(なの)る者を、無下(むげ)に追い返すこともできない。

 

 そこで夏侯嬰(かこうえい)は、ひとまず項伯を連れて中軍の陣に帰った。

 門前で旗を守っていた兵に取り次ぎを命じ、門の前で官柝(かんたく)拍子木(ひょうしぎ))を3回打ち鳴らす。

 すると、合図を聞いた一人の大将が、中軍の門を内側から少し押し開けた。

 

夏侯嬰(かこうえい)殿、どうかしたのか?」

 

 夏侯嬰(かこうえい)が、うなずく。

「夜回りをしていたところ、妙な男を見つけた。武具も付けず、馬を(むち)打ち慌ただしくやってきて、『自分は張良の友人だ。張良に会わせろ』と言うのだ。

 このことを沛公(はいこう)と張良殿に伝えてくれ」

 

「よし分かった。ちょっと待ってろ」

 と、大将がまた陣の中へ引っ込んでいく。

 

 このやりとりを、項伯は(つぶさ)に観察していた。

 夏侯嬰(かこうえい)の取った手続きひとつ見ても、用心深く、きちんと規則を守っていることが分かる。幕舎(ばくしゃ)にも整然と旗幟(きし)が立てられているし、兵による警備もまことに厳重。

 

 項伯は深く感心した。

「見事に統率された、よい軍勢だ。

 沛公(はいこう)劉邦、ただ者ではないらしい。范増(はんぞう)が『いつか天子になる男だ』と言って怖れるのも、なるほど、道理だな……」

 

 

   *

 

 

 中軍の幕舎(ばくしゃ)で、張良と劉邦が(いくさ)の相談をしていると、外から報告が舞いこんできた。

「『自分は(ちょう)子房(しぼう)の友だ。今すぐ彼に会いたい』と言う者が来ました」

 

 これを聞くや、張良は満面に喜色(きしょく)を現し、立ち上がった。

「よし、慶雲(けいうん)が来た!」

 

 張良が陣の門前に走り出てみれば、はたして、そこにいたのは親友項伯。

「おお項伯! 会いたかったよ。急にどうしたんだね」

 

 張良は、にこやかに項伯を案内し、空いている幕舎(ばくしゃ)に迎え入れた。

 二人きりになったところで、項伯は声をひそめて語りだした。

「張良、霸上(はじょう)は血の海になるぞ」

 

「ほう? 甥御(おいご)が何かやらかすかね」

 

「予想していたか、さすがだな。

 項羽は今夜、夜討(よう)ちを計画している。このままでは君も殺される!

 すぐにここから逃げよう。私も君と一緒に落ちるよ」

 

 張良は首を横に振った。

沛公(はいこう)は、韓王様から私を借り出して以来、(きわ)めて手厚く寵遇(ちょうぐう)してくださった。

 それなのに、この緊急事態を知って、御恩(ごおん)(かえり)みもせず逃げ出すのは、不義というものだ。

 まず沛公(はいこう)に報告せねばならん。しばらくここで待っていたまえ」

 

 張良は項伯をその場に残し、一人で劉邦のところへ戻っていった。

 項伯の話したことを劉邦に伝えると、彼は小刻(こきざ)みに震えだした。

「どどどどどうすればいい?」

 

 張良は、ニコリと笑って、劉邦の耳元に口を寄せた。

「ご心配なく。突破口の方からこちらへ来てくれました。よいですか、このようにするのです……」

 と、張良は何事(なにごと)か劉邦に耳打ちして、また、なにくわぬ顔をして項伯の所へ戻った。

 

「項伯よ。君自身が沛公(はいこう)劉邦に対面して、事態がどうなってるか伝えてくれないか」

 

 項伯は(まゆ)をひそめた。

「私が来たのは、君を救うためだ。なんで沛公(はいこう)に会わねばならん?」

 

 張良が微笑(ほほえ)む。

沛公(はいこう)は心が広いお方だ。まあ一回会ってみなよ」

 

 張良は、しぶる項伯を引っ張って、劉邦の元へと連れて行った。

 

 

(つづく)

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