その日、霸上の陣の張良は、朝から沛公劉邦の前で善後策を協議していた。
日暮れ時に至り、ひとまず今日の会議は打ち切りとなって、張良は中軍の陣から外に出た。
その直後。
ふと天を見上げ、張良は息を呑んだ。
東南の空に、異様な殺気が一条、隠々と走り渡っていたのだ。
張良が険しい眼差しを向ける先で、殺気はいよいよ色濃く天に広がっていく。
「……不吉の兆だ」
と、張良が低く呻いたその時、突如として、めでたい慶雲が湧き起こり、殺気を切り裂くように横切った。
張良は、すぐさま踵を返して陣内に戻り、劉邦の幕舎に駆け込んだ。
劉邦が目を丸くする。
「あれえ、張良先生? やっと一日はたらき終えたってのに、まだ休まないんですかい?」
張良が言う。
「それどころではなくなりました。いま天文を見たところ、鴻門の方角に色濃く殺気が渦巻いている」
「……つまり?」
「項羽が攻めてきます。おそらく、今夜」
項羽の名を聞いたとたん、劉邦は顔色を失った。
「そんなあ! 俺は力が弱いし軍勢も少ない。どうやって項羽と戦えばいいんだよお!」
この緊急事態にも、張良は全く慌てることなく、言葉穏やかに劉邦を宥める。
「ご安心なさいませ。
殺気が甚だ大きく、非常に危険ではありますが、その中に慶雲もあって、君を守護しております。
救いはあります。できることはなんでもやって、災いを免れましょう」
かくして劉邦軍は、慌ただしく戦支度を開始した。
*
項伯は日が暮れるのを待ち、ただ一人、馬に乗ってひそかに鴻門の陣を出た。
しかし軍の陣門であれば、当然、門番もいる。案の定、門前で楚の大将丁公が項伯を呼び止めた。
「おや、老大王。こんな日暮れ時に、どちらへお出かけです?」
項伯は項羽の叔父である。それゆえ楚軍の者たちは、項伯を尊び恐れて「老大王」と呼んでいるのだ。
項伯は、なにくわぬ顔で答えた。
「急いで項羽将軍に確認せねばならないことがあってな。それで密かに出かけるところなのだ」
「さようでございましたか」
丁公は疑いもせず、拝伏して項伯を通した。
うまく陣を抜け出した項伯は、すぐさま馬に鞭を入れた。
飛ぶが如くに、走り、走り、はや霸上まで残り20里(8km)。
ところがここで、あたりを巡回していた兵の一団が、項伯の行く手を阻んだ。
「何者だ! そんなに慌ただしく馬を走らせているのは!」
項伯の前に立ち塞がったのは、劉邦軍の副将、夏侯嬰の手勢だった。
夏侯嬰は警備のために夜回りをしていて、たまたま項伯を見つけたのである。
項伯は言う。
「貴公は、沛公配下の大将ですな? ちょうどよかった。
私は張子房の親友だ。緊急で知らせたいことがござる。彼と対面させていただきたい」
この言い分を、夏侯嬰は怪しんだ。真偽が分からない以上、無理からぬ話である。
だが、軍師張良の友人と名乗る者を、無下に追い返すこともできない。
そこで夏侯嬰は、ひとまず項伯を連れて中軍の陣に帰った。
門前で旗を守っていた兵に取り次ぎを命じ、門の前で官柝(拍子木)を3回打ち鳴らす。
すると、合図を聞いた一人の大将が、中軍の門を内側から少し押し開けた。
「夏侯嬰殿、どうかしたのか?」
夏侯嬰が、うなずく。
「夜回りをしていたところ、妙な男を見つけた。武具も付けず、馬を鞭打ち慌ただしくやってきて、『自分は張良の友人だ。張良に会わせろ』と言うのだ。
このことを沛公と張良殿に伝えてくれ」
「よし分かった。ちょっと待ってろ」
と、大将がまた陣の中へ引っ込んでいく。
このやりとりを、項伯は具に観察していた。
夏侯嬰の取った手続きひとつ見ても、用心深く、きちんと規則を守っていることが分かる。幕舎にも整然と旗幟が立てられているし、兵による警備もまことに厳重。
項伯は深く感心した。
「見事に統率された、よい軍勢だ。
沛公劉邦、ただ者ではないらしい。范増が『いつか天子になる男だ』と言って怖れるのも、なるほど、道理だな……」
*
中軍の幕舎で、張良と劉邦が戦の相談をしていると、外から報告が舞いこんできた。
「『自分は張子房の友だ。今すぐ彼に会いたい』と言う者が来ました」
これを聞くや、張良は満面に喜色を現し、立ち上がった。
「よし、慶雲が来た!」
張良が陣の門前に走り出てみれば、はたして、そこにいたのは親友項伯。
「おお項伯! 会いたかったよ。急にどうしたんだね」
張良は、にこやかに項伯を案内し、空いている幕舎に迎え入れた。
二人きりになったところで、項伯は声をひそめて語りだした。
「張良、霸上は血の海になるぞ」
「ほう? 甥御が何かやらかすかね」
「予想していたか、さすがだな。
項羽は今夜、夜討ちを計画している。このままでは君も殺される!
すぐにここから逃げよう。私も君と一緒に落ちるよ」
張良は首を横に振った。
「沛公は、韓王様から私を借り出して以来、極めて手厚く寵遇してくださった。
それなのに、この緊急事態を知って、御恩を顧みもせず逃げ出すのは、不義というものだ。
まず沛公に報告せねばならん。しばらくここで待っていたまえ」
張良は項伯をその場に残し、一人で劉邦のところへ戻っていった。
項伯の話したことを劉邦に伝えると、彼は小刻みに震えだした。
「どどどどどうすればいい?」
張良は、ニコリと笑って、劉邦の耳元に口を寄せた。
「ご心配なく。突破口の方からこちらへ来てくれました。よいですか、このようにするのです……」
と、張良は何事か劉邦に耳打ちして、また、なにくわぬ顔をして項伯の所へ戻った。
「項伯よ。君自身が沛公劉邦に対面して、事態がどうなってるか伝えてくれないか」
項伯は眉をひそめた。
「私が来たのは、君を救うためだ。なんで沛公に会わねばならん?」
張良が微笑む。
「沛公は心が広いお方だ。まあ一回会ってみなよ」
張良は、しぶる項伯を引っ張って、劉邦の元へと連れて行った。
(つづく)