張良と項伯が幕舎に来ると、劉邦は衣服を整えて出迎えた。上座を項伯に譲り、丁重に礼をとりさえする。
まさに『下にも置かない扱い』である。
劉邦に詳細を問われると、項伯は戸惑いながらも語って聞かせた。
項羽が激しく怒っていること。関中の王になるという劉邦の野望を見抜いていること。そして今夜、夜襲を計画していることを。
劉邦は、なんとも愛嬌のある困り顔をして、項伯に酒を勧めた。
「参りましたなあ。私ァ、関中に入ってからこっち、身を慎んで魯公のお越しを待ってたつもりですよ。
秦の宮殿も宝物庫も封鎖して、魯公に差し上げるため手つかずでとっておいたんです。なんでお疑いになるんでしょ?」
と、一つ一つ自分の行動に罪も悪意もないことを示しながら、人懐っこく杯を挙げる。
「項伯殿との出会いに乾杯!
あ、そうだ。ちょっと小耳に挟んだんですが、項伯殿の息子さんは、まだ結婚なさってないそうですね?
ちょうどいい。私んとこにも娘がおりまして。今日という日の好に、2人を婚約させませんか!
これからは家族として、末永くお付き合いいただきたい。
そんで、できることなら鴻門の陣に戻って、『劉邦に罪はないんだよ』ってことを魯公に伝え、怒りを鎮めてくださいませんか」
項伯は首を横に振った。
「項家と劉家は、並び立って互いに知恵と武勇を戦わせているところではありませんか。こんな時に私が沛公と婚姻を結べば、世間の人々が、なんと噂するか……」
すかさず張良が口を挟む。
「心配は要らない。魯公と沛公は懐王の前で約束し、義兄弟の誓いまで立て、ともに秦を討伐した仲だ。
その使命も果たされた今、両家の婚姻を一体誰が怪しむというのだね」
そう言って張良は、項伯の襟を取り、劉邦の襟と結び合わせた。
そして剣を抜くと、結んだ襟を2つに切り分け、半分ずつ項伯と劉邦に返した。
これは、中国の古い儀式。互いの襟の半分を持ち合うことで、友好の証とするのである。
「ほら、これで両家は結ばれた」
微笑む張良を見て、項伯は目を伏せた。
心の中で、項伯は悟った。
「そうか……逃げるつもりはないのだな、張良」
張良の目もまた、無言で答える。
「ああ。私は逃げぬよ、項伯」
張良が決して劉邦を見捨てぬつもりでいるのなら、張良の命を救う方法は……ひとつしかない。
「分かりました。この婚姻、お受けいたします」
項伯は、ついに承諾した。
劉邦は喜び、丁寧に礼をして、また盃を傾けた。
こうして項伯と劉邦の盃事は済んだ。
別れ際に項伯は拝謝して言った。
「沛公。明日になったら、なるべく早く鴻門に来て、直に項羽と会見しなさい。でなければ、彼の怒りは収まらないでしょう。
私も、今夜のうちに鴻門へ駆け戻り、あなたに罪が無いことを項羽へ伝えておきます。そうすれば、おそらく無事に済む」
劉邦と張良は、ともにうなずき、護衛として夏侯嬰と20騎の兵を添え、項伯を遠くまで送って行かせた。
*
その夜の二更(午後10時)ごろ、鴻門の陣は動きだした。
軍師范増が項羽に言う。
「よい頃合いですな。そろそろ馬をお出しなされ」
「よし!」
と項羽は諸大将に集合を命じた。
しかし、集まった大将の中に、叔父項伯の姿が見えない。
范増が顔を曇らせた。
「なぜ項老(項伯)は来ないのだ」
大将の丁公が進み出る。
「老大王でしたら、日暮れごろに『項羽将軍に確認せねばならぬことがある』と仰って、ただ一騎、陣門を出て東の方へ走って行かれましたが」
「なにっ」
范増は顔色を変えた。
「いかん! 軽々しく兵を動かすわけにはいかなくなった。
項老は劉邦にこちらの策を漏らしたに違いない。向こうが対策をしていたら、逆にこちらが計略にハメられますぞ」
項羽が言う。
「いやいや、項伯は俺の叔父だし、我が軍の中でも特に忠誠の厚い人だ。返り忠(裏切り)なんか考えるわけない。先生、疑っちゃいけないよ」
しかし范増の表情は、少しも和らがなかった。
「たとえ項老に裏切るつもりがなくとも、不自然に行方を晦ました者がいる時点で、作戦は漏れたものとして動かねばならぬ。
軍中の機密というものは、厳密にも厳密を重ねて隠しぬき、鬼神にさえ察知できないようにするのが肝要なのだ。昔の人も『機は密ならざるときは、すなわち害なる』と言っている。
今夜の合戦は、いったん中止とし、別の計略を議論しなされ」
と、范増が言い終わる寸前に、陣門の方から報告が飛び込んできた。
「項老が帰っていらっしゃいました」
項羽は、すぐに項伯を呼んで尋ねた。
「叔父上、どこに行ってたんだ」
項伯は、額に薄く汗を浮かべていた。
ここが正念場である。下手な言い訳は逆効果になりかねない。項羽の性格を考えれば、むしろ正直に自分の行動と考えを述べるほうが怒らせずに済む。
覚悟を決めた項伯は、臆さず堂々と語りだした。
「私の古い友人の張良という者が、沛公の陣営にいる。
ずっと親しく付き合ってきた仲だ。それを虚しく死なせてしまうのが憐れでならず、ひそかに彼を逃がしてやろうと思って、私みずから出向いたのだ。
そこで私は、沛公が関中に入ってからの行動を詳しく聞かされた。
『沛公に他意はない。大将を派遣して函谷関を守らせたのは、他の盗賊を防ぐためであって、魯公を締め出すためではない。財宝や美女にも手を付けず封印し、ただただ魯公が来るのをお待ちしていた』
と、こう言うのだ。
思うのだが、沛公が先に咸陽を落としていなかったら、私たちとて、こうも簡単に無血で関中に入ることはできなかった。ここは、沛公の功績があるところだ。
功績がある人を、つまらない小人の言葉に踊らされて罰するのは、大きな不義と言える。
沛公は、明日みずからここへ来て謝罪したいと言っていた。
項羽将軍。どうか怒りを収め、快く沛公をもてなして、大義を失わないようになされよ」
項羽は、意外にも素直にうなずく。
「そうか。叔父上の話を聞いた感じだと、沛公には罪が無いみたいだな。それなのに兵を動かして劉邦を討ったら、天下の人に笑われてしまう」
一方、范増は人知れず歯噛みしていた。心の中に思う。
「項伯め! 敵の策にうまうま乗せられて来おったな!
項羽も項羽だ。気分次第でコロコロ考えを変えるうえに、身内に対しては妙に甘い!」
このままではいかぬ、とばかり、范増は口を挟んだ。
「私が劉邦を殺しなさいと勧めたのは、奴が関中に入ってから、法を三章に簡略化し、民衆の心を懐かせ、天下を取ろうと謀る意志を持っているからだ。
いま奴を取りのぞかねば、後で大いなる災いとなる。
項老は張良とかいう男に騙されて、沛公罪無し、などと言っておられるのだ。項羽将軍、信じてはなりませぬぞ!」
項伯は顔を強張らせた。
范増は、劉邦の抹殺に相当固執している。彼に主導権を握られたら、劉邦も張良も死ぬ。
親友を守るため、項伯は必死に反論した。
「范増先生! 沛公を殺すなら、他にいくらでも方法がありましょう。なにも夜中にいきなり騙し討ちすることはない。
男として、こんな戦い方は本意ではありません」
項羽も項伯の意見に同調した。
「そうだなあ。叔父上の言うとおりだ」
そして、劉邦を殺そうという気持ちを完全に失くしてしまったのである。
(つづく)
■次回予告■
弁明のため鴻門を訪れた沛公劉邦。ところがそこは窮極の危地。幾重にも張り巡らされた死の罠が、彼を絡め取らんと迫り来る。
玉玦を挙げる軍師范増。剣を舞わす項荘、項伯。息さえ吐けぬ緊迫の宴から、はたして劉邦、生還なるか?
次回「龍虎戦記」第十七回
『鴻門の会・後編』
乞う、ご期待!