龍虎戦記 項羽vs劉邦【翻案・通俗漢楚軍談】   作:外清内ダク

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十六の下 鴻門の会・前編

 

 

 張良と項伯が幕舎(ばくしゃ)に来ると、劉邦は衣服を整えて出迎えた。上座(かみざ)を項伯に(ゆず)り、丁重に礼をとりさえする。

 まさに『下にも置かない扱い』である。

 

 劉邦に詳細(しょうさい)を問われると、項伯は戸惑(とまど)いながらも語って聞かせた。

 項羽が激しく怒っていること。関中の王になるという劉邦の野望を見抜いていること。そして今夜、夜襲を計画していることを。

 

 劉邦は、なんとも愛嬌(あいきょう)のある困り顔をして、項伯に酒を勧めた。

「参りましたなあ。私ァ、関中に入ってからこっち、身を(つつし)んで魯公(ろこう)のお越しを待ってたつもりですよ。

 (しん)の宮殿も宝物庫も封鎖して、魯公(ろこう)に差し上げるため手つかずでとっておいたんです。なんでお疑いになるんでしょ?」

 

 と、一つ一つ自分の行動に罪も悪意もないことを示しながら、人懐(ひとなつ)っこく(さかずき)()げる。

「項伯殿との出会いに乾杯(かんぱい)

 

 あ、そうだ。ちょっと小耳(こみみ)に挟んだんですが、項伯殿の息子さんは、まだ結婚なさってないそうですね?

 ちょうどいい。私んとこにも娘がおりまして。今日という日の(よしみ)に、2人を婚約させませんか!

 

 これからは家族として、末永(すえなが)くお付き合いいただきたい。

 そんで、できることなら鴻門(こうもん)の陣に戻って、『劉邦に罪はないんだよ』ってことを魯公(ろこう)に伝え、怒りを(しず)めてくださいませんか」

 

 項伯は首を横に振った。

「項家と劉家は、並び立って(たが)いに知恵(ちえ)と武勇を戦わせているところではありませんか。こんな時に私が沛公(はいこう)婚姻(こんいん)を結べば、世間の人々が、なんと(うわさ)するか……」

 

 すかさず張良が口を挟む。

「心配は()らない。魯公(ろこう)沛公(はいこう)懐王(かいおう)の前で約束し、義兄弟の(ちか)いまで立て、ともに(しん)討伐(とうばつ)した仲だ。

 その使命も果たされた今、両家の婚姻(こんいん)を一体誰が怪しむというのだね」

 

 そう言って張良は、項伯の(えり)を取り、劉邦の(えり)と結び合わせた。

 そして剣を抜くと、結んだ(えり)を2つに切り分け、半分ずつ項伯と劉邦に返した。

 これは、中国の古い儀式。(たが)いの(えり)の半分を持ち合うことで、友好の(あかし)とするのである。

 

「ほら、これで両家は結ばれた」

 微笑(ほほえ)む張良を見て、項伯は目を伏せた。

 

 心の中で、項伯は悟った。

「そうか……逃げるつもりはないのだな、張良」

 

 張良の目もまた、無言で答える。

「ああ。私は逃げぬよ、項伯」

 

 張良が決して劉邦を見捨てぬつもりでいるのなら、張良の命を救う方法は……ひとつしかない。

「分かりました。この婚姻(こんいん)、お受けいたします」

 項伯は、ついに承諾した。

 

 劉邦は喜び、丁寧(ていねい)に礼をして、また(さかずき)を傾けた。

 

 こうして項伯と劉邦の盃事(さかずきごと)は済んだ。

 別れ際に項伯は拝謝(はいしゃ)して言った。

 

沛公(はいこう)。明日になったら、なるべく早く鴻門(こうもん)に来て、(じか)に項羽と会見しなさい。でなければ、彼の怒りは収まらないでしょう。

 私も、今夜のうちに鴻門(こうもん)へ駆け戻り、あなたに罪が無いことを項羽へ伝えておきます。そうすれば、おそらく無事に済む」

 

 劉邦と張良は、ともにうなずき、護衛として夏侯嬰(かこうえい)と20騎の兵を()え、項伯を遠くまで送って行かせた。

 

 

   *

 

 

 その夜の二更(にこう)(午後10時)ごろ、鴻門(こうもん)の陣は動きだした。

 

 軍師范増(はんぞう)が項羽に言う。

「よい頃合いですな。そろそろ馬をお出しなされ」

 

「よし!」

 と項羽は諸大将に集合を命じた。

 しかし、集まった大将の中に、叔父項伯の姿が見えない。

 

 范増(はんぞう)が顔を(くも)らせた。

「なぜ項老(項伯)は来ないのだ」

 

 大将の丁公が進み出る。

「老大王でしたら、日暮れごろに『項羽将軍に確認せねばならぬことがある』と(おっしゃ)って、ただ一騎、陣門を出て東の方へ走って行かれましたが」

 

「なにっ」

 范増(はんぞう)は顔色を変えた。

「いかん! 軽々しく兵を動かすわけにはいかなくなった。

 項老は劉邦にこちらの策を()らしたに違いない。向こうが対策をしていたら、逆にこちらが計略にハメられますぞ」

 

 項羽が言う。

「いやいや、項伯は俺の叔父だし、我が軍の中でも特に忠誠の(あつ)い人だ。(かえ)(ちゅう)(裏切り)なんか考えるわけない。先生、疑っちゃいけないよ」

 

 しかし范増(はんぞう)の表情は、少しも(やわ)らがなかった。

「たとえ項老に裏切るつもりがなくとも、不自然に行方(ゆくえ)(くら)ました者がいる時点で、作戦は()れたものとして動かねばならぬ。

 軍中の機密というものは、厳密にも厳密を重ねて隠しぬき、鬼神にさえ察知(さっち)できないようにするのが肝要(かんよう)なのだ。昔の人も『機は密ならざるときは、すなわち害なる』と言っている。

 今夜の合戦は、いったん中止とし、別の計略を議論しなされ」

 

 と、范増(はんぞう)が言い終わる寸前に、陣門の方から報告が飛び込んできた。

「項老が帰っていらっしゃいました」

 

 項羽は、すぐに項伯を呼んで(たず)ねた。

「叔父上、どこに行ってたんだ」

 

 項伯は、(ひたい)に薄く汗を浮かべていた。

 ここが正念場(しょうねんば)である。下手な()(わけ)は逆効果になりかねない。項羽の性格を考えれば、むしろ正直に自分の行動と考えを述べるほうが怒らせずに済む。

 

 覚悟を決めた項伯は、(おく)さず堂々(どうどう)と語りだした。

「私の古い友人の張良という者が、沛公(はいこう)の陣営にいる。

 ずっと親しく付き合ってきた仲だ。それを(むな)しく死なせてしまうのが(あわ)れでならず、ひそかに彼を逃がしてやろうと思って、私みずから出向いたのだ。

 

 そこで私は、沛公(はいこう)が関中に入ってからの行動を詳しく聞かされた。

沛公(はいこう)他意(たい)はない。大将を派遣して函谷関(かんこくかん)を守らせたのは、他の盗賊を防ぐためであって、魯公(ろこう)を締め出すためではない。財宝や美女にも手を付けず封印し、ただただ魯公(ろこう)が来るのをお待ちしていた』

 と、こう言うのだ。

 

 思うのだが、沛公(はいこう)が先に咸陽(かんよう)を落としていなかったら、私たちとて、こうも簡単に無血で関中に入ることはできなかった。ここは、沛公(はいこう)の功績があるところだ。

 功績がある人を、つまらない小人(しょうじん)の言葉に踊らされて罰するのは、大きな不義と言える。

 

 沛公(はいこう)は、明日みずからここへ来て謝罪したいと言っていた。

 項羽将軍。どうか怒りを収め、(こころよ)沛公(はいこう)をもてなして、大義を失わないようになされよ」

 

 項羽は、意外にも素直にうなずく。

「そうか。叔父上の話を聞いた感じだと、沛公(はいこう)には罪が無いみたいだな。それなのに兵を動かして劉邦を()ったら、天下の人に笑われてしまう」

 

 一方、范増(はんぞう)は人知れず歯噛(はが)みしていた。心の中に思う。

「項伯め! 敵の策にうまうま乗せられて来おったな!

 項羽も項羽だ。気分次第でコロコロ考えを変えるうえに、身内に対しては妙に甘い!」

 

 このままではいかぬ、とばかり、范増(はんぞう)は口を挟んだ。

「私が劉邦を殺しなさいと(すす)めたのは、奴が関中に入ってから、法を三章に簡略化し、民衆の心を(なつ)かせ、天下を取ろうと(はか)る意志を持っているからだ。

 いま奴を取りのぞかねば、後で(おお)いなる災いとなる。

 項老は張良とかいう男に(だま)されて、沛公(はいこう)(つみ)()し、などと言っておられるのだ。項羽将軍、信じてはなりませぬぞ!」

 

 項伯は顔を強張(こわば)らせた。

 范増(はんぞう)は、劉邦の抹殺(まっさつ)に相当固執(こしつ)している。彼に主導権を握られたら、劉邦も張良も死ぬ。

 親友を守るため、項伯は必死に反論した。

范増(はんぞう)先生! 沛公(はいこう)を殺すなら、他にいくらでも方法がありましょう。なにも夜中にいきなり(だま)()ちすることはない。

 男として、こんな戦い方は本意(ほんい)ではありません」

 

 項羽も項伯の意見に同調した。

「そうだなあ。叔父上の言うとおりだ」

 そして、劉邦を殺そうという気持ちを完全に()くしてしまったのである。

 

 

(つづく)

 

 

 

 

■次回予告■

 

 弁明のため鴻門(こうもん)を訪れた沛公(はいこう)劉邦。ところがそこは窮極(きゅうきょく)危地(きち)幾重(いくえ)にも張り巡らされた死の罠が、彼を(から)め取らんと迫り来る。

 玉玦(ぎょっけつ)()げる軍師范増(はんぞう)。剣を舞わす項荘、項伯。息さえ()けぬ緊迫の(うたげ)から、はたして劉邦、生還なるか?

 

 次回「龍虎戦記」第十七回

 『鴻門(こうもん)の会・後編』

 

 ()う、ご期待!




●注釈
『機は密ならざるときは、すなわち害なる』……「易経・繋辞伝・上」に、以下のように記されている。
『不出戸庭、无咎。
 子曰「乱之所生也、則言語以為階。君不密、則失臣。臣不密、則失身。幾事不密、則害成。是以君子慎密而不出也」』
 戸庭を出でずんば咎なし。
 子曰く、乱の生ずる所は、すなわち言語をもって階をなす。君密ならざれば、すなわち臣を失う。臣密ならざれば、すなわち身を失う。幾事密ならざれば、すなわち害なる。これをもって君子は慎密にして出さざるなり」
(中庭から外に出なければ罪を問われることもない。
 孔子は言った。「乱が生じるとき、必ず言葉がきっかけになっている。主君が余計なことを言えば、家臣を失う。家臣が余計なことを言えば、命を失う。機密事項を外に漏らしたら、害が生まれる。だから君子はよく慎み、秘密を守るのである」)
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