張良は、一人、しずしずと陣の奥へ進んだ。
宴会場の門前にくると、門番の丁公と雍歯が張良を止めた。
「誰だ、お前は」
張良は涼しげに礼をして言う。
「私は、沛公劉邦に仮に従う張良という者です。魯公項羽様にお目にかかりたく、参上いたしました。お取り次ぎを」
丁公は宴会場に入り、項羽に報告した。
「劉邦に仮に従う張良という者が、陣門に来て、我が君にお会いしたいと申しております。通してようございましょうか?」
項羽は眉をひそめた。
「『仮に従う』? 『仮』ってどういうことだ?」
范増が言う。
「そやつは韓国の張子房という者ですな。
劉邦は、秦に向かう途中で、この者を韓王から借りてきたのだそうです。正式な劉邦の臣ではないから、『仮に』と言っておるのでしょう。
張良は、5代に渡って韓の宰相を務めた名家の出で、本人も極めて智謀の深い男。いわば劉邦の片腕だ。
そんな奴がやって来たのは、弁舌を巧みにして我が君を都合よく操るため。ちょうどよい。この機会に、まずは劉邦の片腕を斬り落としてしまいなされ」
項羽の叔父の項伯は、このやりとりを聞くと、慌てて話に割って入った。
「無用、無用! 殺してはいかん!
魯公、そなたは関中へ入り、天下の心を懐かせようとしているのだろう? 多くの賢者を手足として用いることなしに、どうやって王業をなせるだろうか。
であれば、張良ほどの賢人を理由もなく殺してよいものか。むしろ味方に引き込むべきだ。張良と私は古い友だから、私が張良を説得しようじゃないか」
項羽は、うなずいた。
「そうだな。どっちにしろ、とりあえず会ってみようか。
丁公、その張良とかいうのを連れてこい」
宴会場の中へ通された張良は、まず丁寧に一礼し、項羽の姿に視線を走らせた。
項羽は甲冑を着込み、そばに剣を置いて座っている。
張良は、だしぬけに、こう切り出した。
「こんな言葉を聞いたことがあります。
『古より、真の王者が天下を治めるとき、徳は輝かしても、兵は動かさない。天下を御するものは、徳であって剣ではない。
大商人は、財産を深くしまい込んで表に出さない。巨大な富を持つものは、金を蓄えて驕らないのだ。同様に、勢いの強い者は自分の力を弱く見せかけ、無駄に暴力を振るわない』と。
これはまさに、齢を重ねて経験を積んだ者の深謀遠慮。高い見識を持つ者の言葉です。
魯公項羽様が諸侯を招いて酒宴を開くと聞いた時、私は思ったのです。
笙の音色に合わせて歌を歌い、来客も主人も一緒になって楽しみを尽くし、人民を安心させ暮らしを楽にする王者の道に思いをはせ、談笑して秦が滅びたことを喜び、舞い歌って一日中なごやかに過ごす。そんな宴会になさるのだろうと。
しかし、実際には甲冑を身に着けた勇士が四方を守り、槍や刀が陽光に輝き、銅鑼や太鼓の音が天にやかましく響いている。殺気ばかりを凛々と漲らせ、人々に不安を抱かせ、誰もが避けて遠ざかろうとするよう仕向けている。
あなたは魯公項羽です。あなたが9度も章邯と戦って天下を服従させたことは、今や誰もが知っている。
そのあなたを恐れない者が、この世にいましょうか?
あなたは強さをひけらかさずとも元々強く、わざわざ勇気を口に出さずとも元々勇敢でいらっしゃる。
それなのに、どうして勢力の強さを誇示して、いまさら人々に知らしめようとなさるのです?
今日の宴会、諸侯はもう陣の外まで来ています。しかし、魯公が温かく迎える姿勢を見せないので、みんな恐れて宴会場に入れずにいるのです。
このことを、どうか、お察しくださいませ」
張良の言葉を聞くうちに、項羽の心はざわつきはじめた。
「……張良の言うこと、いちいちもっともだ。
弱い犬ほどよく吠える……ここで変に強さを見せつけようとしたら、他人からは逆に虚勢を張っているように見えるかもしれん。そんなのは恥だ」
項羽はすぐに指示を飛ばし、甲冑の武士を陣の後方へ下がらせ、銅鑼や太鼓を叩くのも止めさせた。
そして自分も鎧を脱ぎ、宴会向きに衣装を改めて、諸侯を迎え入れるよう命令した。
*
門番の丁公と雍歯は、命を聞いて門を開き、諸侯を宴会場へ迎え入れた。
しかし、宴会場へ入れるのは参加者本人のみ。従者や護衛などは全員さえぎって、一人も中へ入れなかった。
沛公劉邦も宴会場へ入ったが、すぐに席には座らず、まず会場の階段下に立ち、出迎えに現れた項羽に対して丁重に礼をした。
項羽は、劉邦を傲然と見下ろしながら、低く押し殺した声をあげる。
「劉邦。御辺には3つの罪がある。なんだか分かるか」
劉邦は身を小さくして答えた。
「私めは、もともと沛県の亭長。それがたまたま周りの人に推されて今の立場になり、兵を率いて秦を討伐しただけでございます。
項羽将軍の麾下に所属して、進むも退くも、みんな将軍のご命令を待つのみです。どうして自分勝手な行動をして罪を犯すことなどありましょうか」
項羽は、劉邦の卑屈な態度に、やや苛立って眉を跳ね上げた。
「御辺は関中に入った後、降伏した秦王子嬰を許した。王の命令を待たず一人で勝手に判断した、一つめの罪だ。
民衆の心を懐かせるため、秦の法を改定して三章に簡略化した。まったくの越権行為。これが二つめの罪。
そして大将を差し向けて函谷関を固め、諸侯の進軍を邪魔した。これが三つめの罪だ!
この三つの罪があるだろう! いまさらトボケるなっ」
劉邦は深く深く頭を下げて、声を震わせ弁明する。
「お待ちを! 一言だけ言わせてください、私の心に誠があることを示します!
まず、秦王子嬰は、追い詰められ、力尽きて降伏したのです。
もし私がその場で殺していたら、むしろそれこそ、一人で勝手に判断したことになるでしょう?
ですからとりあえず命は取らず、魯公項羽様がお越しになるのを待っていたのです。決して、勝手に許したわけではありません。
それから法のことですが。
秦の法律は過酷かつ複雑で、人民は水や火の中に投げ込まれたかのように苦しみ、日夜、救いを待ち続けておりました。
法律を改正するのが1日遅れれば、そのぶん民衆は1日長く苦しむことになります。ゆえに急いで法律を改め、魯公項羽様の人徳を民に示しておいたのです。
これによって人民は喜び、『こんな小規模な前方部隊がこれだけ民を愛してくれるなら、後から来る王の本隊はどれほど民を憐れんでくれることだろう』と、魯公様の到着を首を長くして待っていたのです。
また、大将を出して函谷関を固めたのは、諸侯の進軍を妨げるためではありません。
秦の残党がまた暴れだす恐れがありましたし、ほかにも、混乱に乗じた盗賊やら、その他いろいろな非常事態やらを防ごうとしたのです。
今日、幸いにも、また項羽将軍にお会いできました。
どうか、先日結んだ義兄弟の盟約のことを思い、私の一途な心を憐れんでくださいませ。
人の上に立つ君主の慈悲を、私にもお恵みくださいませ……」
項羽は、極めて気性の強い、剛の者である。
だが一方で、人情を攻められると、深く考えずについ絆されてしまう癖も持っていた。
劉邦が言葉を尽くして弁明する、その必死な姿を見るうちに、項羽は、胸の中にあった疑いや蟠りを、すっかり融かしてしまった。
項羽は階下に降りると、優しく劉邦の肩を叩いた。
「そうだったのか。いや、俺は元々お前を疑ってなかったよ。
ただ、お前のところの左司馬曹無傷という男が、ひそかに書簡を送ってきて、お前の罪を訴えたんだ。
それで疑惑が浮かんだんだが、今、直にお前の言葉を聞いて、むしろ俺は嬉しく思った。そんなに俺のことを考えて動いてくれてたんだな」
劉邦は項羽に再拝して感謝の気持ちを示し、他の諸侯にも、へりくだって一人一人挨拶しながら、無事に席に着いた。
このとき劉邦は、おもてむきニコニコと温和な笑顔を浮かべつつ、内心では暗い憤りを煮えくり返らせていた。
「へえぇ……ふーん……そうなの。曹無傷……あいつがねえ。なるほどねえ……」
(つづく)