龍虎戦記 項羽vs劉邦【翻案・通俗漢楚軍談】   作:外清内ダク

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十七の丁 鴻門の会・後編

 

 

 門番の丁公と雍歯(ようし)が、また張良を止めた。

「まだ宴会の途中であろう。どこへ出るおつもりか?」

 

 張良は、にっこりと微笑(ほほえ)んだ。

沛公(はいこう)は、(しん)玉璽(ぎょくじ)を持参したのです。外の護衛たちに預けてありますから、それを取ってきて魯公(ろこう)項羽様へ献上しようかと」

 

「なに? そんな話は聞いていないぞ」

 丁公と雍歯(ようし)は、なおも疑って張良の行く手を(さえぎ)っている。

 

 ところが、そこへ、

「早く通してさしあげなさい」

 と、思わぬ助け舟がきた。

 

 項羽に仕える文官、陳平(ちんぺい)……つい先ほど劉邦の酒を少なめにして泥酔を防いでくれた、あの男である。

魯公(ろこう)は、せっかちなお(かた)だ。早く玉璽(ぎょくじ)を持って来させないと、あなた(がた)が叱られてしまいますぞ」

 

 これを聞いた丁公と雍歯(ようし)は、陳平(ちんぺい)が言うのなら、ということで、張良を通した。

 

 門外に出た張良は、待っていた護衛部隊の中に入って呼びかける。

樊噲(はんかい)! 樊噲(はんかい)殿はおられるか」

 

 すぐさま樊噲(はんかい)が駆け寄ってきた。その表情は険しい。一人で宴会場に入った劉邦の身を、深く心配しているのである。

「おう、張良先生! 兄貴は無事ですか」

 

 張良は、樊噲(はんかい)に口を寄せて、ささやいた。

「今のところはね。

 だが今、項荘という男が剣舞をしながら、(すき)を見て沛公(はいこう)を刺そうと狙っている。もう一刻の猶予(ゆうよ)もない。

 

 御辺(ごへん)は、申蒯(しんかい)という男が荘公を救った逸話をご存知(ぞんじ)か? 敵軍に追い詰められた荘公を逃がすため、申蒯(しんかい)は戦い抜いて死んでしまったのだ。

 

 忠義とは、自分自身の利益を(かえり)みぬこと。勇気とは、義のために命を惜しまぬ心。

 この鴻門(こうもん)の会で、沛公(はいこう)は危機に(おちい)っている。御辺(ごへん)が命を捨てて救わなければ、沛公(はいこう)が助かる見込みは千に一つも有りますまい。

 

 もしここで沛公(はいこう)を助け出せなければ、御辺(ごへん)は千年先の未来で、申蒯(しんかい)と比較されて恥をかくことになるでしょう」

 

 樊噲(はんかい)は、ニッ、と口元に笑みを浮かべた。

「先生、そんな脅しは無用だよ。喜んで申蒯(しんかい)の忠義に(なら)うぜ! ここぞというとき危険に飛び込めないような(やつ)ァ男じゃねえっ!」

 

 そう叫んで、樊噲(はんかい)は、いきなり宴会場の門に向けて駆け出した。

 その腕を、張良が(つか)んで止める。

「ちょっと待ちなさい。まず私が入ります。あなたは少し遅れて来なさい」

 

 張良は、門の中へ入ろうとした。

 門番の丁公と雍歯(ようし)がまた問いかける。

「伝国の玉璽(ぎょくじ)を取ってきたのか」

 

 張良は、(ころも)(そで)(かか)え持ち、いかにも重たい物が入っているかのように見せかけた。

「はい。玉璽(ぎょくじ)は、ここに」

 

 うまく丁公と雍歯(ようし)(あざむ)いた張良は、門を走り抜けて元の宴席へ戻った。

 項荘と項伯の剣舞は、今なお続いていた。劉邦も……まだ生きている。

 

「ここからが正念場だ。頼むぞ、樊噲(はんかい)殿」

 

 

   *

 

 

 張良が宴会場に戻るのを見送り、言われた通りに少し待ってから、樊噲(はんかい)は駆け出した。

 鉄の盾を(わき)に挟み、腰帯に剣を()げ、宴会場の門前まで来て大音声(だいおんじょう)を響かせる。

 

「今日、鴻門(こうもん)の会に来た我ら従者は、早朝からずっと外で待っているのに、まだ一滴の酒すら(たまわ)っておらん! 俺が(みずか)魯公(ろこう)項羽に会って、酒をもらってくる!」

 

 こう一方的に言い放ち、ずかずかと門に踏み込む樊噲(はんかい)

 当然、門番の丁公と雍歯(ようし)は、

曲者(くせもの)だ! 通すな!」

 と、すぐさま門を閉ざした。

 

 しかし樊噲(はんかい)、この妨害をものともせずに、閉じた扉に飛びついて、

「ぬおおおおぉぉぉぁーッ!」

 気迫の雄叫(おたけ)びあげながら、渾身(こんしん)の力で扉を押した。

 なんたる剛力か! たちまち扉は押し倒されて、向こう側にいた門番の兵が、数え切れぬほど下敷きとなって圧殺されてしまった。

 

 唖然(あぜん)とする()兵たちの前で、樊噲(はんかい)は一気に駆け抜け、天幕を剣でめくり上げ、宴会場に踏みこんだ。

 

 宴会場にいた項羽らは、突然の乱入者に驚いた。

 樊噲(はんかい)は、ずかずか項羽の前に近寄って、(いか)れる(まなこ)を鋭く裂き、天を貫くかの如く頭髪を逆立て、(つるぎ)()げ、盾を床に突き、鬼神のように立った。

 

 その迫力に、さすがの項羽すら圧倒された。

「この壮士は、一体誰だ?」

 

 張良が立ち上がった。

沛公(はいこう)驂乗(さんじょう)(貴人と同じ馬車に乗る従者)、樊噲(はんかい)という者です」

 

 項羽が言う。

「その樊噲(はんかい)が、何の用で来た?」

 

 樊噲(はんかい)が、さらに一歩、項羽へ詰め寄った。

「聞きましたぞ。今日は、(しん)が滅びた祝いの酒宴。魯公(ろこう)は身分の上下の区別なく、みなに酒を(たま)うと。

 

 しかし、この樊噲(はんかい)、早朝から門外にいて、もう(うま)(こく)(昼12時)になるというのに、結局、一滴の酒も(もら)っていない。

 腹が減って、喉が(かわ)いて、もう耐えられん! だから魯公(ろこう)に直接酒を要求しようと思って来たのだ」

 

「ふん。じゃあ飲ませてやる」

 項羽は、左右の臣に(めい)じ、1斗(約2リットル)も入る大盃(おおさかずき)樊噲(はんかい)に酒を(たまわ)った。

 樊噲(はんかい)(さかずき)を受けとるや、この量の酒を、一飲みに飲み尽くした。

 

 さらに項羽は、大きな豚の肉をも樊噲(はんかい)(たまわ)った。

 樊噲(はんかい)は、不敵にも剣で豚肉を切り、吸い込むように胃袋へ収めてしまった。

 

 項羽は興を惹かれ、身を乗り出した。

「おーっ! すごい食いっぷりだな。

 お前、もっと飲めるか?」

 

 樊噲(はんかい)が力強く鼻息を吹く。

「俺は死すら恐れない。たかが酒ていどのことを、なんで辞退しようか」

 

 項羽が尋ねる。

「死だと? なにか死ぬような危険があるか?」

 

 樊噲(はんかい)が答えた。

(しん)の王は、虎狼(ころう)の如き心を持ち、やたらに人を殺したから、天下はみな反乱した。

 それゆえ、()懐王(かいおう)様や諸侯と約束して、『先に(しん)を破って咸陽(かんよう)に入った者を王とする』と決めたはずだ。

 

 結局、先に咸陽(かんよう)へ入ったのは、沛公(はいこう)劉邦だった。多くの苦難を乗り越えて、大きな功績を打ち立てたのです。

 それなのに、沛公(はいこう)は少しも財宝を奪い取らず、婦女に手を出すこともなく、軍を霸上(はじょう)に引き返させて、ひたすら魯公(ろこう)が来るのを待っていたのですぞ。

 

 これほど功績のある人を、爵位(しゃくい)(ほう)じて(むく)いるどころか、つまらない小人(しょうじん)讒言(ざんげん)を信じて殺そうとしている。

 これでは、滅びた(しん)の悪を受け継ぐようなものだ。

 他ならぬ魯公(ろこう)様のために、この行いには賛成しかねる!

 

 今、項荘と項伯の二人が剣舞をしているが、その狙いが沛公(はいこう)劉邦の(いのち)にあることは明白。

 それがしが処刑されることまで覚悟の上で宴会場に踏みこんだのは、まず()えと(かわ)きのため。そして、以上の(ことわり)を申し述べて沛公(はいこう)を守るためだ!

 これが『死を恐れぬ』という言葉の意味だ!」

 

 樊噲(はんかい)爛々(らんらん)と目を怒らせ、一息に、まくしたてた。

 

 ここまで策士たちが影でゴソゴソと(うごめ)いてきた、その駆けひき全てを吹っ飛ばすかのような、あけすけで、まっすぐで、豪快極まる直訴(じきそ)

 その痛快さに、項羽は声高(こわだか)に笑いだした。

 

「あっはははは! なるほど、お前の言うとおりだ!

 沛公(はいこう)は、いい部下を持っているなあ。これぞまさしく天下の壮士だ!」

 

 項羽は、真実、好きなのである。樊噲(はんかい)のような男……(かざ)らず、(てら)わず、忠義を尽くす、まっすぐな性質(たち)の豪傑が。

 

 項羽は機嫌よく笑みを浮かべたまま、突然、頭をグラつかせて、机に()()した。

 そのまま項羽は、イビキをかきはじめた。

 陳平(ちんぺい)が、さりげなく飲ませ続けてきた大酒によって、ついに項羽は酔い潰れてしまったのだ。

 

 そうこうするうちに楽曲の演奏も終わり、項荘は、とうとう劉邦を殺す機会を得られぬまま剣舞を終えることになった。

 

 主人の項羽も潰れ、演奏も()み、なんとなく座に(しら)けた空気が(ただよ)う中、劉邦は(かわや)に行くフリをして席を立った。

 

 劉邦が門のところまで来ると、門番の丁公と雍歯(ようし)が、またしても劉邦を止めた。

 

 しかし、これを予期していた張良が駆けつけてきて言った。

魯公(ろこう)項羽様のご命令です。『諸侯がみんな酒に酔ってしまったので、門を開いてお帰りいただけ』と」

 

 丁公と雍歯(ようし)が、疑って顔を見合わせていると、そこへ陳平(ちんぺい)も現れた。

「張良殿の言うとおりだ。お二方(ふたかた)、早く門をお開きください」

 

 味方の陳平(ちんぺい)までがこう言うので、丁公と雍歯(ようし)は、すっかり信用して門を開いた。

 

 ついに鴻門(こうもん)の陣を抜け出した劉邦は、靳歙(きんきゅう)紀信(きしん)夏侯嬰(かこうえい)らと合流し、大急ぎで逃げだした。

 そして、山際(やまぎわ)の細道をたどり、無事に霸上(はじょう)の陣へ帰還したのだった。

 

 

   *

 

 

 このとき、鴻門(こうもん)の陣の後方に、立ち尽くす軍師范増(はんぞう)の姿があった。

 

 范増(はんぞう)は、項羽が酔い潰れ、項荘の剣舞も終わってしまった段階で、すべての計略が(つい)えたことを悟り、失意のもとに席を立っていたのである。

 

 だから范増(はんぞう)は、劉邦が逃げたところも、張良や陳平(ちんぺい)がそれを助けていたところも、見ていない。また、見る必要もない。

「事ここに至っては、どうせ、なるようにしかならん。

 我が計は破れた。すべては終わったのだ……」

 

 目を閉じれば、酔い潰れた項羽の顔が、まぶたに浮かぶ。

 酒で顔面を真っ赤に染めて、なんとも幸せそうに寝息をたてる、あどけなくすらある、あの寝顔……

 

 范増(はんぞう)は天を見上げ、大きく、大きく、苦い息を吐き出した。

 

 

(つづく)

 

 

 

 

■次回予告■

 

 多くの仲間の助けによって、どうにか危機を乗り越えた劉邦。しかし争いはまだ終わらない。明日の謀略に対抗すべく、知恵者張良は早くも次なる手を打った。

 張良の手のひらで踊る項羽。次第次第に(かたく)なさを増していく若き英雄に、老軍師范増(はんぞう)の怒りが爆発する。

 

 次回「龍虎戦記」第十八回

 『竪子(じゅし)、ともに(はか)るに足らず!』

 

 ()う、ご期待!




●注釈
 申蒯(しんかい)が荘公を救ったエピソードについては、「春秋左氏伝」に記述がある。
 本編の約340年前の春秋時代、(せい)には霊公という君主がいたが、その跡継ぎ争いで二人の太子が対立していた。政治家の崔杼(さいちょ)はその一方を支援し、王位につけることに成功した。これが荘公である。
 しかし、荘公が崔杼(さいちょ)の後妻と密通したため、崔杼(さいちょ)は荘公を恨んで殺害しようとした。崔杼(さいちょ)勢の襲撃によって荘公の家臣は次々に殺されていき、絶体絶命の危機に追い詰められた。このとき荘公を守るために戦ったのが申蒯(しんかい)だった。
 「春秋左氏伝・襄公二十五年」に曰く、
『申蒯侍漁者。退謂其宰曰「爾以帑免。我將死」
 其宰曰「免。是反子之義也」與之皆死。』
(現代語訳)
 申蒯(しんかい)は、荘公に仕える漁師だった。一時撤退して家宰(かさい)に言った。「あなたは家族を連れて逃げてください。私は荘公を守るために死にます」
 しかし、家宰(かさい)は言った。「逃げる? それは義に反することだよ」
 そして申蒯(しんかい)とともに全員死んでしまった。
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