門番の丁公と雍歯が、また張良を止めた。
「まだ宴会の途中であろう。どこへ出るおつもりか?」
張良は、にっこりと微笑んだ。
「沛公は、秦の玉璽を持参したのです。外の護衛たちに預けてありますから、それを取ってきて魯公項羽様へ献上しようかと」
「なに? そんな話は聞いていないぞ」
丁公と雍歯は、なおも疑って張良の行く手を遮っている。
ところが、そこへ、
「早く通してさしあげなさい」
と、思わぬ助け舟がきた。
項羽に仕える文官、陳平……つい先ほど劉邦の酒を少なめにして泥酔を防いでくれた、あの男である。
「魯公は、せっかちなお方だ。早く玉璽を持って来させないと、あなた方が叱られてしまいますぞ」
これを聞いた丁公と雍歯は、陳平が言うのなら、ということで、張良を通した。
門外に出た張良は、待っていた護衛部隊の中に入って呼びかける。
「樊噲! 樊噲殿はおられるか」
すぐさま樊噲が駆け寄ってきた。その表情は険しい。一人で宴会場に入った劉邦の身を、深く心配しているのである。
「おう、張良先生! 兄貴は無事ですか」
張良は、樊噲に口を寄せて、ささやいた。
「今のところはね。
だが今、項荘という男が剣舞をしながら、隙を見て沛公を刺そうと狙っている。もう一刻の猶予もない。
御辺は、申蒯という男が荘公を救った逸話をご存知か? 敵軍に追い詰められた荘公を逃がすため、申蒯は戦い抜いて死んでしまったのだ。
忠義とは、自分自身の利益を顧みぬこと。勇気とは、義のために命を惜しまぬ心。
この鴻門の会で、沛公は危機に陥っている。御辺が命を捨てて救わなければ、沛公が助かる見込みは千に一つも有りますまい。
もしここで沛公を助け出せなければ、御辺は千年先の未来で、申蒯と比較されて恥をかくことになるでしょう」
樊噲は、ニッ、と口元に笑みを浮かべた。
「先生、そんな脅しは無用だよ。喜んで申蒯の忠義に倣うぜ! ここぞというとき危険に飛び込めないような奴ァ男じゃねえっ!」
そう叫んで、樊噲は、いきなり宴会場の門に向けて駆け出した。
その腕を、張良が掴んで止める。
「ちょっと待ちなさい。まず私が入ります。あなたは少し遅れて来なさい」
張良は、門の中へ入ろうとした。
門番の丁公と雍歯がまた問いかける。
「伝国の玉璽を取ってきたのか」
張良は、衣の袖を抱え持ち、いかにも重たい物が入っているかのように見せかけた。
「はい。玉璽は、ここに」
うまく丁公と雍歯を欺いた張良は、門を走り抜けて元の宴席へ戻った。
項荘と項伯の剣舞は、今なお続いていた。劉邦も……まだ生きている。
「ここからが正念場だ。頼むぞ、樊噲殿」
*
張良が宴会場に戻るのを見送り、言われた通りに少し待ってから、樊噲は駆け出した。
鉄の盾を脇に挟み、腰帯に剣を提げ、宴会場の門前まで来て大音声を響かせる。
「今日、鴻門の会に来た我ら従者は、早朝からずっと外で待っているのに、まだ一滴の酒すら賜っておらん! 俺が自ら魯公項羽に会って、酒をもらってくる!」
こう一方的に言い放ち、ずかずかと門に踏み込む樊噲。
当然、門番の丁公と雍歯は、
「曲者だ! 通すな!」
と、すぐさま門を閉ざした。
しかし樊噲、この妨害をものともせずに、閉じた扉に飛びついて、
「ぬおおおおぉぉぉぁーッ!」
気迫の雄叫びあげながら、渾身の力で扉を押した。
なんたる剛力か! たちまち扉は押し倒されて、向こう側にいた門番の兵が、数え切れぬほど下敷きとなって圧殺されてしまった。
唖然とする楚兵たちの前で、樊噲は一気に駆け抜け、天幕を剣でめくり上げ、宴会場に踏みこんだ。
宴会場にいた項羽らは、突然の乱入者に驚いた。
樊噲は、ずかずか項羽の前に近寄って、怒れる眼を鋭く裂き、天を貫くかの如く頭髪を逆立て、剣を提げ、盾を床に突き、鬼神のように立った。
その迫力に、さすがの項羽すら圧倒された。
「この壮士は、一体誰だ?」
張良が立ち上がった。
「沛公の驂乗(貴人と同じ馬車に乗る従者)、樊噲という者です」
項羽が言う。
「その樊噲が、何の用で来た?」
樊噲が、さらに一歩、項羽へ詰め寄った。
「聞きましたぞ。今日は、秦が滅びた祝いの酒宴。魯公は身分の上下の区別なく、みなに酒を賜うと。
しかし、この樊噲、早朝から門外にいて、もう午の刻(昼12時)になるというのに、結局、一滴の酒も貰っていない。
腹が減って、喉が渇いて、もう耐えられん! だから魯公に直接酒を要求しようと思って来たのだ」
「ふん。じゃあ飲ませてやる」
項羽は、左右の臣に命じ、1斗(約2リットル)も入る大盃で樊噲に酒を賜った。
樊噲は盃を受けとるや、この量の酒を、一飲みに飲み尽くした。
さらに項羽は、大きな豚の肉をも樊噲に賜った。
樊噲は、不敵にも剣で豚肉を切り、吸い込むように胃袋へ収めてしまった。
項羽は興を惹かれ、身を乗り出した。
「おーっ! すごい食いっぷりだな。
お前、もっと飲めるか?」
樊噲が力強く鼻息を吹く。
「俺は死すら恐れない。たかが酒ていどのことを、なんで辞退しようか」
項羽が尋ねる。
「死だと? なにか死ぬような危険があるか?」
樊噲が答えた。
「秦の王は、虎狼の如き心を持ち、やたらに人を殺したから、天下はみな反乱した。
それゆえ、楚の懐王様や諸侯と約束して、『先に秦を破って咸陽に入った者を王とする』と決めたはずだ。
結局、先に咸陽へ入ったのは、沛公劉邦だった。多くの苦難を乗り越えて、大きな功績を打ち立てたのです。
それなのに、沛公は少しも財宝を奪い取らず、婦女に手を出すこともなく、軍を霸上に引き返させて、ひたすら魯公が来るのを待っていたのですぞ。
これほど功績のある人を、爵位に封じて報いるどころか、つまらない小人の讒言を信じて殺そうとしている。
これでは、滅びた秦の悪を受け継ぐようなものだ。
他ならぬ魯公様のために、この行いには賛成しかねる!
今、項荘と項伯の二人が剣舞をしているが、その狙いが沛公劉邦の命にあることは明白。
それがしが処刑されることまで覚悟の上で宴会場に踏みこんだのは、まず飢えと渇きのため。そして、以上の理を申し述べて沛公を守るためだ!
これが『死を恐れぬ』という言葉の意味だ!」
樊噲は爛々と目を怒らせ、一息に、まくしたてた。
ここまで策士たちが影でゴソゴソと蠢いてきた、その駆けひき全てを吹っ飛ばすかのような、あけすけで、まっすぐで、豪快極まる直訴。
その痛快さに、項羽は声高に笑いだした。
「あっはははは! なるほど、お前の言うとおりだ!
沛公は、いい部下を持っているなあ。これぞまさしく天下の壮士だ!」
項羽は、真実、好きなのである。樊噲のような男……飾らず、衒わず、忠義を尽くす、まっすぐな性質の豪傑が。
項羽は機嫌よく笑みを浮かべたまま、突然、頭をグラつかせて、机に突っ伏した。
そのまま項羽は、イビキをかきはじめた。
陳平が、さりげなく飲ませ続けてきた大酒によって、ついに項羽は酔い潰れてしまったのだ。
そうこうするうちに楽曲の演奏も終わり、項荘は、とうとう劉邦を殺す機会を得られぬまま剣舞を終えることになった。
主人の項羽も潰れ、演奏も止み、なんとなく座に白けた空気が漂う中、劉邦は厠に行くフリをして席を立った。
劉邦が門のところまで来ると、門番の丁公と雍歯が、またしても劉邦を止めた。
しかし、これを予期していた張良が駆けつけてきて言った。
「魯公項羽様のご命令です。『諸侯がみんな酒に酔ってしまったので、門を開いてお帰りいただけ』と」
丁公と雍歯が、疑って顔を見合わせていると、そこへ陳平も現れた。
「張良殿の言うとおりだ。お二方、早く門をお開きください」
味方の陳平までがこう言うので、丁公と雍歯は、すっかり信用して門を開いた。
ついに鴻門の陣を抜け出した劉邦は、靳歙、紀信、夏侯嬰らと合流し、大急ぎで逃げだした。
そして、山際の細道をたどり、無事に霸上の陣へ帰還したのだった。
*
このとき、鴻門の陣の後方に、立ち尽くす軍師范増の姿があった。
范増は、項羽が酔い潰れ、項荘の剣舞も終わってしまった段階で、すべての計略が潰えたことを悟り、失意のもとに席を立っていたのである。
だから范増は、劉邦が逃げたところも、張良や陳平がそれを助けていたところも、見ていない。また、見る必要もない。
「事ここに至っては、どうせ、なるようにしかならん。
我が計は破れた。すべては終わったのだ……」
目を閉じれば、酔い潰れた項羽の顔が、まぶたに浮かぶ。
酒で顔面を真っ赤に染めて、なんとも幸せそうに寝息をたてる、あどけなくすらある、あの寝顔……
范増は天を見上げ、大きく、大きく、苦い息を吐き出した。
(つづく)
■次回予告■
多くの仲間の助けによって、どうにか危機を乗り越えた劉邦。しかし争いはまだ終わらない。明日の謀略に対抗すべく、知恵者張良は早くも次なる手を打った。
張良の手のひらで踊る項羽。次第次第に頑なさを増していく若き英雄に、老軍師范増の怒りが爆発する。
次回「龍虎戦記」第十八回
『竪子、ともに謀るに足らず!』
乞う、ご期待!