龍虎戦記 項羽vs劉邦【翻案・通俗漢楚軍談】   作:外清内ダク

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十八の上 竪子、ともに謀るに足らず!

 

 

 劉邦を抹殺(まっさつ)すべく開催された、鴻門(こうもん)の会。

 この窮地(きゅうち)から、なんとか劉邦一行は脱出した。

 

 しかし、ただ一人、軍師張良だけは鴻門(こうもん)の陣に留まった。彼にはまだ、やらねばならない後始末が残っていたのである。

 

 さて、張良が宴会場に戻ろうとすると、誰のものとも分からぬ歌声が聞こえてきた。

 陣の後ろの方で、誰かが(げき)(槍のような武器)を(はじ)いて音を出し、それに合わせて歌っているようだ。

 

 その歌詞に(いわ)く――

 

 

  飢熊下山

  掲石見蟻

  呑之入喉

  不妨咳喇而出

  危乎哉 危乎哉

 

  ()えたる熊 山を(くだ)

  石を(かか)げて(あり)を見る

  (これ)()みて(のど)に入るも

  咳嗽(がいそう)して()だすを(さまた)げず

  (あや)ういかな (あや)ういかな

 

 

 張良は、この詩を聞いて顔色を変えた。

 ()えた熊は項羽。

 蟻は劉邦。

 熊が蟻を飲み込んだが、うっかり(せき)をした拍子に吐き出してしまった……

 この鴻門(こうもん)の会を巡る状況と、最終的な結末を、完全に把握していなければ作れない詩だ。

 

「この歌い手は、ただ者ではないな」

 張良は、歌声のする方を、ひそかに(うかが)い見た。

 

 そこに、一人の男が立っていた。

 顔の色は淡い黄白(おうはく)

 清々(すがすが)しく(さわ)やかな気――神気を全身から放っている。

 

 その男が、手に(げき)を持ち、周囲の人間すべてを嘲笑(あざわら)うような、なんとも嫌味な笑みを浮かべているのである。

 

 張良は、その男に近づいていった。

「貴公、お名前は?」

 

 しかしその男は名乗(なの)ろうとせず、さらに歌の続きを歌った。

 

 

  范老枉費心

  張良能識主

  今日脱鴻門

  多年鎮寰宇

 

  范老(はんろう)枉《いたずら》に心を費やし

  張良()(あるじ)()

  今日(こんにち)鴻門(こうもん)を脱して

  他年寰宇(かんう)(しず)めん

 

 

 男は歌い終わって立ち去った。

 

 張良は大いに驚いた。

「彼は絶世(ぜっせい)の賢士だ。どうにかして味方につけたい」

 だが、名前も分からなくては、どうしようもなく、その場は諦めるしかなかった。

 

 後日、張良はひそかに、この男のことを調べ上げた。

 彼の名は、韓信。

 

 かつて武信君(ぶしんくん)項梁(こうりょう)によって執戟郞(しつげきろう)に任命された……

 漂母(ひょうぼ)に食事を(めぐ)んでもらった……

 あの、『(また)くぐり』の韓信だったのである。

 

 

   *

 

 

 さて、それから小一時間が過ぎた頃。

 項羽は、少し酒も抜けたのか、うなりながら目を覚ました。

 宴会場を見回してみるが、劉邦の姿がない。

「ん? 沛公(はいこう)は、どこに行ったんだ?」

 

 張良が進み出て言った。

沛公(はいこう)劉邦は、いささか酒を()ごし、席についていることもできなくなりまして。

 さきほど項羽()()に、お暇乞(いとまご)いをいたしまして、霸上(はじょう)の陣へ帰りました。

 そこで、代理で大王様に今日の御恩(ごおん)への感謝を述べるよう、私を残して行かれたのです」

 

 項羽は、いきなり激怒した。さっきまでの上機嫌が嘘のような剣幕(けんまく)怒鳴(どな)りつける。

暇乞(いとまご)いだと!? 俺は、そんなの聞いてないぞ!

 劉邦は俺に挨拶(あいさつ)もせず、勝手に帰りやがったのか! 張良とか言ったな。貴様、なんで言葉を(かざ)って俺を(だま)そうとするんだ!」

 

 この(すさ)まじい怒りようを見て、喜んだのが范増(はんぞう)である。

 劉邦抹殺(まっさつ)の計略は、いったん失敗に終わった。しかし、項羽がその気になったなら、再び劉邦を追い詰められるかもしれない。

 

 范増(はんぞう)は項羽に耳打ちした。

「劉邦は、外見は柔弱(じゅうじゃく)に見せてかけていますが、内心には奸雄(かんゆう)の計略を持っているのです。

 私は三ヶ条の計を提案したが、項羽将軍は実行なさらなかった。だから劉邦は勝手に帰ってしまった。奴は君を(あなど)っているのだ!

 これ全て、(もと)はと言えば張良が糸を引いていること。こやつを信じてはなりませぬぞ」

 

 項羽は、ますます怒り、武士に(めい)じた。

「張良を斬って捨てろ!」

 

 しかし張良は眉を動かしもしない。冷静に言葉を重ねる。

「大王様、お怒りなさいますな。

 私は仮に沛公(はいこう)に従っている者。本来は(かん)国の宰相ですから、沛公(はいこう)は本当の主君ではありません。

 その私が、どうして沛公(はいこう)のために嘘までついて大王様を(だま)すでしょうか。

 

 今、大王様の威勢に天下は震えあがっているのです。大王を恐れぬ者、大王に服従しない者が、この世に()りましょうか?

 大王様が沛公(はいこう)を殺すおつもりなら、手のひらを裏返すよりも簡単なはず。それなのになぜ、酒宴(しゅえん)を口実にして、(だま)して殺そうなどとなさるのですか。

 

 人を殺すとき、正々堂々とやらずに卑怯な手段を使うのは、良計ではありません。天下の人がこの話を聞いたら、『魯公(ろこう)は、沛公(はいこう)に勝てないから、鴻門(こうもん)で宴会すると(いつわ)り、だしぬいて殺したのだ』と考えるでしょう。

 そうしたら、たとえ天下を手に入れなさっても、名分(めいぶん)を正しくすることも、道理を通すこともできず、千年に渡って笑いものとなるでしょう。

 

 どうか怒りを収めて、私を霸上(はじょう)の陣にお返しください。そうすれば、伝国の玉璽(ぎょくじ)、そして(しん)の貴重な宝物の数々をお持ちして、大王様に献上いたしましょう。

 大王様が玉璽(ぎょくじ)を得て王位につき、天下の主となりなさったら、名分も立ち、道理も通り、近辺の国も遠方の国も、みな服従いたします。

 

 逆に、ここで私を殺しなさったら、沛公(はいこう)は恐れて他国に逃亡します。玉璽(ぎょくじ)は他人の手に渡るか、あるいは破壊されて失われるか……

 いずれにせよ、大王様にとって大きな誤りとなるでしょうね」

 

 これを聞いて、またしても項羽はコロッと考えを変えた。張良を許し、怒りを止めて言う。

「張良の言うことには一理あるな。もしこの言葉を受け入れなかったら、天下の人は俺の臆病さを笑うだろう。

 

 戦いはすでに終わって、四海(世界)すべてが俺に服従しているのだ。劉邦なんかは、そこらへんの雑草みたいなものだ。俺に対抗できるわけがない。

 范増(はんぞう)の言うことに従っていたら、とんでもない間違いを犯すところだった。

 

 張良、お前は早く霸上(はじょう)に帰り、玉璽(ぎょくじ)を取ってこい。

 もし俺の命令に(そむ)いたら、百万の兵を率いて、霸上(はじょう)の陣を微塵(みじん)にしてやるぞ!」

 

 

   *

 

 

 なにもかも張良の計算通り。

 張良は、項羽の性格や思考の癖を、完全に掌握(しょうあく)している。張良の(たく)みな話術によって、項羽は、思うがままに操作されてしまったのである。

 

 張良は項羽に拝謝し、霸上(はじょう)に駆け戻った。

 

 張良が項羽とのやりとりを報告すると、劉邦は大喜びした。

「先生の計略が無かったら、俺は千に一つも生き残れなかったよ!」

 

 そして劉邦は、裏切り者の左司馬(さしば)(そう)無傷(むしょう)を引き出し、首を()ねた。

 

 (そう)無傷(むしょう)の処刑が済んだところで、張良が言った。

「項羽は、我が君が挨拶(あいさつ)せずに帰ったことを怒り、『討伐(とうばつ)してやる』とまで言いだしました。

 その怒りを止めるため、『(しん)玉璽(ぎょくじ)と貴重な宝を献上する』と約束してきました。

 これを与えてやらなければ、また君の命は(あや)うくなりましょう」

 

 劉邦は顔を(くも)らせる。

玉璽(ぎょくじ)ってのは、伝国の宝なんだぞ?」

 

 張良は、うなずく。

「知っています」

 

「項羽に渡したら、まずいんじゃない?」

 

 張良は、薄く笑った。

「天下を(つか)むために必要なものは、徳です。宝ではありません。

 たとえ玉璽(ぎょくじ)があっても、徳がなければ諸侯や人民は従わない。逆に徳があれば、玉璽(ぎょくじ)など無くても人々は君を(した)うでしょう。

 

 もし玉璽(ぎょくじ)()しんで項羽に渡さなければ、必ず合戦になります。そうすれば、項羽に敗れて捕虜とされることは確実です。

 一方、項羽の要求どおりに私が玉璽(ぎょくじ)を持っていけば、項羽は大いに喜んで、遠い未来を見すえた范増(はんぞう)の計略など忘れてしまうでしょう。

 

 その後、ゆっくりと時間をかけて、天下を(つか)む計画を動かしていけばいいのです。まあ、そのあたりのことは私にお任せください。

 これはいわゆる、『小を捨てて大を取る』というやつですね」

 

 劉邦は納得し、玉璽(ぎょくじ)を項羽に渡すことを決心した。

 

 

(つづく)




●注釈
 韓信の歌は、「通俗漢楚軍談」では、次のようになっている。
『飢熊山を下る
 石を揭げて蟻を見る
 之を呑んで喉に入り
 咳嗽して出るを妨げず
 危ふいかな 危ふいかな
 范老空しく心を費し
 張良よく主を識る
 今日鴻門を脱して
 他年寰宇を鎮せん』
 本文では「西漢通俗演義」の原文を引用し、外清内ダクによる書き下し文を添えた。両者に意味上の差異はほとんど無いと思うが、書き下し文のみを読んでも現代日本の読者に意味が取りやすいよう心がけたつもりである。
 なお、現代語訳は以下のようになる。
()えた熊が山を下り
 石を持ち上げて蟻を見る
 それを飲んで(のど)にいれたが
 (せき)した拍子に逃げられることは防げなかった
 危ないなあ 危ないなあ
 范増(はんぞう)老人は無駄に心を浪費して
 張良は自分の(あるじ)をよく知っている
 今日、鴻門(こうもん)から脱出し
 いつか天下を治めるだろう』
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