劉邦を抹殺すべく開催された、鴻門の会。
この窮地から、なんとか劉邦一行は脱出した。
しかし、ただ一人、軍師張良だけは鴻門の陣に留まった。彼にはまだ、やらねばならない後始末が残っていたのである。
さて、張良が宴会場に戻ろうとすると、誰のものとも分からぬ歌声が聞こえてきた。
陣の後ろの方で、誰かが戟(槍のような武器)を弾いて音を出し、それに合わせて歌っているようだ。
その歌詞に曰く――
飢熊下山
掲石見蟻
呑之入喉
不妨咳喇而出
危乎哉 危乎哉
飢えたる熊 山を下り
石を掲げて蟻を見る
之を呑みて喉に入るも
咳嗽して出だすを妨げず
危ういかな 危ういかな
張良は、この詩を聞いて顔色を変えた。
飢えた熊は項羽。
蟻は劉邦。
熊が蟻を飲み込んだが、うっかり咳をした拍子に吐き出してしまった……
この鴻門の会を巡る状況と、最終的な結末を、完全に把握していなければ作れない詩だ。
「この歌い手は、ただ者ではないな」
張良は、歌声のする方を、ひそかに窺い見た。
そこに、一人の男が立っていた。
顔の色は淡い黄白。
清々しく爽やかな気――神気を全身から放っている。
その男が、手に戟を持ち、周囲の人間すべてを嘲笑うような、なんとも嫌味な笑みを浮かべているのである。
張良は、その男に近づいていった。
「貴公、お名前は?」
しかしその男は名乗ろうとせず、さらに歌の続きを歌った。
范老枉費心
張良能識主
今日脱鴻門
多年鎮寰宇
范老枉《いたずら》に心を費やし
張良能く主を識る
今日鴻門を脱して
他年寰宇を鎮めん
男は歌い終わって立ち去った。
張良は大いに驚いた。
「彼は絶世の賢士だ。どうにかして味方につけたい」
だが、名前も分からなくては、どうしようもなく、その場は諦めるしかなかった。
後日、張良はひそかに、この男のことを調べ上げた。
彼の名は、韓信。
かつて武信君項梁によって執戟郞に任命された……
漂母に食事を恵んでもらった……
あの、『股くぐり』の韓信だったのである。
*
さて、それから小一時間が過ぎた頃。
項羽は、少し酒も抜けたのか、うなりながら目を覚ました。
宴会場を見回してみるが、劉邦の姿がない。
「ん? 沛公は、どこに行ったんだ?」
張良が進み出て言った。
「沛公劉邦は、いささか酒を過ごし、席についていることもできなくなりまして。
さきほど項羽大王に、お暇乞いをいたしまして、霸上の陣へ帰りました。
そこで、代理で大王様に今日の御恩への感謝を述べるよう、私を残して行かれたのです」
項羽は、いきなり激怒した。さっきまでの上機嫌が嘘のような剣幕で怒鳴りつける。
「暇乞いだと!? 俺は、そんなの聞いてないぞ!
劉邦は俺に挨拶もせず、勝手に帰りやがったのか! 張良とか言ったな。貴様、なんで言葉を飾って俺を騙そうとするんだ!」
この凄まじい怒りようを見て、喜んだのが范増である。
劉邦抹殺の計略は、いったん失敗に終わった。しかし、項羽がその気になったなら、再び劉邦を追い詰められるかもしれない。
范増は項羽に耳打ちした。
「劉邦は、外見は柔弱に見せてかけていますが、内心には奸雄の計略を持っているのです。
私は三ヶ条の計を提案したが、項羽将軍は実行なさらなかった。だから劉邦は勝手に帰ってしまった。奴は君を侮っているのだ!
これ全て、元はと言えば張良が糸を引いていること。こやつを信じてはなりませぬぞ」
項羽は、ますます怒り、武士に命じた。
「張良を斬って捨てろ!」
しかし張良は眉を動かしもしない。冷静に言葉を重ねる。
「大王様、お怒りなさいますな。
私は仮に沛公に従っている者。本来は韓国の宰相ですから、沛公は本当の主君ではありません。
その私が、どうして沛公のために嘘までついて大王様を騙すでしょうか。
今、大王様の威勢に天下は震えあがっているのです。大王を恐れぬ者、大王に服従しない者が、この世に居りましょうか?
大王様が沛公を殺すおつもりなら、手のひらを裏返すよりも簡単なはず。それなのになぜ、酒宴を口実にして、騙して殺そうなどとなさるのですか。
人を殺すとき、正々堂々とやらずに卑怯な手段を使うのは、良計ではありません。天下の人がこの話を聞いたら、『魯公は、沛公に勝てないから、鴻門で宴会すると偽り、だしぬいて殺したのだ』と考えるでしょう。
そうしたら、たとえ天下を手に入れなさっても、名分を正しくすることも、道理を通すこともできず、千年に渡って笑いものとなるでしょう。
どうか怒りを収めて、私を霸上の陣にお返しください。そうすれば、伝国の玉璽、そして秦の貴重な宝物の数々をお持ちして、大王様に献上いたしましょう。
大王様が玉璽を得て王位につき、天下の主となりなさったら、名分も立ち、道理も通り、近辺の国も遠方の国も、みな服従いたします。
逆に、ここで私を殺しなさったら、沛公は恐れて他国に逃亡します。玉璽は他人の手に渡るか、あるいは破壊されて失われるか……
いずれにせよ、大王様にとって大きな誤りとなるでしょうね」
これを聞いて、またしても項羽はコロッと考えを変えた。張良を許し、怒りを止めて言う。
「張良の言うことには一理あるな。もしこの言葉を受け入れなかったら、天下の人は俺の臆病さを笑うだろう。
戦いはすでに終わって、四海(世界)すべてが俺に服従しているのだ。劉邦なんかは、そこらへんの雑草みたいなものだ。俺に対抗できるわけがない。
范増の言うことに従っていたら、とんでもない間違いを犯すところだった。
張良、お前は早く霸上に帰り、玉璽を取ってこい。
もし俺の命令に背いたら、百万の兵を率いて、霸上の陣を微塵にしてやるぞ!」
*
なにもかも張良の計算通り。
張良は、項羽の性格や思考の癖を、完全に掌握している。張良の巧みな話術によって、項羽は、思うがままに操作されてしまったのである。
張良は項羽に拝謝し、霸上に駆け戻った。
張良が項羽とのやりとりを報告すると、劉邦は大喜びした。
「先生の計略が無かったら、俺は千に一つも生き残れなかったよ!」
そして劉邦は、裏切り者の左司馬曹無傷を引き出し、首を刎ねた。
曹無傷の処刑が済んだところで、張良が言った。
「項羽は、我が君が挨拶せずに帰ったことを怒り、『討伐してやる』とまで言いだしました。
その怒りを止めるため、『秦の玉璽と貴重な宝を献上する』と約束してきました。
これを与えてやらなければ、また君の命は危うくなりましょう」
劉邦は顔を曇らせる。
「玉璽ってのは、伝国の宝なんだぞ?」
張良は、うなずく。
「知っています」
「項羽に渡したら、まずいんじゃない?」
張良は、薄く笑った。
「天下を掴むために必要なものは、徳です。宝ではありません。
たとえ玉璽があっても、徳がなければ諸侯や人民は従わない。逆に徳があれば、玉璽など無くても人々は君を慕うでしょう。
もし玉璽を惜しんで項羽に渡さなければ、必ず合戦になります。そうすれば、項羽に敗れて捕虜とされることは確実です。
一方、項羽の要求どおりに私が玉璽を持っていけば、項羽は大いに喜んで、遠い未来を見すえた范増の計略など忘れてしまうでしょう。
その後、ゆっくりと時間をかけて、天下を掴む計画を動かしていけばいいのです。まあ、そのあたりのことは私にお任せください。
これはいわゆる、『小を捨てて大を取る』というやつですね」
劉邦は納得し、玉璽を項羽に渡すことを決心した。
(つづく)