龍虎戦記 項羽vs劉邦【翻案・通俗漢楚軍談】   作:外清内ダク

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巻四 覇王、項羽
十九の上 覇王、項羽


 

 

 張良の(たく)みな弁舌(べんぜつ)にすっかり(だま)されてしまった項羽は、沛公(はいこう)劉邦への殺意を完全に()くした。そればかりか、張良を陣に留まらせ、自分の手下として用いることにしてしまった。

 范増(はんぞう)は言葉を尽くして苦い諌言(かんげん)を重ねたが、項羽の心が動くことはなかった。

 

 とはいえ、表面上、何の問題も起きていないことは事実。

 范増(はんぞう)の心配をよそに、項羽の威風は、ますます強烈になっていく。

 

 それからしばらく()ったある日。項羽は大将たちに召集をかけて、こう言った。

 

「関中は制圧したし、玉璽(ぎょくじ)も俺の手にある。

 しかし、(しん)王の子嬰(しえい)が、いまだに俺の所に来ない。

 劉邦に書簡(しょかん)を送り、はやく子嬰(しえい)を送ってくるように言おう。(しん)王の首を()ねれば、晴れて天下は俺のものになる」

 

 

   *

 

 

 項羽からの使者は、すぐさま劉邦のいる霸上(はじょう)の陣へと飛んだ。

 届けられた書簡(しょかん)を、劉邦が紐解(ひもと)いてみると……

 

『私は貴公とともに暴(しん)討伐(とうばつ)し、人民の塗炭(とたん)の苦しみを(はら)いのけた。

 しかし、私が関中に入ってから10ヶ月あまりが()つというのに、(しん)三世の子嬰(しえい)が、いまだに私の元に来ていない。

 

 貴公が子嬰(しえい)()()しみして、一人占(ひとりじ)めにしているのだろう!

 

 そちらが何か(たくら)むつもりなら、こちらは大軍を出して貴公と武勇を(きそ)いあってやる。

 さあ劉邦、どうする?』

 

 読み終えた劉邦は、がっくりと肩を落とした。

「やっぱり項羽は、懐王(かいおう)様との約束を破って、自分が関中の王になるつもりなんだ。

 だから子嬰(しえい)を送ってくるよう要求してるんだ。批判する諸侯を黙らせるために、『子嬰(しえい)を最終的に処罰したのは自分だぞ』って体裁を整えたがってるんだよ。

 

 この要求を拒否したら、たぶん合戦になる。でも要求を飲んだら、懐王(かいおう)様との約束は反故(ほご)にされてしまう。

 なあ、みんな、一体どうしたらいい?」

 

 大将たちは、一様(いちよう)に口を(そろ)えた。

「項羽の勢力は大きく、我々の力では(かな)いません。

 ここは、子嬰(しえい)を引き渡すしかないでしょう。項羽がもし子嬰(しえい)を殺したら、項羽の悪は天下に知れ渡りますし、逆に、君の徳はますます称賛されることになります」

 

 劉邦は、この意見に従って、子嬰(しえい)を呼んだ。

子嬰(しえい)殿。あなたが降伏してきたとき、俺ァ言いましたね。どこか一国を領土として差し上げて、天寿を(まっと)うできるようにしてあげよう、と……

 俺は、あなたが気の毒で。できることなら誅殺(ちゅうさつ)したくないと思ってたんです。

 

 でも、予想だにしなかった事態になっちまいました。

 項羽が武力に(たの)んで懐王(かいおう)様との約束を無視し、関中の王になろうとして……今日、あなたの身柄(みがら)を要求してきたんです。

 

 助けてあげると()けあった手前、本当に心苦しいんだが……

 俺にはもう、あなたを守りきることができません。

 

 こうなったら、項羽の所へ行ってもらうしかありません。

 でも、まだ助かる望みはあります! いいですか、(しん)の珍宝をたくさん持っていって、項羽に献上するんですよ。項羽の貪欲(どんよく)さや殺し好きの心を、宝物で(なぐさ)めるんです。

 そうしたら、項羽が喜んで、命だけは助かるかもしれない」

 

 これを聞いた子嬰(しえい)は、悲しみに(むせ)び泣いた。

「私は、沛公(はいこう)に降伏したからこそ、今まで生きのびることができたのです。

 魯公(ろこう)項羽の手に渡れば、もはや(いのち)(まっと)うすることはできないでしょう」

 

 子嬰(しえい)のそばに仕えていた(しん)の老王族たちも、そろって地に拝伏した。

沛公(はいこう)、あなたは徳のあるお(かた)です。心が広く、優しく、人を愛しておられる。あなたの元を離れて、いったいどこへ行けばよいというのです?」

 

 悲痛に(うった)える(しん)の王族たちから、劉邦は思わず顔を(そむ)けた。

 「死にに行け」と言っているに等しいということは、当の劉邦が一番よく分かっていたのだ。

 

 劉邦は、(のど)の奥から声を(しぼ)りだした。

「項羽の武勇は天下無敵だ……命令に反した者は、たちまち殺される。みんな、はやく行くんだ。今は他に道がない……」

 

 老王族たちは、声をそろえて叫ぶ。

「行くまい、行くまい!

 項羽の所へ行くくらいなら、どこへでもいい、とにかくどこかへ逃げ走って、生きながらえよう!」

 

 しかし、子嬰(しえい)が、涙を流しながら彼らを止めた。

「それはいかぬ!

 私が逃げたら、項羽は怒りの矛先(ほこさき)(しん)の民衆に向けるだろう。(みやこ)咸陽(かんよう)の民は、ことごとく殺される。

 私が王位についていた期間は、ほんの数十日に過ぎない。私は民に何の恩恵(おんけい)(ほどこ)してやれなかった。そのうえ今、自分が助かろうとして民に害を与えるなど……そんなこと、とても我慢(がまん)ならない」

 

 

   *

 

 

 かくして、(しん)子嬰(しえい)は、劉邦の陣から出発した。

 

 しばらく進んだところで、前方に軍勢の姿が見え始めた。

 錚々(そうそう)たる武士数十万が雲霞(うんか)の如く列をなし、刀や槍は凛々(りんりん)(しも)の如くに並び立つ。

 殺気が天を(おお)う中、名馬烏騅(うすい)(またが)り先頭に立って進んでくるのは、言わずとしれた魯公(ろこう)項羽。

 

 その堂々たる姿に対して、子嬰(しえい)の投降する姿は、悲惨(ひさん)極まりないものだった。

 頭には白い練絹(ねりぎぬ)(まと)い、みずから体を縄で縛らせ、口には嘆願(たんがん)状をくわえ、地面の上に(ひざ)をついて、項羽へ拝伏していたのだ。

 

 項羽は、子嬰(しえい)嘆願(たんがん)状をくわえているのを見ると、それを読み上げるよう部下に(めい)じた。

 

 その内容は、以下のようなものだった。

 

『始皇帝の孫にして扶蘇(ふそ)の子である(しん)三世、子嬰(しえい)上言(じょうげん)いたします。

 

 (しん)が持っていた天子の(くらい)はすでに途絶(とだ)え、我ら(えい)一族は守りを失いました。もはや、7つの(びょう)で祖先を(まつ)ることはできません。(7つの(びょう)(まつ)るのは天子の特権)

 

 四海(世界)は塗炭(とたん)の苦しみに(おちい)り、そのために(しん)は人々からの支持を失って、ついに瓦解(がかい)に至りました。

 

 項羽大王の玉節(ぎょくせつ)(王の使者の身分証)が西を指したため、六国はそれに従って(しん)の地に攻め込みました。

 項羽大王が黄鉞(こうえつ)(天子の象徴)を手にして見下ろしなさったので、我らの軍はたちまちその支配下に入ったのです。

 

 しかし、大王様が「事を急がぬように」と(めい)(くだ)し、その神武によって不殺の恩を我々に恵んでくださいましたから、今、この(いのち)は繋がっております。

 

 もはや、王の地位を保って天子としての祭祀(さいし)を続けていきたいとは思いません。この私、(えい)の望みは、祖先の墓を守りながら生きのびること。ただそれだけなのです。

 たとえ100日でも生きながらえることができたなら、我が一族は(みな)生まれ変わったかのように喜び、再び日を見る喜びに深く感謝いたすでしょう。

 

 どうか我々に生きる機会をお与えください。

 そうすれば、肝胆(かんたん)を尽くして大王様に忠誠を誓います。

 

 (しゅう)王朝は、各地の王族をそれぞれの領地に(ほう)じて安堵(あんど)したため、(しゅう)王族の()氏は長く絶えることなく権威を保ちました。

 (いん)王朝の開祖湯王(とうおう)は、その前の()王朝の王族を存続させたため、600年に渡って(さか)えました。

 (しゅう)の開祖武王(ぶおう)もまた、(いん)の王族を保護したため800年続く王朝の基盤を作ることができました。

 

 今、大王様は(いん)(しゅう)と同様に、この関中で王になろうとしておられます。

 どうか、これらの先例に(なら)って、(しん)の血統を存続させ、()の子孫繁栄を成しとげてくださいませ。

 

 大王様の(しん)であるこの子嬰(しえい)は、ただただ戦慄(せんりつ)し、恐懼(きょうく)するばかりです』

 

 項羽は冷たく目を細めて、子嬰(しえい)を馬上から見下(みお)ろした。

「貴様の祖父の始皇帝は、六国の王族を捕らえ、天下の百姓に害をおよぼし、負の遺産を貴様に残した。そんな(さか)しらなことを俺に言えた立場か?」

 

 子嬰(しえい)は答える。

「六国を滅ぼしたのは先祖の始皇帝です。私の罪ではありません。

 とはいえ、誰かが責任を取らねば収まらないのもまた事実。項羽大王が私を殺しなさっても、私は少しも(うら)みません。

 

 しかし咸陽(かんよう)の民衆は、二世皇帝の残虐暴虐のため1日も心の休まらない暮らしをしてきた、被害者です。

 (さいわ)いにも大王様が関中に入ったため、民は再び陽の光を浴びられるようになったところなのです。

 

 どうか、私を殺して天下の(うら)みを(そそ)ぎ、それで終わりにしてくださいませ。残された民には危害を加えず、安心して暮らせるよう(はか)らってくださいませ。

 そうなれば、たとえこの肉体が滅びようとも、私の思いは生き続けるでしょう」

 

 なんたる悲壮な覚悟であろうか。

 だが、子嬰(しえい)が思いのたけを()べ終わるより早く、項羽は英布に命令した。

 

「殺せ」

 

 

(つづく)

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