英布は剣を抜き、即座に子嬰を刺し殺した。
その途端、であった。
にわかに天が、ざわめき始めた。
先ほどまで晴れていたはずの天に、突如、不吉な気配を漂わせた愁雲が満々と湧き起こり、地には、まとわりつくような黒霧《こくむ》が靄々と広がりだしたのだ。
冷たく不気味な空気の中で、子嬰の最期を見守っていた秦民衆の、哭き悲しむ声が天を動かし地を震わせた。
彼らは口々に泣き叫ぶ。
「沛公は徳のあるお方だ! 一万代に渡って君臨するだろう!
だが魯公には仁義がない! 一族滅亡し家系が途絶えるだろう!」
これを聞いて、項羽は激怒した。
「なんだと! 秦人どもめ! 皆殺しにしてやる!!」
軍師范増は大慌てで諌める。
「無用だ、無用! そんなことをしてはいけません!
劉邦は、関中に入ってから毛ほども罪を犯さず、法を三章に簡略化して深く民衆の心を懐かせました。
それに対して項羽大王、君はどうだ? 民に何の恩恵も与えないどころか、民から人気のある子嬰を殺したのですぞ。
このうえ咸陽の住民の虐殺などしてみなさい。人の心はたちまち離れ、反乱すら起きかねない。天下は手に入らなくなりますぞ!」
項羽が言う。
「俺は無道の秦に天誅を加えたんだ! 子嬰は秦の王だ! 生かしておけるわけないだろ!
そこにいる秦人どもは、声をそろえて俺を罵り辱めた! みんな謀反を狙ってるんだ! 皆殺しにしなかったら、後で大変なことになるぞ!」
范増が言う。
「昔、魯の君主が一人の罪なき宮女を殺した。すると魯国は、9年に渡る大旱魃に見舞われた。
また景公が怒って妃を殺した時には、とつぜん地が揺れ動き、3里(1.2km)に渡って地面が傾いてしまった。
罪もない人を殺せば、その魂は飛蝗(バッタ)と化して五穀を食い尽くし、極めて深刻な飢饉を引き起こすという。
古の人も、『一人の男が恨みを覚えたら、6ヶ月霜が飛ぶ。一人の女が怨みを抱いたら、3年間雨が降らない』と言っている。
このように、君主が正当な理由なく人を殺せば、それに対応して天災が起きるものなのです。いま愁雲や黒霧が起きたのも、罪無き子嬰を殺したから、上天が哀しみを表したのだ。
まして、多くの無実の人民を殺そうものなら、一体どんな災いが降りかかることか! 君は天意に逆らうことになりますぞ!」
范増は、ほとんど口論をしかけるような激しさで、項羽をひたすら諌め続けた。
項羽は、だんだん苛立ってきた。范増は口うるさいし、秦人の喚き叫び罵る声も一向に止まない。
ついに項羽は怒りを爆発させ、范増を強引に押しのけた。
「おい、英布!」
「はっ」
「秦の一族も、そこにいる秦の民衆も、全員殺せ!」
范増の顔から血の気が引いた。
「いかん……やめろ! よすんだ、項羽!」
だが項羽は止まらなかった。
命令を受けた英布は、言われるままに兵を動かし、虐殺に取りかかった。
振るわれる凶刃。天を引き裂く悲鳴の嵐。屍は累々と積み重なって丘を成し、血はとめどなく流れ流れて川となり、動く者の姿も途絶え、後には、むせかえるような血臭と沈黙のみが残された。
秦の一族800余人、ならびに民衆4600人あまり。皆殺しであった。
それでもなお項羽の怒気は収まらず、
「次は咸陽の住民を男も女も区別なく殺し尽くそう」
とまで言いだした。
范増は哭き、叫び、涙まで流し、項羽の馬の頭を叩きながら訴えた。
「昔、殷の湯王の時代に、長い旱魃が起きた。湯王は自分の体を生贄とし、桑林という地で祈りを捧げ、自分自身の不徳を責めた。すると、ついに大雨が降ったのだ。
このように、古の君主は民のために我が身を捧げた。
君のやっていることは、その真逆だ! 秦の民を罪もなく皆殺しになどしたら、天が怒らぬはずがない!」
老軍師范増が初めて見せた滂沱の涙に、さすがの項羽も心を動かされはじめた。
時間が経って、少しは気持ちも落ち着いてきた……
項羽は、不満げに唇を歪めながら、低くうなった。
「……分かった。皆殺しは、やめる……それでいいんだろ、先生」
*
子嬰を殺した項羽は、兵を率いて咸陽の都に入った。
秦の宮殿を見れば、見上げるほどの楼閣と、何層にも積み重なった御殿とが、互いに高さを競い合い、千の門と万の家々に黄金まで散りばめられている。
項羽は長々と溜め息をついた。
「秦の財力はこれほどのものだったのに、自分の国を守ることもできなかったのか。惜しいなあ、惜しいなあ」
范増が、独り言のように、つぶやく。
「それは、民衆を虐げ、人の諌言を聞かなかったせいだ」
項羽は、ぴたりと口を閉ざした。
ただ顔を背け、無言のまま馬を進めた……
その夜。
本陣へ帰ってきた項羽は、蝋燭に火を灯して、范増を呼んだ。
やってきた范増の目には、今なお涙の跡が染みついている。項羽は、そのことには一言も触れず、こう切りだした。
「俺は咸陽を取った。伝国の玉璽も得た。そして子嬰を殺して秦を完全に滅ぼした。
そろそろ頃合いだろう。一日たりとも天下から君主が欠けてはいけない。
今こそ俺が関中の王になろうと思う。先生、どう思う?」
范増は、淡々と答えた。
「我が軍の大将たちが身を捨てて項羽大王に従っているのは、諸侯に封じられて地位を子孫に伝え、富と権力を享受するためだ。
王者の権勢に取り入ろうとしているのだよ。龍に攀じ登るように、あるいは鳳凰にへばりつくように、な。
そういう大将たちの希望に、項羽大王の考えは、よく合っている。
しかし、項羽大王が義兵を起こしたとき、楚の懐王を主君として、その命を受けなさった。懐王を無視して勝手な行いをするのは、まずかろう。
まず本拠地彭城へ使者を送り、懐王の許しを得たうえで王の位につくのがよろしい。さすれば名分も立ち、道理も通り、人々の批判を避けられよう」
「うん。そうだな」
項羽は納得し、すぐに叔父項伯を使者として彭城へ向かわせた。
*
彭城にやってきた項伯は、項羽の意向を懐王に伝えた。
懐王は怒った。
「余は約束したのだぞ。『先に咸陽に入った者を王にする』と。
それを、今になってひっくり返すとは何事だ!」
項伯は再拝して言う。
「魯公項羽は功績が大きく、望みも重くございます。
一方、沛公劉邦は力が弱く、味方も少ない。
沛公では天下を治めきれませぬ。どうか、魯公を王として、関中を鎮めてくださいませ……」
懐王は、毅然として首を横に振った。
「信用は、人にとって最も大切な宝だ。
余は、すでに約束したのだ。今になって前言を撤回すれば、余は信用を失ってしまうだろう。
項伯。戻って項羽に伝えよ。『以前の約束を守れ』とな」
懐王の言うことは、まさに道理であった。
項伯は、自分のほうが無理押ししていることを、はっきりと自覚していた。それゆえ、これ以上はどうすることもできず、鴻門の陣へ虚しく帰っていった。
(つづく)