龍虎戦記 項羽vs劉邦【翻案・通俗漢楚軍談】   作:外清内ダク

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二十一の上 亜父の居ぬ間に

 

 

 漢王に(ほう)じられた劉邦は、すっかりしょげた様子で、とぼとぼ霸上(はじょう)の陣に戻ってきた。

 

 かくかくしかじか……と事情を聞いて、劉邦軍の大将たちが色めき立つ。

()(しょく)左遷(させん)の地だ!

 我が君は一番に関中へ入ったのだから、本来、咸陽(かんよう)を手に入れるはずだった。それなのに漢中なんていう僻地(へきち)左遷(させん)するのは、范増(はんぞう)の計略に違いない!

 

 こうなったら、みんなで力を合わせて項羽と戦い、懐王(かいおう)の約束を守らせよう!

 そうすれば、いつか故郷に帰ることもできる。とにかく、左遷(させん)先で老いさらばえていくなんて、まっぴらだ!」

 

 樊噲(はんかい)も鼻息荒く進み出た。

「みんなの言うことに俺も賛成だ。この俺が先陣を切って、気持ちよく項羽と戦ってやるぜ!」

 

 はじめは気落ちするばかりだった劉邦も、みんながこう()()()()()()いるのを見ているうちに、だんだん気持ちが変わってきた。

 「俺も怒っていいんじゃないか?」「怒ったほうがいい」「うん、怒ったぞ!」と、こうである。

 

 劉邦は、(こぶし)を突き上げ、怒声を発した。

「俺が関中王になって咸陽(かんよう)(みやこ)を置く、これは懐王(かいおう)様との約束だ! なのに左遷(させん)の地に(ほう)じるなんて許せねえぞ!

 だいたい()(しょく)の道なんか、(けわ)しい山が何重にも(かさ)なったひどい地形に、桟道(さんどう)断崖(だんがい)に作られた棚状の道)をかけて、どうにか通れるようにしてるっていうじゃないか。

 そんな不便な場所に住みたくないぞー!」

 

 しかし、蕭何(しょうか)がこれを(いさ)めた。

「我が君。落ちついてください。

 漢中が(ひど)い土地なのは確かですが、無駄死にするよりはマシでしょう?

 歴史上には、他人の支配に一度は屈しながら、後に天下万民の頂点に立った者もいる。(いん)湯王(とうおう)(しゅう)の武王がそれです。

 

 ここは我慢(がまん)のしどころです。漢中の王として民を養い(なつ)かせ、賢才(けんさい)のある人物を採用して()(しょく)から兵を起こし、いつか逆襲して章邯(しょうかん)たちの三秦(さんしん)を攻め取るのです。

 そうすれば、天下をも(つか)むことができるでしょう」

 

 張良も、この意見に大きく、うなずいた。

蕭何(しょうか)殿の(おっしゃ)る通りです。

 つけ加えますと、()(しょく)は確かに左遷(させん)の地ではありますが、国内には何重にも(かさ)なった山々があり、国境には(けわ)しい断崖(だんがい)絶壁(ぜっぺき)がある。

 この険阻(けんそ)な地形は、防御にたいへん有利です。仮に項羽が100万の軍勢を動員したとしても、攻め込むことは不可能でしょう。

 

 これまさに漢の国を(おこ)すに最適の地。軍勢を(やしな)うのにこれ以上の場所は考えられません。

 我が君。どうか怒りを収め、こころよく旅立って、早々(そうそう)に漢中へお入りください。

 

 それに、もし少しでも不満の心を表に出せば、項羽は必ずそれを口実にして我が君の殺害を狙ってきます。范増(はんぞう)は、我が君を殺すために日夜(にちや)計略を()っているのですよ。

 我が君は、そういう状況を知らずに、兵を動かして項羽と戦おうと(おっしゃ)っている。()(ぜい)は強大です。もし戦えば、味方は粉にされてしまいます」

 

 蕭何(しょうか)と張良の諌言(かんげん)を聞き、劉邦は腕を組んだ。

「そっか……先生たちの教えに従ったほうがいいような気がしてきた」

 

 そこへさらに酈生(れきせい)(たた)みかけた。

「私からも一言よろしいかな?

 我が君が漢中に行けば、3つの利があります。そしてこの咸陽(かんよう)に留まれば、逆に3つの害がある。

 1つずつ説明しましょう。

 

 まず漢中に行った場合。

 ()(しょく)の道は山や川が多くて(はなは)だ通行が困難です。それゆえ項羽側の人間が内情を探りにくくなる。これが1つ目の利です。

 次に、この(けわ)しい地形を利用して軍馬を鍛え、山登りや川越えの練習をさせられる。これが2つ目の利。

 そして、君が軍勢を率いて打って出るとき、手下の将兵はみんな故郷に帰れることを喜び、普段の10倍も力を尽くして進むでしょう。これが3つ目の利です。

 

 逆に咸陽(かんよう)に留まった場合。

 咸陽(かんよう)は味方の将兵の故郷豊沛(ほうはい)に近くはありますが、(かん)()と国境を接しているため、こちらの内情が外に()れやすくもなります。これが一つ目の害。

 筒抜(つつぬ)けになった情報は、当然、范増(はんぞう)の耳にも入る。後日、我らが軍勢を発して()を攻めようとするとき、范増(はんぞう)は手に入れた情報に基づいて的確に防御し、(すき)見出(みいだ)して襲ってくるに違いない。これが二つ目の害。

 そして、人の心は(うつ)ろいやすい。誰しも大を喜んで小を(あざけ)り、強を好んで弱を(あなど)るもの。項羽の勢力は大きく力は強うございますから、味方の中から()に寝返る者も現れるでしょう。そうなったら、君はますます助けを失うことになる。これが三つ目の害です。

 

 とまあ、このような利害があります。

 思うところは有りましょうが、ここはグッと耐え(しの)び、自分自身を(はげ)ましてくだされ。

 (たきぎ)()して(きも)()める、臥薪(がしん)嘗胆(しょうたん)の魂で行けば、いつか天下の王になることができましょう」

 

 蕭何(しょうか)、張良、酈生(れきせい)という劉邦配下きっての知恵者たちから異口(いく)同音(どうおん)(すす)められ、劉邦の覚悟は決まった。

「よし。漢中へ行こう! みんな、旅の支度(したく)に取りかかれ!」

 

 こうして、劉邦軍は忙しく動き始めた。

 

 

   *

 

 

 いみじくも張良が指摘した通り、亜父(あふ)范増(はんぞう)は、劉邦のことで日夜(にちや)頭を悩ませていた。

 その夜も、范増(はんぞう)は遅くまで(とこ)につかず、現在の状況について、じっと考えを巡らせていた。

 

「劉邦は、五行(ごぎょう)のうちの火徳(かとく)の人だ。旗印(はたじるし)も火のような赤。

 それに対して、漢中は西方。西は五行(ごぎょう)の金に対応する。

 五行(ごぎょう)の理論によれば、金は火を得て成就(じょうじゅ)するという。劉邦を漢中に入らせたら、やがて大事業をなしとげてしまうのではなかろうか?

 奴を漢王に(ほう)じたのは、失敗だったかもしれん……」

 

 范増(はんぞう)は立ち上がり、すぐに項羽の元へ向かった。

 急にやってきた范増(はんぞう)を見て、項羽が目を丸くする。

亜父(あふ)、どうしたんだ? こんな夜中に」

 

 范増(はんぞう)が言う。

「ちと気がかりな話を耳にしてな。

 どうやら劉邦は、漢王に(ほう)じられたことに大きな不満を覚えているらしい。

 劉邦手下の将軍たちは、みんな山東(さんとう)函谷関(かんこくかん)より東側の領域)の出身。故郷から遠く離れた漢中へ追いやられることに怒り、(うら)みを抱いて、『覇王は懐王(かいおう)との約束を破った』と(ののし)ったそうだ。

 これを放置しておけば、それこそ謀反(むほん)に繋がりかねない。

 いまこそ心を決めて劉邦を殺しなされ」

 

 項羽は頭を()いた。

「でも、俺はもう、劉邦を漢王に(ほう)じるって(みことのり)を出しちゃったぞ。

 これといって罪もないのに、どうやって殺せばいいんだ」

 

 范増(はんぞう)が言う。

「明日、劉邦が挨拶(あいさつ)に来たら、こう問いなされ。『私は貴公を漢中に(ほう)じた。貴公は、その地に行くか、行かないか』とな。

 劉邦が『行く』と答えたなら、それは許可を得ず自分勝手に動くことになる。逆に『行かない』と答えたなら、それは封賞(ほうしょう)に不満を示したということだ。

 このどちらかを罪にして殺せばよろしい」

 

「なるほど……」

 よくも色々な手を考えるものだ、と項羽は苦笑した。

 

 

   *

 

 

 翌日。

 漢王劉邦や、その他もろもろの諸侯が、項羽のもとへ挨拶(あいさつ)にやってきた。

 

 そこで項羽は、だしぬけに劉邦に問いかけた。

「劉邦よ。貴公を漢王に(ほう)じて()(しょく)(あるじ)としたな。貴公は、あの地へ行くのか、行かないのか」

 

 劉邦が、不思議そうに目を丸くする。

「え? はあ……

 あの、どうして『行くか行かないか』なんて、お(たず)ねになるんです?

 主君からの俸禄(ほうろく)を食らう以上、判断は主君の手に預けるもの。(たと)えて言うなら、私ァ覇王様の馬みたいなものです。鞭を入れてもらえれば行くし、(くつわ)を引いてくだされば止まる、と」

 

 これを聞いて、項羽は大笑いした。

「あっはっは! 劉邦、うまく(たと)えたなあ!」

 こうして項羽は、またしても劉邦を殺す気を()くしてしまった。

 

 なにがなんだか分からぬまま、劉邦は退出して霸上(はじょう)の本陣に戻ってきた。

 そこへ、張良が慌ててやってくる。

「我が君。今日、ご自分が死にかけたことを知っていますか」

 

 劉邦が青ざめる。

「えっ、知らん、何それ」

 

 張良が感心半分、あきれ半分の溜め息をつく。

「いやはや。我が君の強運は、まさに天の助けとしか思えませんね。

 さっき項羽が『行くか行かないか』と(たず)ねたのは、答えを聞いて我が君を殺すためですよ。

 

 『行く』と答えれば勝手な判断だと(とが)められ、『行かない』と答えれば封賞(ほうしょう)に不服を言ったと(とが)められる。

 あの土壇場(どたんば)を、よくも(たと)え話で乗り切りなさったものです」

 

 張良の説明を受けて、劉邦は初めて自分がどんな状況に置かれていたかを悟った。

 劉邦は、うろたえながら、張良の(そで)に、すがりついた。

「こんな調子で(しん)に長いこと留まっていたら、絶対いつか殺されるよ! どうやって逃げたらいい?」

 

 張良が、いつもの穏やかな微笑を浮かべた。

「項伯と陳平(ちんぺい)の2人は、項羽の部下ではありますが、こちらに心を寄せてくれています。私がこの2人と相談し、ひそかに計を巡らせましょう。

 君は、あらかじめ旅行の用意をしておいて、項羽の(めい)(くだ)ったら、すぐに出発してください」

 

 

   *

 

 

 その夜。

 張良は、ひそかに項伯と陳平(ちんぺい)を呼び寄せ、こう相談をもちかけた。

范増(はんぞう)が、ことあるごとに漢王様を殺そうとするので、漢王様は早く漢中へ逃げようと考えておられます。

 しかし、出発する口実がない。

 お二人ならば、きっと妙計(みょうけい)(よい考え)をお持ちでしょう。どうか助けていただきたい。漢王が自分の国に落ち着くことができたなら、決して今日の恩を忘れません」

 

「そうですな……」

 陳平(ちんぺい)は、やや長く思案した後、張良へ身を乗り出した。

「では、こういう策は、いかがでしょう」

 陳平(ちんぺい)が、張良の耳元に口を寄せ、何かをささやく。

 

 陳平(ちんぺい)の計を聞き終えると、張良は限りなく喜んだ。

「すばらしい。この計、極めて妙だ」

 

 

(つづく)

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