漢王に封じられた劉邦は、すっかりしょげた様子で、とぼとぼ霸上の陣に戻ってきた。
かくかくしかじか……と事情を聞いて、劉邦軍の大将たちが色めき立つ。
「巴蜀は左遷の地だ!
我が君は一番に関中へ入ったのだから、本来、咸陽を手に入れるはずだった。それなのに漢中なんていう僻地へ左遷するのは、范増の計略に違いない!
こうなったら、みんなで力を合わせて項羽と戦い、懐王の約束を守らせよう!
そうすれば、いつか故郷に帰ることもできる。とにかく、左遷先で老いさらばえていくなんて、まっぴらだ!」
樊噲も鼻息荒く進み出た。
「みんなの言うことに俺も賛成だ。この俺が先陣を切って、気持ちよく項羽と戦ってやるぜ!」
はじめは気落ちするばかりだった劉邦も、みんながこう噴きあがっているのを見ているうちに、だんだん気持ちが変わってきた。
「俺も怒っていいんじゃないか?」「怒ったほうがいい」「うん、怒ったぞ!」と、こうである。
劉邦は、拳を突き上げ、怒声を発した。
「俺が関中王になって咸陽に都を置く、これは懐王様との約束だ! なのに左遷の地に封じるなんて許せねえぞ!
だいたい巴蜀の道なんか、険しい山が何重にも重なったひどい地形に、桟道(断崖に作られた棚状の道)をかけて、どうにか通れるようにしてるっていうじゃないか。
そんな不便な場所に住みたくないぞー!」
しかし、蕭何がこれを諌めた。
「我が君。落ちついてください。
漢中が酷い土地なのは確かですが、無駄死にするよりはマシでしょう?
歴史上には、他人の支配に一度は屈しながら、後に天下万民の頂点に立った者もいる。殷の湯王と周の武王がそれです。
ここは我慢のしどころです。漢中の王として民を養い懐かせ、賢才のある人物を採用して巴蜀から兵を起こし、いつか逆襲して章邯たちの三秦を攻め取るのです。
そうすれば、天下をも掴むことができるでしょう」
張良も、この意見に大きく、うなずいた。
「蕭何殿の仰る通りです。
つけ加えますと、巴蜀は確かに左遷の地ではありますが、国内には何重にも重なった山々があり、国境には険しい断崖絶壁がある。
この険阻な地形は、防御にたいへん有利です。仮に項羽が100万の軍勢を動員したとしても、攻め込むことは不可能でしょう。
これまさに漢の国を興すに最適の地。軍勢を養うのにこれ以上の場所は考えられません。
我が君。どうか怒りを収め、こころよく旅立って、早々に漢中へお入りください。
それに、もし少しでも不満の心を表に出せば、項羽は必ずそれを口実にして我が君の殺害を狙ってきます。范増は、我が君を殺すために日夜計略を練っているのですよ。
我が君は、そういう状況を知らずに、兵を動かして項羽と戦おうと仰っている。楚勢は強大です。もし戦えば、味方は粉にされてしまいます」
蕭何と張良の諌言を聞き、劉邦は腕を組んだ。
「そっか……先生たちの教えに従ったほうがいいような気がしてきた」
そこへさらに酈生が畳みかけた。
「私からも一言よろしいかな?
我が君が漢中に行けば、3つの利があります。そしてこの咸陽に留まれば、逆に3つの害がある。
1つずつ説明しましょう。
まず漢中に行った場合。
巴蜀の道は山や川が多くて甚だ通行が困難です。それゆえ項羽側の人間が内情を探りにくくなる。これが1つ目の利です。
次に、この険しい地形を利用して軍馬を鍛え、山登りや川越えの練習をさせられる。これが2つ目の利。
そして、君が軍勢を率いて打って出るとき、手下の将兵はみんな故郷に帰れることを喜び、普段の10倍も力を尽くして進むでしょう。これが3つ目の利です。
逆に咸陽に留まった場合。
咸陽は味方の将兵の故郷豊沛に近くはありますが、韓や魏と国境を接しているため、こちらの内情が外に漏れやすくもなります。これが一つ目の害。
筒抜けになった情報は、当然、范増の耳にも入る。後日、我らが軍勢を発して楚を攻めようとするとき、范増は手に入れた情報に基づいて的確に防御し、隙を見出して襲ってくるに違いない。これが二つ目の害。
そして、人の心は移ろいやすい。誰しも大を喜んで小を嘲り、強を好んで弱を侮るもの。項羽の勢力は大きく力は強うございますから、味方の中から楚に寝返る者も現れるでしょう。そうなったら、君はますます助けを失うことになる。これが三つ目の害です。
とまあ、このような利害があります。
思うところは有りましょうが、ここはグッと耐え忍び、自分自身を励ましてくだされ。
薪に臥して胆を嘗める、臥薪嘗胆の魂で行けば、いつか天下の王になることができましょう」
蕭何、張良、酈生という劉邦配下きっての知恵者たちから異口同音に勧められ、劉邦の覚悟は決まった。
「よし。漢中へ行こう! みんな、旅の支度に取りかかれ!」
こうして、劉邦軍は忙しく動き始めた。
*
いみじくも張良が指摘した通り、亜父范増は、劉邦のことで日夜頭を悩ませていた。
その夜も、范増は遅くまで床につかず、現在の状況について、じっと考えを巡らせていた。
「劉邦は、五行のうちの火徳の人だ。旗印も火のような赤。
それに対して、漢中は西方。西は五行の金に対応する。
五行の理論によれば、金は火を得て成就するという。劉邦を漢中に入らせたら、やがて大事業をなしとげてしまうのではなかろうか?
奴を漢王に封じたのは、失敗だったかもしれん……」
范増は立ち上がり、すぐに項羽の元へ向かった。
急にやってきた范増を見て、項羽が目を丸くする。
「亜父、どうしたんだ? こんな夜中に」
范増が言う。
「ちと気がかりな話を耳にしてな。
どうやら劉邦は、漢王に封じられたことに大きな不満を覚えているらしい。
劉邦手下の将軍たちは、みんな山東(函谷関より東側の領域)の出身。故郷から遠く離れた漢中へ追いやられることに怒り、恨みを抱いて、『覇王は懐王との約束を破った』と罵ったそうだ。
これを放置しておけば、それこそ謀反に繋がりかねない。
いまこそ心を決めて劉邦を殺しなされ」
項羽は頭を掻いた。
「でも、俺はもう、劉邦を漢王に封じるって詔を出しちゃったぞ。
これといって罪もないのに、どうやって殺せばいいんだ」
范増が言う。
「明日、劉邦が挨拶に来たら、こう問いなされ。『私は貴公を漢中に封じた。貴公は、その地に行くか、行かないか』とな。
劉邦が『行く』と答えたなら、それは許可を得ず自分勝手に動くことになる。逆に『行かない』と答えたなら、それは封賞に不満を示したということだ。
このどちらかを罪にして殺せばよろしい」
「なるほど……」
よくも色々な手を考えるものだ、と項羽は苦笑した。
*
翌日。
漢王劉邦や、その他もろもろの諸侯が、項羽のもとへ挨拶にやってきた。
そこで項羽は、だしぬけに劉邦に問いかけた。
「劉邦よ。貴公を漢王に封じて巴蜀の主としたな。貴公は、あの地へ行くのか、行かないのか」
劉邦が、不思議そうに目を丸くする。
「え? はあ……
あの、どうして『行くか行かないか』なんて、お尋ねになるんです?
主君からの俸禄を食らう以上、判断は主君の手に預けるもの。譬えて言うなら、私ァ覇王様の馬みたいなものです。鞭を入れてもらえれば行くし、轡を引いてくだされば止まる、と」
これを聞いて、項羽は大笑いした。
「あっはっは! 劉邦、うまく譬えたなあ!」
こうして項羽は、またしても劉邦を殺す気を失くしてしまった。
なにがなんだか分からぬまま、劉邦は退出して霸上の本陣に戻ってきた。
そこへ、張良が慌ててやってくる。
「我が君。今日、ご自分が死にかけたことを知っていますか」
劉邦が青ざめる。
「えっ、知らん、何それ」
張良が感心半分、あきれ半分の溜め息をつく。
「いやはや。我が君の強運は、まさに天の助けとしか思えませんね。
さっき項羽が『行くか行かないか』と尋ねたのは、答えを聞いて我が君を殺すためですよ。
『行く』と答えれば勝手な判断だと咎められ、『行かない』と答えれば封賞に不服を言ったと咎められる。
あの土壇場を、よくも譬え話で乗り切りなさったものです」
張良の説明を受けて、劉邦は初めて自分がどんな状況に置かれていたかを悟った。
劉邦は、うろたえながら、張良の袖に、すがりついた。
「こんな調子で秦に長いこと留まっていたら、絶対いつか殺されるよ! どうやって逃げたらいい?」
張良が、いつもの穏やかな微笑を浮かべた。
「項伯と陳平の2人は、項羽の部下ではありますが、こちらに心を寄せてくれています。私がこの2人と相談し、ひそかに計を巡らせましょう。
君は、あらかじめ旅行の用意をしておいて、項羽の命が下ったら、すぐに出発してください」
*
その夜。
張良は、ひそかに項伯と陳平を呼び寄せ、こう相談をもちかけた。
「范増が、ことあるごとに漢王様を殺そうとするので、漢王様は早く漢中へ逃げようと考えておられます。
しかし、出発する口実がない。
お二人ならば、きっと妙計(よい考え)をお持ちでしょう。どうか助けていただきたい。漢王が自分の国に落ち着くことができたなら、決して今日の恩を忘れません」
「そうですな……」
陳平は、やや長く思案した後、張良へ身を乗り出した。
「では、こういう策は、いかがでしょう」
陳平が、張良の耳元に口を寄せ、何かをささやく。
陳平の計を聞き終えると、張良は限りなく喜んだ。
「すばらしい。この計、極めて妙だ」
(つづく)