劉邦は、張良の顔を見るなり、不安げに表情を曇らせた。
「先生! 項羽のやつ、他の諸侯には帰国許可を出したのに、俺1人だけここに残れって!
ぜったい俺を殺すつもりだよ……どうしたらいい?」
張良は、常の如く落ち着きはらって微笑した。
「君の父母や妻子は、みんな豊沛にお住まいですよね。
明日、項羽に表を上げて、『一族を咸陽に迎えたい』と要望なさいませ。
そのとき私が計を用いて、君をお救いしましょう」
「えっ、俺の家族を?」
劉邦は、首を傾げながら、酈生を呼んだ。
「酈生! 項羽に表を上げたいんで、代筆を頼むよ。酈生は文章が上手いから」
「はいはい。お任せを」
酈生の手で、流れるようにスラスラと見事な奏表が書き上げられ……
翌日。
劉邦は表を項羽に奉った。
その内容は、こうである。
『聖王は孝の精神で天下を治め、天下もまた孝に従う。
父と子を和睦せしめ、仁愛を行き渡らせ、いつ何時も心安らげるようにしたとき、ついに至高の統治に到達します。
臣、劉邦は豊沛の小民。風に従って西へ向かい、大いなる計画に身を託し、王爵に封じていただきました。
これまさに天下至栄、千載一遇の巡り合わせでございます。
しかし、この身が栄誉を得たといえども、父母妻子は遠く故郷にあります。家族と一つ屋根の下に住み、天から授けられた楽しみを共有することが、いまだにできていないのです。
人を遣わして家族を呼ぶことも考えましたが、それでは私自身が先祖の墓を掃除することができません。
故郷に凱旋して錦を飾り、覇王陛下の御恩が、生者だけでなく、すでに死んだ先祖たちにさえ及ぶということを世に示しとうございます。
伏してお願いいたします。兵馬は咸陽に滞在させたままで構いませんから、この身ひとつに数騎の供のみ連れて、豊沛に参りとうございます。
お暇を頂くのは、3ヶ月間のみで十分です。その間に妻子を連れて咸陽に戻って参ります。覇王様の恩徳によって、家族ともども王化の喜びに浸りとうございます。
ご聖裁を、伏してお願いいたします。この劉邦、惶恐の至りに堪えませぬ』
項羽は、表を読み終えて、劉邦に目を向けた。
「故郷に帰って父母を迎えたいという気持ちは分かる。親を愛する気持ちは、誰だってあるものだよな。
だが、それが本心じゃないだろ? 昨日、卿1人だけ咸陽に残れと言ったから、こういうことを奏上してきたんだろうが」
劉邦は、項羽の前で、地に貼り付くように平伏していた。
「いえいえ! 私の父は、もうけっこうな歳で……それなのに養う人が誰もいないのです。
私ァもう、以前からずっと心配で心配で……!
しかし、覇王様がこのたび即位なさって、多忙を極めていらっしゃったので、今までお願いできずにいたのです。
今、もろもろの諸侯は、みんな故郷に帰って父母に会うことができました。それなのに、私だけがここに留まって、父や母の、顔を見ることもできなくてっ……」
劉邦は、肩を震わせ泣き出した。
その哀れな姿を見ているうちに、情に厚い項羽の気持ちは、揺らぎはじめた。
そこへ、張良が、そっと意見を差し挟んだ。
「覇王様。漢王を故郷へ帰らせてはいけませんよ。
むしろ、覇王様こそが豊沛に人を遣って、漢王の父母妻子を迎え取り、人質となさいませ。
その後で漢王を漢中へ行かせれば、もはや何の憂いもなくなります」
項羽は、心中の迷いを素直に顔に現した。
「いや、俺は漢王を咸陽に留まらせようと思ってるんだ。自分の国に行かせたら、裏切りを考え始めるだろうと思って」
そこへ、すかさず陳平が声を上げる。
「覇王様は、漢王を巴蜀の主に任命すると、すでに天下に告知してしまいました。
にもかかわらず漢王を咸陽に留まらせていたら、前言をひるがえす形になってしまい、世間からの信用を失います。
ここは張良の諌言通り、漢王の太公(他人の父親を敬って言う呼び方)を人質とし、その後で漢王の漢中入りを許可なさるのがよろしいかと。
さすれば覇王様の信用も保たれ、漢王が良からぬ考えを起こすことも人質によって防げます」
項羽は、しばらく考えこんでいたが、やがて、うなずいた。
「よし。一度は漢王を咸陽に留める決定をしたが、お前たちの言う通り、漢王の漢中入りを許可しよう。
でも、豊沛へ帰るのはダメだ」
この裁定を聞くと、劉邦はいきなり滝の如く涙を散らし、喚いて叫んで泣きじゃくりだした。
「そんなああ〜! 覇王様、どうか! どうか豊沛行きを許してくださいませ! ほんのちょっとでいいんです!」
項羽は顔をしかめる。
「あー、うるさいっ! いいから早く漢中に行って巴蜀の統治に取りかかれ!
彭城に都を建てたら、お前の一族を迎え入れて、俺がしっかり世話しといてやるっ! それなら、間接的にお前が親孝行してることにもなるだろ」
劉邦は、床に額をこすりつける勢いで深々と頭を下げ、しゃくりあげながら言う。
「ひぐっ……わかっ……分かりましたあ……
どうか私の家族をよろしくお願いします……この御恩は死んでも忘れませんっ……
私は……私は漢中に行って、覇王様のご命令に従いますぅ……」
いかにも、無理矢理に言うことを聞かされたような口ぶりだが……
深々と下げた頭の下で、劉邦は、にんまりと会心の笑みを浮かべながら、舌を出していた。
ここまで全て、項羽を操るための芝居。
劉邦の涙は、もちろん嘘泣きである。
なんと鮮やかな手口だろう。
初めは「劉邦を漢中には行かせない」と主張していたはずの項羽が、いつの間にか、「早く漢中へ行け」と命じる側になってしまったのだ。
ここで鍾離昧が進み出た。
「覇王様、お待ちください。
范増様が出発なさるとき、『決して漢王を漢中へ行かせてはいけない』と仰っていたではありませんか。何故あの諌言をお忘れになるのです」
しかし、項羽は首を横に振った。
「心配いらん。劉邦の両親を彭城に留まらせて人質にするんだぞ。逆らえば親が殺されると分かってるのに謀反なんか考える奴はいない。
それに、俺はもう詔を出して、みんなを天下の諸侯に封じてしまった。漢王をこれ以上咸陽に留まらせていたら、天下から信用を失くしてしまう」
こうして項羽は、ついに范増の諌言を破ってしまったのである。
*
この話は、すぐに都に知れ渡った。
執戟郎の韓信は、話を聞いて、深く溜め息をついた。
「漢王を漢中へ入らせるかわりに、漢王の父母を人質にする……か。
これは、劉邦一派が企んだ計略だな。
人質が居ようが居まいが、劉邦は謀反を躊躇いはすまい。
むしろ、人質が生きていれば『父母を取り戻すため』、殺されたなら『父母の仇討ち』という名分で士気を奮い立たせ、鷹の如く襲いかかってくるだろう。
その時には、こちらの味方は、みな敵の捕虜となる。
やれやれ。あれほど范増が注意していたことが、全て無駄になってしまったか」
この頃にはもう、韓信の目の奥には深い失望の色が浮かんでいたのだった。
(つづく)
■次回予告■
項羽と范増の魔手をすりぬけ、劉邦は今、封地へ旅立つ。だが漢中へ向かうその道中、背後で突如黒煙が上がる。
愕然とする劉邦たちの眼の前で、脆くも焼け落ちていく蜀の桟道。中央へ戻る唯一の道に放火した者は……まさかの軍師張良!?
次回「龍虎戦記」第二十二回
『いざ、新天地へ!』
乞う、ご期待!