龍虎戦記 項羽vs劉邦【翻案・通俗漢楚軍談】   作:外清内ダク

55 / 197
二十二の上 いざ、新天地へ!

 

 

 劉邦は大将たちに下知(げち)して、大急ぎで旅の支度(したく)に取りかからせた。

 そして準備が完了するや、すぐさま霸上(はじょう)を出発し、封地(ほうち)、漢中・()(しょく)へと進み始めた。

 

 咸陽(かんよう)の人民は、劉邦が出発したと聞くと、その進路上へ集まってきた。

 老人の体を支え、幼子(おさなご)を胸に抱き、総出(そうで)で劉邦の回りを囲み、人民が地面に拝伏する。

 

 その中の老人数十人が、哀しげに(うった)えた。

「劉邦大王、あなたが先に関中へお入りになったので、我々はあなたこそ咸陽(かんよう)の王になるのだと思っていましたのに。漢中などへお行きになるとは……

 一体いつになれば、あなたが東に帰還なさって、その天顔(天子の顔)を再び拝することができるでしょうか」

 

 老人たちは、大声で泣いた。

 

 劉邦は、優しく彼らを(さと)す。

「みんな、よく自分の仕事に(はげ)めよ。俺は、いつか必ず帰ってきて、またお前さんたちと顔を合わせるから」

 

 民衆は、劉邦を慕って言う。

「私たち(みんな)で、劉邦様を遠くまで送って参りましょう」

 

 しかし、蕭何(しょうか)がそれを制止した。

「いや。覇王項羽の法律運用は、はなはだ厳しい。あなたがたは、ここからすぐに帰りなさい。ついてくれば罰せられることになりましょうから」

 

 しかし、それでも民衆は涙を流し、劉邦と離れるのを嫌がって、その場に留まり続けた。

 

 張良が、そっと樊噲(はんかい)に寄っていく。

樊噲(はんかい)殿」

「なんです、先生?」

「軍馬を走らせましょう。民衆がついて来られないように」

 

 樊噲(はんかい)は、劉邦を囲む民衆を見て、うなずいた。

「そうですな。あの人たちが俺らのせいで罰を受けたりしたら、かわいそうだ」

 

 樊噲(はんかい)の号令によって、劉邦軍の兵馬は駆けだした。

 土煙(つちけむり)を上げて去っていく劉邦たち。

 その背中を、咸陽(かんよう)の民衆は、いつまでもいつまでも見送っていたのだった。

 

 

   *

 

 

 劉邦軍は街道を順調に進み、山々に挟まれた駅(宿場)を()て、90里(36km)先の安平県に到達した。

 そこからまた40里進んで扶風(ふふう)県。

 45里で鳳翔(ほうしょう)郡。

 30里を経て迷魂(めいこん)(さい)

 また30里で宝鶏(ほうけい)県。

 50里にして大散関。

 60里にして清風閣(せいふうかく)

 さらに60里で鳳州(ほうしゅう)

 

 合計、実に405里(162km)。

 これだけ進んで、ようやく漢中の入口にさしかかった、というところ。

 いよいよここから、(けわ)しいことで有名な()(しょく)への山道に踏み込むことになるのだが……

 

 ここで劉邦軍の将兵たちは、目の前に広がる光景に呆然(ぼうぜん)とした。

 

 幾重(いくえ)にも重なり合った山脈。

 鋭く天を貫く峰々(みねみね)

 鳥にすら飛び越えがたいほどの断崖絶壁。

 

 すさまじく険阻(けんそ)なこの地には、まず、まともな道が存在しない。

 そこで古代の人々は、岩壁に貼り付くような(たな)状の道、桟道(さんどう)を作った。

 ほとんど垂直にそびえ立つ岩壁に穴を穿(うが)って(くい)を打ち込み、その上に板を渡して通り道としたのだ。

 

 人がすれ違うこともできないほど狭く、ほとんど岩壁にへばりつくようにして進むしかない。無論、手すりなどあるはずもない。足を踏み外せば、奈落(ならく)の底へ、まっさかさま……

 そんな桟道(さんどう)雲間(くもま)をかぼそく()い進み、切り立つ巨大な青岩は万刃(ばんじん)の如くそびえ立つ……

 

 劉邦軍の将兵は、みな平原の多い山東(さんとう)(中国東部)の出身で、これほど(けわ)しい難所を経験したことがなかった。

 

 兵の誰かが、隊列のどこかで叫び声をあげる。

「俺たちは、十死(じっし)一生(いっしょう)の戦いをくぐりぬけ、どうにか(しん)を滅ぼしたのに、故郷に帰ることもできず、こんな(けわ)しい土地に追いやられてしまった。

 もし誰かがこの難所に軍勢を置いて封鎖したら、俺たちはもう二度と本国に帰れなくなり、漢中で虚しく死に果てることになるぞ。

 なら、いっそここから引き返して、項羽の()軍と戦って、気持ちよく討死(うちじに)しよう!」

 

 この言葉に、樊噲(はんかい)や他の将たちも、

「そうだそうだ!」

 と同調し、(とき)の声を()げはじめた。

 

 しまいには劉邦までが怒りに飲まれ、むやみやたらに叫びだした。

懐王(かいおう)様との約束で、先に関中に入った者を咸陽(かんよう)の王にすると言ってたのに! 項羽め! 約束を破り、范増(はんぞう)の言うことに従って、俺をこんな(けわ)しいド田舎(いなか)左遷(させん)しやがって!

 

 それだけじゃない。(しん)から降伏してきた章邯(しょうかん)たちを三(しん)王に(ほう)じて、漢中から出る道を(ふさ)いでしまった!

 

 雲の上にでも乗って飛べるってんならともかく、地面を歩くしかない俺らは、漢中に一度入ったら二度と出られなくなるぞ。

 今なら三(しん)も、まだ防衛の準備を整えてない。早く引き返して、()と決戦しよう!」

 

 これを聞くと、張良、蕭何(しょうか)酈生(れきせい)の3人が一斉に馬から下りて劉邦を止めた。

「漢王様!

 将兵たちが一時的な怒りに任せて申したことなどを()に受けて、天下の大事を誤ってはいけませぬ。

 

 漢中は確かに険阻(けんそ)ですが、昔から多くの大王が(おこ)ってきた伝統の地。

 出発前にも申し上げましたが、漢中・()(しょく)の奥深くは、軍馬を育成するには最適です。そうして力を(たくわ)え、好機を見計(みはか)らって出陣し、三(しん)を平定して天下を狙いなさいませ。

 

 いますぐ東に帰ったりしたら、項羽は勢いに乗って攻めてきます。我らは卵を押し潰すように潰されてしまうでしょう。

 そうなってから後悔しても、どうにもなりません」

 

 配下きっての知恵者3人に、そろって諌言(かんげん)されては、劉邦も納得するしかなかった。

 劉邦は怒りを収め、樊噲(はんかい)に命じて先を急がせた。

 

 

(つづく)

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。