劉邦と別れた張良は、桟道に火を放った後、咸陽への道を引き返していった。
鳳嶺という土地に半日逗留して人馬を休め、鳳州から益門に出、宝鶏山に着いたところで、前方から近づいてくる人馬の一団に出会った。
その一団を率いている大将が大声で叫んだ。
「そこにいるのは張良先生ですな! お逃げなさいますな」
張良が警戒して問う。
「誰だ」
大将が答えた。
「我らは、項伯の手の者です。
我が主項伯は、桟道が険しく、張良先生が疲れ苦しんでおられるだろうと察し、お迎えに参るよう我らに命じたのです」
張良は、大いに喜んだ。
「項伯君は、昔の好で、これほど気をつかってくれるのか。彼こそ真実の友だ」
張良は、迎えの者たちと一緒に咸陽へ帰り、項伯に会って感謝の言葉を述べた。
*
さて、張良が、項伯の家にしばらく留まっていると……
張良が滞在していることを耳にして、ある人が張良を訪ねてきた。
その人が張良に告げる。
「張良先生が漢王に従って漢中へ向かったため、覇王項羽様は大変に恨んでおられました。
そこへ、折悪しく、韓王の姫成様が拝謁に来られまして。
覇王様は、『挨拶に来るのが遅い!』と言って韓王に酷くお怒りになり、さらには、家臣が讒言までしたため、とうとう韓王を殺してしまいました。
韓王の屍は、昨日、棺に収めて韓本国へ送還されました……」
「なん……だ……と……」
張良は。
張良は、地に倒れ、獣の唸るように泣き叫んだ。
「私は……我が家は、数代に渡って韓国に仕えた。一度は始皇帝に滅ぼされてしまった祖国のために、私は、心を尽くして仇討ちを為し、ようやく亡き主の後継者を立てることができたというのに……
どうして予想できよう!? まさか、今度は項羽に主を殺されてしまうとは!」
張良は、泣いた。
滅多に己の感情を露わにしない、いつも冷静な、あの張良が、この時ばかりは溺れるほどに涙を流し、身を二つに折って、泣きじゃくった……
*
結局、その夜は一晩中ずっと泣き濡れて、眠ることもできず。
夜が明けた頃、張良は項伯に、ぼそりと告げた。
「韓国へ帰るよ」
項伯は驚いて言う。
「張良、君が我が家に逗留しはじめたばかりだ。私の軍務が忙しすぎたのもあって、まだ心静かに昔の思い出を語り合うことさえできていないじゃないか。どうしてこんなに早く帰るだなんて言うんだ」
張良は、ひどく疲れた顔で微笑んだ。
「韓王様が咸陽に来て、覇王様に会ったそうなのだ。だが覇王は、私が漢王に従って漢中へ向かったことに怒り、我が主の韓王様を殺してしまった。
私のせいだ。いっそ自殺しようかと思った……だが、死ぬこともできないのが辛いのだ。
だから、とにかく本国へ帰る。
韓王様の屍を葬り、韓王様の一族が安心して暮らせるように手筈を整えたら、一ヶ月ほどで、また君の所へ戻ってくるよ」
項伯は、目尻に涙すら浮かべていた。
「そうか、しかし……やっと君と再会できたのに、こんなに早々と別れるなんて」
張良が首を横に振る。
「君の友情は嬉しく思う。だが引き止めないでくれ。
君が私を1日引き止めたら、私の罪はその1日分増えることになる」
項伯は張良の手を握った。
「分かった。韓王を葬ったら、一ヶ月で戻ってくるんだな。
そのころに迎えの者を送ろう。きっと帰って来てくれよ。約束を破るなよ。きっとだぞ」
くどいほどに念を押す項伯が、胸の内では「早まるなよ」と言ってくれているのだということを、もちろん、張良は察していた。
張良が、うなずく。
「必ず戻ってくる。
しかし、頼みがある。迎えをよこしてくれるのは構わないが、そのことを他人には漏らさないようにしてくれ」
*
張良は、わずかな従者のみを連れ、夜を日に継いで韓国へ帰った。
張良は亡き主、韓王成の霊前で祭祀を行い、声を放って哀しみ、頭を地に叩きつけて慟哭した……
「この張良は、どうしようもない不忠者です……項羽に君を殺害させてしまいました。
項羽……奴は、決して生かしておけぬ仇。
この張良、我が君のために必ず奴を討ってご覧に入れましょう。そのためならば、我が肝、我が脳、何もかも地にバラまいたとて惜しむには値しない!」
張良は、韓の王子たちとともに葬儀を執り行い、数日して咸陽への帰路についた。
その途中、項伯が送ってくれた迎えの人馬と出会い、晩ごろになって項伯の家に到着した。
張良。彼は氷の如く冷徹でありながら、胸の内には誰より熱い情を抱いている男。
帰ってきた張良の目で、以前と異なる、おそろしく暗い炎が燃えていることに、項伯は全く気付いていなかった。
(つづく)
■次回予告■
主を殺され、復讐の意志を燃やす張良。彼の暗躍によって、覇王項羽は知らず知らずに思考と行動を操られていく。
生来の身勝手、頑迷、乱暴。まだ致命的とまでは言えない短所欠点の数々を知らず知らずに助長され、いま再び、項羽の両手が血に染まる。
次回「龍虎戦記」第二十三回
『楚人沐猴而冠』
乞う、ご期待!