龍虎戦記 項羽vs劉邦【翻案・通俗漢楚軍談】   作:外清内ダク

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二十三の乙 楚人沐猴而冠

 

 

 しばらくして、項伯が帰ってきた。

 家に帰れば親友が待っているので、このところ、項伯はニコニコと上機嫌である。

「やあ、私の賢い弟よ! 一人で(さみ)しかったろう。酒でも飲んで()()らしといこうじゃないか」

 

 項伯と張良は、ともに酒を()()わし、しばしの間、楽しんだ。

 張良の白い(ほお)が、ほんのり(くれない)に染まった頃、張良が、こう誘いをかけた。

 

「ちょっと酔ってしまったな。項伯、庭にでも出てみないか」

「ああ、行こう。ちょうど花もいい季節だ」

 

 2人で裏庭に出てみれば、項伯の言う通り、色とりどりの花が咲き乱れている。

 張良が微笑(ほほえ)み、吐息(といき)(こぼ)した。

「まさに見ごろだ。百花が競い合うように咲いて、私の胸に()まった思いを忘れさせてくれる」

 

 その庭の中に、例の書楼(しょろう)もある。

 張良は項伯を誘い、2人で書楼(しょろう)に登った。

 

 張良が、積まれていた書籍の1巻を手に取り、たあいもない世間話を(よそお)って(たず)ねた。

「すごい量だな。うず高く積まれたこの文書は、誰が書いたものなんだい?」

 

 項伯が答えた。

「これは、諸国から覇王様に届けられた奏上(そうじょう)文や、大将たちが書いた諌奏(かんそう)(いさ)めるための文書)だ。

 私は尚書(しょうしょ)(れい)だから、そういう文書を一つ一つ書き写して(ひか)えを保管しているんだよ」

 

「ふうん……」

 と、張良は、例の奏上(そうじょう)文を取り上げた。

「たとえば、これは誰の文章かな?」

 

 項伯が、文章をのぞき込んで、溜め息まじりに言う。

「ああ、それか。麒麟(きりん)鳳凰(ほうおう)も、いまだ機会に恵まれず! だ。

 それは淮陰(わいいん)の韓信という男が上げた(ひょう)だよ。

 

 この人物は家が貧しいので(みな)(いや)しまれていたが、范増(はんぞう)殿だけは彼の才能を見抜いて、覇王様に推薦したのだ。

 しかし覇王様は、韓信を執戟郎(しつげきろう)(王の護衛)程度の役にしか付けていない。

 

 先日、韓信がその(ひょう)(たてまつ)った時、覇王様は怒って文書を引きちぎり、韓信を処罰すると言いだした。

 私が、いろいろ言葉を尽くして説得し、どうにか処罰だけは避けられたのだが……」

 

 項伯が苦々しく語る話を聞きながら、張良は心の中で大いに驚いていた。

淮陰(わいいん)の韓信。

 そうか。鴻門(こうもん)の会の時に歌を作っていた、あの韓信か。なるほど……」

(第十八回参照)

 

 

   *

 

 

 数日後。

 すっかり気力を取り戻した張良の姿が、そこにあった。

 

 張良は心に思う。

()(かん)王様の(かたき)も、いまだ()てていない。

 ()(しょく)の漢王様は、東方に帰る日を今か今かと待ち続けている。

 そして覇王項羽の凶暴さに、人民は(うら)(なげ)いている。

 

 何をしているのだ、張良よ。

 こんな状況を()()たりにしながら、(かな)しみに(とら)われ無気力に時間を潰しているとは何事(なにごと)か!

 

 さあ、働こう。

 一刻も早く、次なる計を動かさねばならぬ!」

 

 張良は、目を閉じ、じっと思案を巡らせた。

 やがて策がまとまると、張良は項伯と対面して、こう言った。

 

「項伯君。

 私はもう、この世に(なん)の望みも無くなってしまった。

 これからは、人里(ひとざと)(はな)れた静かな土地を探し、そこで心やすらかに体を(やしな)おうと思う」

 

 項伯は、再三に渡って引き止めた。

「張良! 君が(うち)に来てから、まだ1ヶ月にもならないじゃないか。どうしてこんなに早く帰るだなんて言うんだ」

 

 張良が微笑(びしょう)を浮かべた。

咸陽(かんよう)(みやこ)(にぎ)やかすぎて、静かに心を(やしな)うことができないんだ。

 君は古くからの親友だ。どうか、私の気持ちを分かってほしい。

 

 これからは山林の奥深くに入り、もとの名も隠し、仙人に師事(しじ)して不老(ふろう)長生(ちょうせい)の術を学ぼうと思う。

 

 昔、伝説の女仙西王母(せいおうぼ)の娘、雲林(うんりん)夫人が、こう言ったそうだ。

(たま)の甘酒、玉醴(ぎょくほう)

 黄金の飲み物、金漿(きんしょう)

 金と木が交わって()(なし)交梨(こうり)

 火の如く赤い(なつめ)火棗(かそう)

 

 これら神仙の食べ物を(しょく)せ。

 さすれば、山の中に入った(なんじ)は道士となるだろう。

 しかし人間世界に留まれば、(なんじ)長史(ちょうし)(高官の補佐官)になることもできないだろう』と。

 

 この言葉からも明らかだ。

 (ごみ)にまみれ汚れた世間での栄華を捨て去らなければ、常識を超えた仙術は会得(えとく)できないのだよ」

 

 もう、この世の富貴(ふうき)では、張良の心を繋ぎ止めることはできない。

 そう悟った項伯は、旅立つ張良を、名残(なごり)()しげに咸陽(かんよう)の城外まで見送って行ったのだった。

 

 

   *

 

 

 さて。

 項伯と別れた張良は、しばらく道を進んで咸陽(かんよう)から離れ、そこで足を止めた。

 

 項伯に言った「仙人になりたい」という言葉、まったくの嘘でもなかったが、本心そのものでもなかった。少なくとも、今は世を捨てて(やま)()もりしている場合ではない。

 張良には、やらねばならない仕事がある。

 

 張良は、物陰(ものかげ)で衣服を着替えた。

 道袍(どうほう)(道士の服)を着て、(あさ)の靴をはいた、道士風の扮装(ふんそう)である。

 

 その格好で、もと来た道を引き返し、張良は再び咸陽(かんよう)へ入った。

 

 と、そこで張良は、風魔(ふうま)(発狂)を起こしたように突然奇声(きせい)を発した。

 周囲から(そそ)好奇(こうき)の視線をものともせず、道理に合わない滅茶苦茶(めちゃくちゃ)なことを大声で口走りながら、市街の大通りへフラフラと入っていく。

 

 それからというもの、張良は連日、人通りの多い界隈(かいわい)を歩き続けた

 腰には銭束(ぜにたば)をぶら下げ、衣服の(そで)には栗や梨の実を入れ、手では魚鼓(ぎょこ)(魚形の打楽器。木魚の原型)を鳴らし、口では道教の教えを()く。

 古い寺や壊れた(びょう)(神を(まつ)(やしろ))のそばまでくると、そこらじゅうに(ぜに)をバラまき、栗や梨を落として、子供たちの気を()いた。

 

 そんなことを続けているうちに、近所に住む子供たちが、3人、5人と集まりだした。子供の数は日に日に増え、やがて、張良の周りには、ちょっとした人だかりができるまでになった。

 

 集まった子供たちに、張良は、いろんな冗談や笑い話を語って聞かせた。それがまた面白いので、子供たちはケラケラ笑い転げる。

 

 菓子(かし)小遣(こづか)い、そして笑い。子供心を楽しませるものは、いつの時代も変わらない。

 数日が過ぎたころには、子供たちは、すっかり張良に(なつ)いてしまっていた。

 

 張良は、自分が信用を勝ち取れたとみると、子供たちの中でも特に賢い1人を選んで、人気(ひとけ)のない所へ呼び出した。

 

 その子に栗やら梨やらをたくさん与えて、張良が言う。

「坊や。今から君に、歌を教えよう。よく聞くんだよ。

 

 

  今有一人

  隔壁揺鈴

  只聞其声

  不見其形

  富貴不還郷

  如錦衣夜行

 

  今ひとり有り

  壁を(へだ)てて鈴を()する

  ただその声のみを聞き

  その形を見ず

  富貴にして(ごう)(かえ)らざるは

  錦衣(きんい)にて夜を行くが如し

 

 

 この歌を、よく覚えるんだ」

 

 張良は数回くりかえし子供に教えた。

 頭のいい子だったので、子供はすぐに歌を覚えた。

 張良は、子供にもう一度(ぜに)を与えて言う。

 

「いいかね。君はこれから、たくさんの子供たちに、この歌を教えるんだ。それから咸陽(かんよう)じゅうに散らばって、みんなでこの歌を歌ってくれ。

 もし『誰にこの歌を習ったのか?』と人に問われたら、『夢の中に人が現れて教えてくれた』と答えなさい。

 そうすれば寿命が伸びて、病気にもならず健康に長生きできるだろう。

 だが、この言いつけに(そむ)いたら、災いが襲ってくるぞ」

 

 子供は、喜んで去っていった。

 

 張良は、またひそかに服を着替え、旅人風の姿になって、咸陽(かんよう)城中の様子を見に行った。

 すると、教えた通り、数十人の子供が集まって、あの歌を歌っている。

 

「これでよし」

 張良は、(なに)()わぬ顔をして街の中に潜伏(せんぷく)し、仕掛(しか)けに獲物(えもの)がかかるのを待った……

 

 

(つづく)




●注釈
 張良が言及した「雲林夫人」について調査してみた。
 (しん)乾隆(けんりゅう)帝の時代に編纂(へんさん)された「欽定(きんてい)四庫(しこ)全書」なる書籍がある。これは、それまでの中国で書かれた重要な書物を収集して纏めた巨大文集であり、その中に、(げん)の時代に編纂(へんさん)された「氏族大全」という書が収録されている。ここに「雲林夫人」なる神仙についての記述がある。
 以下、「氏族大全・巻十四」より日本語訳して引用する。
許穆(きょぼく)が華陽洞に入って得道(とくどう)したとき、西王母(せいおうぼ)の娘の雲林夫人が降臨してきて教えを授けた。(中略)後に、雲林夫人は許穆(きょぼく)に書を与えて、こう言った。「玉醴(ぎょくほう)金漿(きんしょう)交梨(こうり)火棗(かそう)を食べれば、山中の許穆(きょぼく)は道士になる。しかし人間社会の許穆(きょぼく)は長史になれない」』
 このように、雲林夫人は西王母(せいおうぼ)の娘であるらしい。西王母(せいおうぼ)は中国で古くから信仰されている女神・大仙人で、女仙たちの総元締めというべき存在である。その娘ということは、雲林夫人も相当に格の高い女仙ということになるだろう。
 ただ問題は、「氏族大全」に登場する許穆(きょぼく)は、東晋(とうしん)時代(AD360前後)の人物ということである。
 張良よりも600年近くも後の時代を生きた許穆(きょぼく)の逸話を、張良が引用できるはずはない。そこで本作では、雲林夫人が述べた『許穆(きょぼく)は』の部分を『(なんじ)は』とぼかしておいた。
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