龍虎戦記 項羽vs劉邦【翻案・通俗漢楚軍談】   作:外清内ダク

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二十三の丁 楚人沐猴而冠

 

 

 韓生(かんせい)が漏(も)らした言葉を伝え聞いて、項羽は首を傾(かし)げた。

「『楚人(そじん)沐猴(もっこう)而冠(じかん)』?

 陳平(ちんぺい)、どういう意味だ、この言葉は?」

 

「はっ、それは……」

 陳平(ちんぺい)は、額(ひたい)に嫌な汗を浮かべた。

 説明すれば大変な事態になるのは目に見えている。しかし、こう面と向かって質問されては、答えないわけにもいかない。

 

「そのまま読むと『楚(そ)の人は、沐浴(もくよく)した獼猴(びこう)(猿)が冠(かんむり)をかぶったようなもの』ということですが……そこには3つの意味が込められております。

 

 まず、獼猴(びこう)は、たとえ冠(かんむり)をかぶっていても、心は人間ではない。

 また、獼猴(びこう)は気が短すぎるので、人の冠(かんむり)をかぶっていても、人間のように落ち着いた行動ができない。

 そして、獼猴(びこう)は人の衣服や冠(かんむり)を身に着けても、人間性がないから、冠(かんむり)を玩具(おもちゃ)にして遊び、必ず壊してしまう……と。

 そのような意味でございます。

 

 そして楚人(そじん)というのは、この場合、覇王陛下を指しており……つまりこれは、覇王陛下を誹謗(ひぼう)する言葉でございます」

 

「要するに俺が猿ってことか!?」

 項羽は、怒った。

 激怒した。

 玉座から立ち上がり、宮廷を根本から震え上がらせるほどの声で怒鳴(どな)った。

「あのクソ爺(じじい)! 俺を侮辱(ぶじょく)しやがったな!」

 

 そして、項羽は左右に控(ひか)えていた執戟郎(しつげきろう)(護衛)たちに命(めい)じた。

「あの爺(じじい)を咸陽(かんよう)の市街に引きずり出して、油(あぶら)釜(がま)で煮(に)殺(ころ)せ!」

 

 

   *

 

 

 命(めい)を受けた執戟郎(しつげきろう)韓信は、諌議(かんぎ)大夫(たいふ)韓生(かんせい)を捕縛(ほばく)し、市街へ引きずっていった。

 

 公開処刑の告知を聞いて、咸陽(かんよう)の住民たちは、こぞって見物に集まってきた。

 おびただしい数の見物人の中には、一介(いっかい)の旅人のふりをした張良の姿もある。

 

 人々が見守る前で、大きな釜(かま)が設置され、中に大量の油が注ぎこまれた。

 釜(かま)の下で薪(たきぎ)に火が付けられ、やがて、油がグツグツと沸(わ)き立ちはじめる。

 

 そこへ、諌議(かんぎ)大夫(たいふ)韓生(かんせい)が引き出されてきた。

 諌議(かんぎ)大夫(たいふ)韓生(かんせい)は、目の前で煮立(にた)つ油を見ると、突然、見物人たちへ絶叫した。

「咸陽(かんよう)の人々よ、よく聞け! 私が今日煮(に)られるのは、私が奸臣(かんしん)だとか、国を裏切ったとか、法律を犯したとかが理由ではない!

 

 覇王項羽は子供の歌などを信じて、都(みやこ)を彭城(ほうじょう)へ遷(うつ)そうとした。

 私はそれを諌(いさ)め、口論となり、そのためにこうやって煮(に)殺(ころ)されようとしているのだ!

 

 見ていろ! 見ていろッ! 100日以内に、必ず漢王劉邦が巴(は)蜀(しょく)から出てきて、三秦(さんしん)を奪い取るに違いない!

 まさに楚人(そじん)沐猴(もっこう)而冠(じかん)だッ!」

 

 これを聞いて、執戟郎(しつげきろう)韓信が、うんざり顔で口を挟む。

「大夫(たいふ)殿。今さら何(なん)のために、そんなことを罵(ののし)りなさるのか。

 無駄なことは止(や)めていただきたい。覇王様の耳に入ったら、刑を執行(しっこう)している私の方が罰(ばっ)せられるじゃないか」

 

 諌議(かんぎ)大夫(たいふ)韓生(かんせい)が、死への恐怖で顔面を脂汗(あぶらあせ)まみれにしながら、鼻で笑った。

「はっ! 天の神よ、地の神よ、どうぞ近くでご覧あれ!

 私は国のために煮(に)殺(ころ)されるのだ! これこそ屈死(くっし)(無念の死)というものだ!」

 

 いささか自己陶酔(じことうすい)気味の諌議(かんぎ)大夫(たいふ)韓生(かんせい)だが、執戟郎(しつげきろう)韓信は冷淡だった。

「大夫(たいふ)殿は、遷都(せんと)のことを諌(いさ)めて殺される。たしかに、世間(せけん)の人は、屈死(くっし)だと評価するかもしれない。

 だが、この死は当然の結果だと、私は思うね」

 

 諌議(かんぎ)大夫(たいふ)韓生(かんせい)が、眉を跳ね上げた。

「死んで当然だと? 私に何の罪があるというんだ」

 

 執戟郎(しつげきろう)韓信が淡々と言う。

「貴公は長いあいだ諌議(かんぎ)大夫(たいふ)の職にあった。

 それなのに、覇王がかつて卿子(けいし)冠軍(かんぐん)の宋義(そうぎ)を殺したとき、なぜ諌(いさ)めなかった? あれは部下が主将を殺した形。立派な罪だ。

 

 先日もそうだ。秦(しん)王子嬰(しえい)を殺し、始皇帝の墓を暴(あば)き、阿房宮(あぼうきゅう)を焼き、諸侯を左遷(させん)したときも、諌(いさ)めなかっただろう?

 

 秦(しん)から降伏した20万の兵を生き埋めにして殺したとき、秦(しん)の民衆は恨(うら)み骨髄(こつずい)に入ったのだ。これも貴公は諌(いさ)めなかった。

 

 そういう積み重ねを経(へ)て、覇王項羽の心は、ああいう形に凝(こ)り固まってしまった。今さら強く諌(いさ)めて争ったところで、一体なんの効き目があろう。

 

 それに、范増(はんぞう)と大夫(たいふ)殿を比べれば、どうかな?

 あれほど信頼厚(あつ)い范増(はんぞう)ですら、覇王を諌(いさ)めることはできなかった。ましてや私や大夫(たいふ)殿など、范増(はんぞう)に及ぶはずもない。

 あなたは、そういう状況を考えもせず無闇(むやみ)に諌言(かんげん)したのだ。自分から死にに行ったようなものだよ。

 

 ま、恨(うら)むなら、覇王項羽ではなく、あの歌を作った人間を恨(うら)むんですな。

 私の推測では、蜀(しょく)の桟道(さんどう)を焼き、おかしな歌をでっちあげた人物が、この見物人の中に紛(まぎ)れ込んで様子を見ているんじゃないかな」

 

 これを聞いて密(ひそ)かに肩を震わせたものが、見物人の中に一人いる。

 もちろん、張良である。

 韓信の推測どおり、張良は策の成否(せいひ)を確認するため、こうして見物人に紛(まぎ)れ込んでいる。まさか、こんな細かなことまで見抜かれていようとは、思いもよらなかったのだ。

 

 張良は、怪しまれぬうちに、とばかり、群衆の背に隠れて逃げだした。

 しかし、心の中には、恐れよりむしろ喜びを抱いていた。

「韓信……やはり彼は、並大抵の人物ではない」

 

 

   *

 

 

 かくして、諌議(かんぎ)大夫(たいふ)韓生(かんせい)は、煮(に)えたぎる油の中に放り込まれて、煮(に)殺(ころ)された。

 この残酷な処刑には、身分の高い者から低い者まで、誰一人として嘆(なげ)かぬ者はいなかった。

 

 次の日。

 項羽は、季布を彭城(ほうじょう)へ派遣した。

 早期遷都(せんと)に向けて、范増(はんぞう)の内裏(だいり)造営を手伝わせるためである。

 

 范増(はんぞう)が残した三ヶ条の諌言(かんげん)を破る遷都(せんと)計画。

 これは止めるべきだ、と考えている者も、大勢いた。

 だが、諌議(かんぎ)大夫(たいふ)韓生(かんせい)が煮(に)殺(ころ)された今、大小の百官は、誰一人として項羽を諌(いさ)めなくなってしまっていた。

 

 執戟郎(しつげきろう)韓信は、このていたらくを間近(まぢか)で見ていた。

 韓信が、人知れず溜め息をつく。

「敵だけならいざしらず、とうとう味方まで殺しはじめたか。あの男は、もうダメだな」

 

 深い失望の中で、韓信は、つぶやいた。

「梁間(りょうかん)の巧燕(こうえん)、住(とど)まりて多時(たじ)ならず――

 巣作り上手の燕(つばめ)は、人の家に住んでも長くは留まらない……か」

 

 

(つづく)

 

 

 

 

■次回予告■

 

 覇王項羽を見限った韓信の元へ、怪しげな男が現れた。一振りの宝剣を携(たずさ)えて言葉巧みに口説く者、人中(じゅんちゅう)の龍、張子房。

 時と場とに恵まれなかった不遇の駿馬(しゅんめ)、漢(かん)の三傑(さんけつ)最後の一人が、今宵(こよい)、ついに立ち上がる。

 

 次回「龍虎戦記」第二十四回

 『千里の麒驥(きき)、伯楽(はくらく)に遇(あ)う』

 

 乞(こ)う、ご期待!




●注釈
『楚人(そじん)沐猴(もっこう)而冠(じかん)』の「猴(こう)」の字を、本文では便宜上「猿」と記しておいたが、実は中国語における「猿」と「猴(こう)」は別の動物を指している。
 「猿」が指すのは、今でいうテナガザル。現在は絶滅の危機に瀕しているが、かつて中国には多くのテナガザルが住んでいた。ペットとして飼われていた記録も数多い。古代中国ではなじみ深い動物だったらしい。
 一方、「猴(こう)」が指すのはマカク族のアカゲザル。我が国でおなじみのニホンザルもこちらの仲間に入る。つまり、ニホンザルは猿ではなく猴(こう)と書くのが本当は正しいのだ。
 余談だが、かの有名な「西遊記」の「孫悟空」。彼も中国では「猴(こう)行者(ぎょうじゃ)」と呼ばれている。こちらも実は猿ではなく猴(こう)というわけである。
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