韓生が漏らした言葉を伝え聞いて、項羽は首を傾げた。
「『楚人沐猴而冠』?
陳平、どういう意味だ、この言葉は?」
「はっ、それは……」
陳平は、額に嫌な汗を浮かべた。
説明すれば大変な事態になるのは目に見えている。しかし、こう面と向かって質問されては、答えないわけにもいかない。
「そのまま読むと『楚の人は、沐浴した獼猴(猿)が冠をかぶったようなもの』ということですが……そこには3つの意味が込められております。
まず、獼猴は、たとえ冠をかぶっていても、心は人間ではない。
また、獼猴は気が短すぎるので、人の冠をかぶっていても、人間のように落ち着いた行動ができない。
そして、獼猴は人の衣服や冠を身に着けても、人間性がないから、冠を玩具にして遊び、必ず壊してしまう……と。
そのような意味でございます。
そして楚人というのは、この場合、覇王陛下を指しており……つまりこれは、覇王陛下を誹謗する言葉でございます」
「要するに俺が猿ってことか!?」
項羽は、怒った。
激怒した。
玉座から立ち上がり、宮廷を根本から震え上がらせるほどの声で怒鳴った。
「あのクソ爺! 俺を侮辱しやがったな!」
そして、項羽は左右に控えていた執戟郎(護衛)たちに命じた。
「あの爺を咸陽の市街に引きずり出して、油釜で煮殺せ!」
*
命を受けた執戟郎韓信は、諌議大夫韓生を捕縛し、市街へ引きずっていった。
公開処刑の告知を聞いて、咸陽の住民たちは、こぞって見物に集まってきた。
おびただしい数の見物人の中には、一介の旅人のふりをした張良の姿もある。
人々が見守る前で、大きな釜が設置され、中に大量の油が注ぎこまれた。
釜の下で薪に火が付けられ、やがて、油がグツグツと沸き立ちはじめる。
そこへ、諌議大夫韓生が引き出されてきた。
諌議大夫韓生は、目の前で煮立つ油を見ると、突然、見物人たちへ絶叫した。
「咸陽の人々よ、よく聞け! 私が今日煮られるのは、私が奸臣だとか、国を裏切ったとか、法律を犯したとかが理由ではない!
覇王項羽は子供の歌などを信じて、都を彭城へ遷そうとした。
私はそれを諌め、口論となり、そのためにこうやって煮殺されようとしているのだ!
見ていろ! 見ていろッ! 100日以内に、必ず漢王劉邦が巴蜀から出てきて、三秦を奪い取るに違いない!
まさに楚人沐猴而冠だッ!」
これを聞いて、執戟郎韓信が、うんざり顔で口を挟む。
「大夫殿。今さら何のために、そんなことを罵りなさるのか。
無駄なことは止めていただきたい。覇王様の耳に入ったら、刑を執行している私の方が罰せられるじゃないか」
諌議大夫韓生が、死への恐怖で顔面を脂汗まみれにしながら、鼻で笑った。
「はっ! 天の神よ、地の神よ、どうぞ近くでご覧あれ!
私は国のために煮殺されるのだ! これこそ屈死(無念の死)というものだ!」
いささか自己陶酔気味の諌議大夫韓生だが、執戟郎韓信は冷淡だった。
「大夫殿は、遷都のことを諌めて殺される。たしかに、世間の人は、屈死だと評価するかもしれない。
だが、この死は当然の結果だと、私は思うね」
諌議大夫韓生が、眉を跳ね上げた。
「死んで当然だと? 私に何の罪があるというんだ」
執戟郎韓信が淡々と言う。
「貴公は長いあいだ諌議大夫の職にあった。
それなのに、覇王がかつて卿子冠軍の宋義を殺したとき、なぜ諌めなかった? あれは部下が主将を殺した形。立派な罪だ。
先日もそうだ。秦王子嬰を殺し、始皇帝の墓を暴き、阿房宮を焼き、諸侯を左遷したときも、諌めなかっただろう?
秦から降伏した20万の兵を生き埋めにして殺したとき、秦の民衆は恨み骨髄に入ったのだ。これも貴公は諌めなかった。
そういう積み重ねを経て、覇王項羽の心は、ああいう形に凝り固まってしまった。今さら強く諌めて争ったところで、一体なんの効き目があろう。
それに、范増と大夫殿を比べれば、どうかな?
あれほど信頼厚い范増ですら、覇王を諌めることはできなかった。ましてや私や大夫殿など、范増に及ぶはずもない。
あなたは、そういう状況を考えもせず無闇に諌言したのだ。自分から死にに行ったようなものだよ。
ま、恨むなら、覇王項羽ではなく、あの歌を作った人間を恨むんですな。
私の推測では、蜀の桟道を焼き、おかしな歌をでっちあげた人物が、この見物人の中に紛れ込んで様子を見ているんじゃないかな」
これを聞いて密かに肩を震わせたものが、見物人の中に一人いる。
もちろん、張良である。
韓信の推測どおり、張良は策の成否を確認するため、こうして見物人に紛れ込んでいる。まさか、こんな細かなことまで見抜かれていようとは、思いもよらなかったのだ。
張良は、怪しまれぬうちに、とばかり、群衆の背に隠れて逃げだした。
しかし、心の中には、恐れよりむしろ喜びを抱いていた。
「韓信……やはり彼は、並大抵の人物ではない」
*
かくして、諌議大夫韓生は、煮えたぎる油の中に放り込まれて、煮殺された。
この残酷な処刑には、身分の高い者から低い者まで、誰一人として嘆かぬ者はいなかった。
次の日。
項羽は、季布を彭城へ派遣した。
早期遷都に向けて、范増の内裏造営を手伝わせるためである。
范増が残した三ヶ条の諌言を破る遷都計画。
これは止めるべきだ、と考えている者も、大勢いた。
だが、諌議大夫韓生が煮殺された今、大小の百官は、誰一人として項羽を諌めなくなってしまっていた。
執戟郎韓信は、このていたらくを間近で見ていた。
韓信が、人知れず溜め息をつく。
「敵だけならいざしらず、とうとう味方まで殺しはじめたか。あの男は、もうダメだな」
深い失望の中で、韓信は、つぶやいた。
「梁間の巧燕、住まりて多時ならず――
巣作り上手の燕は、人の家に住んでも長くは留まらない……か」
(つづく)
■次回予告■
覇王項羽を見限った韓信の元へ、怪しげな男が現れた。一振りの宝剣を携えて言葉巧みに口説く者、人中の龍、張子房。
時と場とに恵まれなかった不遇の駿馬、漢の三傑最後の一人が、今宵、ついに立ち上がる。
次回「龍虎戦記」第二十四回
『千里の麒驥、伯楽に遇う』
乞う、ご期待!