韓信が、からかうような口ぶりで言う。
「あなたが宝剣を託すほどの人物とはね。漢王に、それほどの徳がありますか」
対する張良は、あくまでにこやか。
「漢王には、殷の開祖、成湯王(湯王)に匹敵するほどの大いなる徳がございますよ。
人相は隆準龍顔で真に高貴。
秦に入ったその夜には天に五星が集結しましたし、白き大蛇の母なる神が『彼は赤帝の子だ』と叫びもしました。
その芒蕩山の白蛇を斬ったのも、私がお譲りした天子の剣でお斬りあそばしたのですよ」
大嘘である。劉邦が芒蕩山で白蛇を斬ったとき、張良はまだ劉邦と出会ってもいない。劉邦が聞いたら目を丸くするだろう。
それを知ってか知らずか、韓信が小さく笑い声を漏らす。
「ふっ……さようか。
では、宰相の剣は誰にお売りになった?」
「沛県の蕭何殿に」
「その人には、どういう見どころがあるのかな?」
「蕭何殿は、天運に導かれし君主を補佐する元勲(功労者)となるべきお方。
軍隊を用いず、ただ仁義によって法を簡略化し、民を救う。宰相の素質を持った人物です」
ここまで聞いて、韓信は声高に笑いだした。
笑わないよう我慢していたのだが、とうとう堪えきれなくなった、という風である。
「あっはははは!
そうですか。なるほどなるほど。劉邦に蕭何ね。
まあ、天子の剣については、ふさわしい持ち主を見つけなさったと思いますよ。
しかし、よりにもよって、この私に元戎の剣を売ろうとは。
私は無名の小物。大将にふさわしい徳など無い。剣に名前負けしてしまいますよ」
張良は、ここで初めて、韓信へ身を乗り出した。
「韜晦(真の力を隠すこと)は、もうお止めなさい。
韓信様が胸の中に抱いておられる軍略は、古の孫子・呉子にも優るもの。
しかし、いまだに良い主君に出会っておられないのです。
1日に千里を駆ける名馬でも、伯楽(馬を見極める目利き)に出会えなければ、狭い馬小屋に押し込められ、奴隷の手でいいように扱われてしまう。
これでは普通の馬と同じ程度の働きしかできない。
しかし、もし一度、確かな見る目を持った伯楽に出会ったら?
馬はたちまち千里を駆ける麒驥(駿馬)となる。絶塵逐電、塵さえ立てず電を逐い走ること天下無双でございます。
それゆえ、古代の人も『北に向って一声嘶けば天の彼方まで駆けて行く。風に向かって斜めに構え、太陽の元から駆け戻る』と言いました。
韓信様は、これまで他人の後ろに付き従うばかりで、良い主君に出会えなかった。
だから、あなたが元戎の才能を秘めていることに、人々が気づかないのです。
もし良い主君の元で働けば。あなたの計が用いられれば。あなたの言葉に従って国が動けば。
あなたは風や雲の流れさえ変え、天地をも揺り動かし、座ったままで中原(中国中心部)を鎮圧し、9代先の子孫まで続く栄誉を受けることができましょう。
位人臣を極めるとはこのこと……どうして今のように平々凡々としておられましょうか」
韓信は、深く深く溜め息をついた。
韓信の心は、しきりに揺れ動いていた。これまで他人にはほとんど認められてこなかったが、己の能力に対しては揺るぎない自信を抱いている韓信だったのだ。
韓信は言う。
「あなたの言葉は、さながら肝臓胆嚢を照らし出すかのように、私の心を言い当てている。
そう、あなたの仰る通りだ。
楚に仕えてずいぶんになるが、私の謀は一つたりとも用いられず、進言は尽く却下されてきた。
最近も、何度となく遷都をやめるよう諌めたのだが、項羽はついに用いなかった。
項羽は、范増と季布を派遣して、彭城に新しい都を建設させている。
これでもう、項羽の敗北は決まったようなものだ。
そういうわけで、負け戦に巻き込まれる前に、さっさと逃げて故郷に帰ろうかと思ってね」
張良が言う。
「韓信様。あなたの考えは間違っている。
『良い猛禽は木を選んで棲み、賢い臣は主を選んで補佐する』という言葉があります。
あなたほどの大きな才能を、淮陰の一漁師などで終わらせてよいものですか」
韓信は苦笑した。
「……で、漢王劉邦に仕えよ、と言うのだね?
韓国の張子房殿」
張良は、口許に笑みを浮かべ、立ち上がった。張良が、改めて丁重に礼をする。
「さすが、見抜かれてしまいましたか。そう、私が韓国の張良です」
韓信は声を上げて笑う。
「あなたの言葉は、まことによく人の心を動かす。
張良先生は、まさしく人間社会に紛れこんだ龍……人中の龍でいらっしゃるな。
よいでしょう。項羽の元を去り、漢王陛下のところへ参ろう。
そちらで何か計画があるなら伺っておきたいが?」
張良は、うなずいた。
「よくぞご決断くださった。
漢王劉邦様は、心が広く、仁愛を大切にする立派なお方。いまは漢中に身を屈しておられますが、最後には大事業を成しとげるでしょう。
さて、漢王様の元へ行かれるなら、これをお渡ししておきましょう」
張良は、懐から、厳重に封印された紙包みを取り出した。
「先日、漢王様と別れたとき、蕭何殿と約束をしました。
『楚を打ち破る大元帥を見つけたら、この割符を持たせてそちらへ向かわせます』とね。
これが、その割符です。もう半分は蕭何殿が持っております。
これを持参なされば、蕭何殿が全て便宜を図ってくださるでしょう。失くさないでくださいね」
韓信は割符を受け取り、手の中で弄びながら尋ねた。
「なるほど、念入りなことだ。
しかし、蜀の桟道は、張良先生が焼き払ってしまったのでしょう。
私はどうやって漢中へ入ればよいのです?」
張良は、今度は袋の中から地図を取り出した。
「実は、別の道があるのです。この図をごらんください。
まず山際の小道から斜岔を経由して陳倉に入り、孤雲嶺と両脚山を回り込んで鶏頭山に出、そこから漢中に下る。
この経路ですと、通常より200里(80km)ほど近道になります。
韓信殿がいつか軍勢を起こして打って出るときには、逆に、この道から秦に入って、まず三秦を占領なさいませ。
この道を知る者は、数少ない。我らの戦略の要となる道です。
韓信殿、よくよく心中に隠し、他人には知らせないように」
韓信が、うなずく。
「無論、誰にも教えませんよ。
張良先生の方は、これからどうなさるおつもりか?」
「私は、こちらに残って、もうすこし仕事をしておこうと思います。
項羽が都を遷そうとしている今が好機だ。
名高い説客の蘇秦のように、諸侯に遊説(各地を旅して策を説くこと)して、楚に対して謀反を起こさせます。
そうすれば、項羽は東方での戦いに戦力を奪われ、西方に向かう余裕を失うでしょう。
その間に、韓信殿は漢中で人馬を鍛え、十分に準備が整ったところで三秦を攻め取り、関中を平定してください。
そして、最終的には天下を手中に収めるのです」
*
その夜、張良は韓信の陣に泊まりこみ、夜を徹して綿密に計略を議論した。
翌朝、張良が立ち去ると、韓信は、てきぱきと旅行の準備を始めた。
そして周囲の人々には、「故郷の淮陰に帰り、親しい人々に会おうと思うのだ」と、何食わぬ顔で触れまわったのだった。
(巻五へ、つづく)
■次回予告■
王命を受け遷都を進める苦悩の范増。帝を帝とも思わぬ項羽の勝手な要求に、義帝は怒りを爆発させる。
思い上がる覇王。力無き義帝。一度割れた君臣の縁は二度と元には戻せない。のっぴきならぬまでに不和深まるその時、項羽は恐るべき暴挙に出る。
次回「龍虎戦記」第二十五回
『さあ陛下、龍宮城へ行きましょう』
乞う、ご期待!