龍虎戦記 項羽vs劉邦【翻案・通俗漢楚軍談】   作:外清内ダク

64 / 197
巻五 韓信、国士無双なり
二十五の上 さあ陛下、龍宮城へ行きましょう


 

 

 覇王項羽は、人々の諌言(かんげん)に耳を貸さず、故郷彭城(ほうじょう)への遷都(せんと)を実行に移し始めた。

 まずは彭城(ほうじょう)にいる范増(はんぞう)へ使者を送り、

「早く義帝に郴州(ちんしゅう)御幸(みゆき)(天子が移動すること)していただけ」

 と、()めるように催促(さいそく)した。

 

 以前に諌言(かんげん)した通り、范増(はんぞう)遷都(せんと)に反対である。

 しかし臣下として、君主からの命令に(そむ)くわけにもいかない。

 范増(はんぞう)は、苦渋(くじゅう)の思いで義帝に謁見(えっけん)し、郴州(ちんしゅう)行幸(ぎょうこう)御幸(みゆき)と同義)するよう願い出た。

 

 対する義帝の表情は、固い。

 今は()項梁(こうりょう)擁立(ようりつ)されて()王の(くらい)についたとき、義帝は13歳であった。

 あれから2年……15歳の青年となった義帝は、勝手極まる項羽の要求にきちんと怒れるだけの自我を、すでに芽生(めば)えさせていたのだ。

 

 義帝は、玉座から范増(はんぞう)を刺すように見下(みお)ろした。

范増(はんぞう)よ」

「……は」

 

(いにしえ)より、主君とは命令を出す者だ。

 そして臣とは、主君の命令を受け取って、それを下々(しもじも)へ通達する者だ。

 かつて項羽は(ちん)を立てて主君とし、天下の人々の願望を実現した。それゆえに各地の諸侯が先を争って傘下(さんか)に加わり、ついに(しん)を滅ぼすことができたのだ。

 

 (ちん)は以前に約束したな? 『先に関中に入った者を王とする』と。

 だが項羽はその約束に(そむ)いて自分が王となったばかりか、勝手(かって)放題(ほうだい)に政治を動かし、あまつさえ(ちん)を遠い郴州(ちんしゅう)などへ流そうとしている。

 

 最初は(ちん)の下にいたのに、今は(ちん)の上に立とうとしている。

 これでは、頭に(くつ)をかぶり、足に(かんむり)をはくようなもの。まったくもって人臣(じんしん)の礼を(しっ)する行為だ。

 

 范増(はんぞう)

 (なんじ)は項羽の亜父(あふ)だろう。父なら息子の(あやま)ちを、言い争ってでも(いさ)めて正すべきではないのか!

 

 それなのに、のこのこ(ちん)の元へ来て『ここから立ち退()け』などと言う。

 まるで()王朝を滅ぼした桀王(けつおう)の悪事を手助けするかのようだ。

 范増(はんぞう)、自分の行いが恥ずかしくはないか!?」

 

 范増(はんぞう)は、(かわ)ききった老体を、折りたたむように小さくして、地に拝伏した。

「恥ずかしゅうございます。情けのうございます。

 しかし、臣がしきりに(いさ)めても、覇王は全く耳を貸しません。

 

 それどころか、季布を(つか)わして、催促(さいそく)までしてまいりました。

 日時を決めて咸陽(かんよう)を出発し、すぐにでも彭城(ほうじょう)(みやこ)(うつ)そうと考えているようです。

 

 私は……板挟(いたばさ)みでございます。

 ただ、覇王の(めい)じるままに動くことしかできませぬ……」

 

 義帝は憤懣(ふんまん)やるかたなく、吐き捨てるように言った。

「つまり、(なんじ)は主君に()びへつらうだけの小人(しょうじん)ということだな。

 正しき道を貫いて主君に仕える大臣の(うつわ)ではない」

 

 痛烈。あまりにも痛烈な批判(ひはん)

 だが范増(はんぞう)は、一言(ひとこと)も言い返すことができなかった。

 義帝に指摘されるまでもなく、他ならぬ范増(はんぞう)自身が、同じ言葉で自分を()め続けていたからである。

 

 

   *

 

 

 結局、范増(はんぞう)は何もできないまま、咸陽(かんよう)へ早馬を飛ばした。

『どれほど申し上げても、義帝は決して彭城(ほうじょう)を離れようとなさいません』

 

 この報告を受けた項羽は、いつものように激怒した。

「義帝なんか、もともとは、ただのガキだった!

 それを俺と項梁(こうりょう)叔父(おじ)(うえ)が立てて君主にしてやったんだぞ!

 それなのに俺の言うことを聞かないなんて……!

 

 そうか。義帝は、劉邦と心を合わせて俺を殺そうと(たくら)んでるんだな!?

 (おん)(あだ)で返しやがって……早くなんとかしないと、後で大変なことになるぞ」

 

 項羽は、九江王の英布、衡山(こうざん)王の呉芮(ごぜい)、臨江王の共敖(きょうごう)を呼び出し、こう(めい)じた。

「お前たち、兵を(ひき)いて東方へ生き、長江の(ほとり)に伏兵して、義帝が来るのを待て。

 俺は范増(はんぞう)と季布に催促(さいそく)して、無理やりにでも義帝を郴州(ちんしゅう)へ移らせる。

 

 義帝が長江を渡ろうとしたとき、お前たちは出迎えのフリをして近づき、義帝を斬殺して長江に沈めろ。

 その後は『大風(おおかぜ)によって義帝の舟が転覆(てんぷく)してしまった』と()れ回って、天下の人々が批判するのを防ぐんだ」

 

 そして項羽は、義帝へ(ひょう)を送った。

 その内容は――

 

西楚(せいそ)の覇王、臣項籍(項羽)、稽首(けいしゅ)頓首(とんしゅ)して申し上げる。

 これまでのことを思い返してみれば、私は陛下から(めい)(うけたまわ)って(しん)を打ち破り、咸陽(かんよう)に入り、(しん)子嬰(しえい)に首を差し出させました。

 

 その後、国の法律を改正し、陛下を(あお)(とうと)んで義帝といたしました。これは、天下の(まこと)(あるじ)です。

 

 しかし、彭城(ほうじょう)は南北の道が合流する要衝(ようしょう)で、武力を用いるにこそ適した土地です。

 陛下がお住まいになるには、まったくふさわしくありません。

 

 対して、郴州(ちんしゅう)湖南(こなん)地方の郡。左に洞庭(どうてい)()あり、右に彭蠡(ほうれい)()あり。山も川も秀麗(しゅうれい)な、まさに帝王の(みやこ)です。

 陛下には、そちらへ御幸(みゆき)なさって、天下をのんびりと(なが)め見ていただきたい。

 

 今、つまらない連中がつまらないことを言って、陛下が私のお願いに従わないよう仕向(しむ)け、主君と臣下がお互い疑いあうような状況に落とし入れようとしています。

 一方、郴州(ちんしゅう)の住民たちは、陛下のお車を歓迎しようと、酒や食べ物を用意し、道を(ふさ)ぐほどに大勢あつまって、一日中お待ちしているのです。その費用だけでも、一日に1万金を下回らないほどです。

 

 (たみ)の上に立つ天子として、これをどう思われますか。

 以上、陛下の忠実な臣下である項籍が、再び上書(じょうしょ)して申し上げました。どうか(すみ)やかにご判断ください。この思い、耐えがたいまでに激烈です』

 

 

   *

 

 

 義帝は、項羽からの表文(ひょうぶん)を読み終えると、苦しげな表情を左右の臣に向けた。

「項羽は、とにかく早く郴州(ちんしゅう)へ移れと言ってきている。これは完全に人臣の礼に反する行為だ。

 だが彭城(ほうじょう)にこれ以上長く留まっていたら、おそらく大変な事態が起きるだろう。

 もはや、どうしようもない。郴州(ちんしゅう)へ出発するしかないな……」

 

 かくして、義帝は日時を定め、郴州(ちんしゅう)へ向けて旅立った。

 

 その途中、彭城(ほうじょう)の人民が道に現れ、地に拝伏した。

「義帝陛下。あなた様がこの地にいらっしゃった数年間、村々(むらむら)は平和で、身分が高い者から低い者まで(みんな)仲良く暮らすことができました。

 陛下は、まことに徳のある君主でいらっしゃいます。

 

 このたび郴州(ちんしゅう)へお(うつ)りになると聞きました。またいつの日にか、陛下のご尊顔(そんがん)を拝見いたしとうございます」

 そう言って、民衆は義帝との別れを恋々(れんれん)()しんだ。

 

「そうか……そう言ってくれるか」

 義帝の目から涙がこぼれた。(うれ)し涙も(くや)し涙も混ざりあい、止めどなく、止めどなく、流れ続けた。

 

 ()王の末裔(まつえい)に生まれながら、奴隷(どれい)となって不遇(ふぐう)の少年期を過ごした義帝。

 そんな彼が、一つ一つ手探りで手の届く範囲に精一杯(せいいっぱい)の善政を()いてきた。その成果が今、民衆の言葉となり、義帝の胸を満たしてくれているのであった。

 

 

   *

 

 

 しばらく道を進み、義帝一行は長江の岸辺にやってきた。

 そこで長江を渡るべく舟に乗り込んだが、(おり)()しく、強風が吹いて水面に白波が立ち始めた。

 風はどんどん強くなり、ついに舟の帆柱(ほばしら)が折れてしまった。

 しかたなく義帝一行は岸辺に舟を()め、今夜一晩(ひとばん)は風が収まるのを待つことにした。

 

 その夜、義帝は夢を見た……

 

 夢の中で、義帝は龍舟(りゅうしゅう)舟首(せんしゅ)に龍の飾りをつけた舟)の上に立っていた。

 周囲を見ると、神々しく五色(ごしき)に輝くめでたい雲が、厚く立ち込めて舟の周りを(おお)っている。

 さらには(かぐわ)しい風が流れてきて、この世のものとは思えぬような音楽が、どこからともなく聞こえはじめた。

 

 そのとき、

「陛下」

 突然、義帝は背後から声をかけられた。

 

 驚いて振り返れば、2人の金童(きんどう)と1人の玉女(ぎょくじょ)が舟の上に立っている。

 金童(きんどう)玉女(ぎょくじょ)とは、仙人に仕える少年少女のこと。いずれも、息を飲むほどに神秘的な美男美女である。

 

 玉女(ぎょくじょ)が、鈴の鳴るような美声で、ささやいた。

「さあ陛下、龍宮(りゅうぐう)(じょう)へ行きましょう。

 陛下にご挨拶(あいさつ)するため、龍宮(りゅうぐう)の百官がお待ちしております」

 

 

(つづく)

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。