龍虎戦記 項羽vs劉邦【翻案・通俗漢楚軍談】   作:外清内ダク

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二十五の下 さあ陛下、龍宮城へ行きましょう

 

 

 義帝は、たじろいだ。

 中国では、古くから龍が信仰されてきた。この世には東西南北の水域を()べる4人の龍王がいて、水の底に宮殿を(かま)えているという。それが龍宮(りゅうぐう)である。

 

 すなわち龍宮(りゅうぐう)は、神の領域。人間が生きたままで到達できる場所とは、とうてい思えない。

 義帝は恐れて(あと)ずさり、必死に首を横に振った。

(ちん)郴州(ちんしゅう)へ行くところなのです。この場所に留まることはできません」

 

 金童(きんどう)が、(かね)()の響くように、言った。

「世界すべてを()べる天帝の(めい)を受け、龍宮(りゅうぐう)では、御座(ござ)を用意して陛下をお待ちしております。

 龍宮(りゅうぐう)の百官は(みな)朝服(ちょうふく)(正装)を(まと)い、(もん)まで出迎(でむか)える準備を整えているのです」

 

 義帝は、目に涙を浮かべて、必死に首を振り続けた。

龍宮(りゅうぐう)は、人間の居場所(いばしょ)ではありません。どうして(ちん)がそこへ行かねばならないのです?」

 

 金童(きんどう)が、気味が悪いほどの(きよ)らかさで微笑(ほほえ)んだ。

「義帝陛下は、まことに君主の徳をお持ちですから、本来なら高貴の(くらい)にいらっしゃるのが当然です。

 しかし、赤帝(せきてい)の子が時を得て立ち上がり、極めて大きな福徳(ふくとく)を発揮する予定になっております。

 

 そこで、天帝は(みことのり)(くだ)されました。

 義帝陛下は赤帝(せきてい)の子に譲位(じょうい)なさり、龍宮(りゅうぐう)へお(うつ)りくださるように、と。

 

 これは、さだめ。

 天帝のご決定には、何人(なんぴと)たりとも逆らえません。

 ご安心なさいませ。義帝陛下は、天界の最上部たる九天の聖人たちに加わり、水府(すいふ)(水中の(みやこ))をお治めいただくことになっておりますから」

 

 これを聞くや、義帝は金童(きんどう)玉女(ぎょくじょ)に背を向けて逃げだした。

 舟から飛び降りようとしたその時、水面から強烈な光が発して天を貫いた。

 激しい波の音が音楽の如く響き渡り、義帝の意識は薄れ……

 

 

   *

 

 

 そこで義帝は目を覚ました。

 

 どこかから、三更(さんこう)(午後11時頃)を告げる(つづみ)の音が聞こえてくる。

 義帝は、周囲に広がる暗闇の冷たさに身震(みぶる)いして、近侍(きんじ)の臣を呼んだ。

 

 近侍(きんじ)の臣は、灯りを手にして、すぐさま義帝の寝床へやってきた。

「お()しにございますか」

 

「うん。

 今、奇妙な夢を見たのだ。誰か(くわ)しい者がいたら、夢占いをしてくれ」

 

 義帝は、見たばかりの夢について、語り聞かせた。

 近侍(きんじ)の臣たちは、その夢のなんともいえない気味(きみ)(わる)さに、青ざめながら口を(そろ)えた。

 

「さきほども白波(しらなみ)に舟が(はば)まれ、大風によって帆柱(ほばしら)が折れました。

 そのうえ今宵(こよい)の不気味な御夢(おゆめ)……

 

 これは不吉の(きざし)です。

 夜が明けたら、すぐに舟を降りて、彭城(ほうじょう)へお戻りなさいませ」

 

 義帝は首を横に振った。

(ちん)は、すでに彭城(ほうじょう)を出てしまったのだ。今さら戻るのは道理に反している。

 

 しかも、夢で見たことが正しいとすれば、これから何が起きるにせよ、それは天命だ。

 人間の力でどうこうできるはずがない。怖れることはない」

 

 

   *

 

 

 翌日、その言葉通りに義帝は舟を出した。

 

 岸辺を離れ、長江の真ん中あたりまで進んだところで、向こう岸から何艘(なんそう)もの大船が近づいてきた。

 

 大船の上に乗っているのは、項羽配下の九江王英布、衡山(こうざん)呉芮(ごぜい)、臨江王共敖(きょうごう)

 この3大将の軍勢が、義帝を待ち構えていたのである。

 

 英布が、大船から声を張り上げる。

「我ら臣3人、覇王項羽様の(めい)を受け、義帝陛下をお(むか)えに参りました!

 我らが()()()()()した証拠として、陛下がお持ちの玉符(ぎょくふ)(王の使者の(あかし))と金冊(きんさく)(金箔を貼った詔書(しょうしょ))を、こちらへお渡しいただきたい!」

 

 義帝は、舟の上に足を踏ん張り、負けじと怒鳴(どな)り返した。

(なんじ)らは(いん)紂王(ちゅうおう)を助けて悪事を為すようなものだ!

 川の上で兵を(ひき)いて待ち構えているとは、(ちん)を殺すつもりであろう!」

 

 英布、呉芮(ごぜい)らの軍勢は、義帝の言葉に耳さえ貸さず、急速に船を寄せた。

 体当りするような勢いで接舷(せつげん)するや、刀を抜いて義帝の舟に乗り移り、そこらにいた人間という人間を手当たり次第に()ぎ払う。

 

 義帝の供のうち、斬られて死ぬ者が数十人。どうにか生きのびようと川に飛び込み(おぼ)れ死ぬ者は、なお多い。

 義帝の目の前で血しぶきが飛び、悲鳴が(とどろ)き、血臭(けっしゅう)がムセかえるほどに立ち込める。

 

 義帝は奥歯を()みしめ、西の空を刺すように、にらんだ。

 あの空の向こうにいる覇王へ向けて、義帝はあらん限りの声を振りしぼる。

「項羽ッ! 逆賊めッ! 貴様に天罰が下らぬはずがない!」

 

 そう叫んだ義帝は、みずから長江へと飛びこみ、沈んでいった……

 

 英布はそのまま、舟中(ふねじゅう)の人々を殺し尽くし、自分の大船に戻った。

 すると、長江の南岸から、大勢の人々の叫び声が聞こえてきた。

 南岸には、義帝を歓迎(かんげい)しようと、たくさんの民衆が集まっていたのである。

 

 彼らは英布めがけて(わめ)いた。叫んだ。

「見ていたぞ、逆賊英布!

 お前は項羽の悪事の片棒をかついで、罪もない義帝様を殺し、天下を奪おうとしている!

 我々は、このことを天下に知らせてやる! 義帝のためにお(とむら)いをし、正しい君主にお前たちを誅殺(ちゅうさつ)してもらうんだ!」

 

 英布は、この罵倒(ばとう)に舌打ちした。

「目撃者がいたか……くそっ、面倒(めんどう)な。

 誰が好き(この)んで、こんな汚れ仕事をするものか!」

 

 英布は目撃者たちを抹殺(まっさつ)すべく、大船を南岸の方へ向けた。

 

 だがその時、突如として風向きが変わった。

 すさまじい向かい風が英布らの船に吹き寄せてくる。南岸へ行こうにも、船が風にあおられて、ピクリとも前へ進まない。

 

 仕方なく英布らは目撃者の始末を(あきら)め、風に吹かれるまま北岸へ上陸し、彭城(ほうじょう)へと進み始めたのだった。

 

 

   *

 

 

 この一部(いちぶ)始終(しじゅう)を見ていた南岸の人民は、悲しみ、泣き叫びながら、バラバラと、その場を立ち去り始めた。

 が、1人の老翁(ろうおう)が、じっと長江を見つめて立ち止まっている。

 

 (よわい)80歳にもなるこの老翁(ろうおう)は、人々から董公(とうこう)と呼ばれている。

 広く書を読み、物事の道理をよく知っていたので、地元(じもと)では、みんなから(うやま)われている人物である。

 

 董公(とうこう)が、立ち去ろうとする人々に向かって言った。

「みんな、ちょっと待ってくれ。

 義帝は、徳のある君主でいらっしゃった。このまま放っておくのは、あまりに(むご)い……

 

 わしらで川の中を(さぐ)り、亡骸(なきがら)を引き上げようじゃないか。

 郴州(ちんしゅう)へお送りし、せめてきちんとお(とむら)いをしよう。

 

 そして、いつか漢王劉邦様を(むか)えて我らの主君とし、義帝のために(かたき)()っていただこう」

 

 人々は、みんな、

「もっともだ」

 と同意して、協力を申し出た。

 董公(とうこう)は、若者や働きざかりの男を選び、長江の中を(さぐ)らせた。

 

 すると……日が沈んですっかり暗くなった頃。

 月光が照らす水面に、人間らしき影が流れているのが見つかった。

 

 いそいで岸へ引き上げ、松明(たいまつ)(かか)げてよく見れば、それは全裸の男の水死体であった。

 しかし不思議なことに、生きているかのように鮮やかな顔色をしている。

 

 人々は、顔を見合わせた。

「ひょっとして、これが義帝様かな?」

「しかし、わしらは義帝様のお顔を知らないからなあ」

「いや、よく見てみよ」

 

 董公(とうこう)が、遺体(いたい)の足に目を向けた。

 遺体(いたい)の両足には、(ぎょく)で作られた()()められている。見事な龍が彫刻(ちょうこく)された、目を見張るほどにすばらしい品である。

 

「ただの人が、こんな見事な玉環(ぎょくかん)を身に着けているはずがない。

 このお(かた)こそ、義帝に間違(まちが)いあるまい」

 

 人々は遺体(いたい)を清潔な布で包み、(こう)()き、祭祀(さいし)を行うと、郴州(ちんしゅう)に送って丁重(ていちょう)埋葬(まいそう)した。

 それゆえ、郴州(ちんしゅう)には今でも義帝の墳墓(ふんぼ)が残っており、地元の住民は季節ごとの祭礼(さいれい)を欠かさず続けているのだという。

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

■次回予告■

 

 邪魔な義帝を弑逆(しいぎゃく)し、意気(いき)揚々(ようよう)遷都(せんと)準備を進める項羽。忠臣たちの諌言(かんげん)さえも、もはや彼の耳には入らず、覇王は己一人の道を突き進んでいく。

 そんな中、韓信がひそかに漢へ向けて旅立つ。その天才を劉邦に渡すまいと刺客(しかく)を差し向ける范増(はんぞう)。危機に(おちい)った韓信の命運や、いかに?

 

 次回「龍虎戦記」第二十六回

 『逃げよ、韓信』

 

 ()う、ご期待!




●注釈
(1)
 龍宮について。
 日本では、龍宮といえば「浦島太郎」の乙姫様の住まい、というイメージがあるが、中国においては龍王の居城という方が一般的である。
 中国における龍は、水を司る神獣にして神。その中でも特に強大な4人が四海(しかい)龍王、すなわち東海龍王敖廣(ごうこう)、南海龍王敖欽(ごうきん)、西海龍王敖閏(ごうじゅん)、北海龍王敖順(ごうじゅん)である。(各々の名前は文献によって異同がある)
 龍王というといかにも強そうだが、実際は神々の最高権力者たる天帝の下で働く、中間管理職という印象が強い。
 龍王が担当する仕事は、主に雨や風の制御。普段は適切な量の雨を降らせて地上に恵みをもたらしているが、君主が悪政を行った場合などには、天帝の命に従って、日照り、あるいは洪水など水にまつわる天罰を加えたりもする。
 「西遊記」などを読むと、雨を降らせる量なども天帝に厳しく監督されており、天命無しには何一つ好き勝手にできない宮仕(みやづか)えの悲哀を感じられて、なんとも切ない。神々も人間世界の朝廷のような厳格な官僚制度で動いている、というのが、中国の神話世界観の面白いところである。
 というか、「西遊記」における龍王は、孫悟空に乗り込まれ恐喝されて如意棒などの宝物を奪われたり、天竺への旅の途中で孫悟空にいいようにコキ使われたりと、たいへんかわいそうな扱いを受けている……

(2)
 『郴州(ちんしゅう)には今でも義帝の墳墓(ふんぼ)が残っており』という部分の『今』は、基本的には「西漢通俗演義」が執筆された16世紀のことを指している。
 だが驚くことに、それから400年以上経過した現在もなお、義帝(りょう)はきちんと残っているらしい。所在地は、現在の湖南(こなん)郴州(ちんしゅう)市。歴代の現地地方官によって何度も修繕されながら、今に至るまで維持・保存されてきたのだそうだ。2013年には、中華人民共和国の全国重点文物保護単位(我が国でいうところの重要文化財のようなものか)にも認定されたという。
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