龍虎戦記 項羽vs劉邦【翻案・通俗漢楚軍談】   作:外清内ダク

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二十六の上 逃げよ、韓信

 

 

 義帝を殺害した英布、呉芮(ごぜい)らは、兵を撤収(てっしゅう)させて彭城(ほうじょう)に入った。

 

 彭城(ほうじょう)には、亜父(あふ)范増(はんぞう)滞在(たいざい)している。

 范増(はんぞう)は、英布たちを見て(まゆ)をひそめた。

「そなたらが来るとは聞いていないぞ。何かあったのか?」

 

 英布は、悪びれる様子もなく言う。

「ここへ来る前に、義帝を殺して参りました」

 

 范増(はんぞう)は顔色を変えた。

「なに!? どういうことだ、それは!」

 

 英布たちは、包み隠さず事情を語った。

 全て聞き終えた范増(はんぞう)は、天を(あお)いで溜め息をつく。

「なんということをしてくれたのだ……

 義帝は、かつて私と武信君(ぶしんくん)項梁(こうりょう)が君主として立てたお(かた)

 ()国再興という人民の願いを背負(せお)う人物だったのだぞ。

 それを、まさか暗殺してしまうとは!

 

 人として、臣として、これは言語(ごんご)道断(どうだん)暴挙(ぼうきょ)だ。

 このうえ彭城(ほうじょう)遷都(せんと)などしてみよ。『私利私欲のために義帝を追い出して殺した』という世間からの批判(ひはん)は、もう二度と止められなくなる。

 

 すぐに行って覇王を(いさ)めねばならぬ。いま咸陽(かんよう)を離れたら、100日と()たないうちに漢王劉邦が攻撃してくるぞ」

 

 季布が、露骨(ろこつ)な恐怖の色を顔に浮かべる。

「しかし范増(はんぞう)様。

 遷都(せんと)(いさ)めた韓生は、()(ころ)されてしまったのですよ」

 

 范増(はんぞう)が、季布を鋭く、にらみつけた。

「劉邦が攻めてきたら、どのみち我らは全員捕虜(ほりょ)にされるのだ。

 生き残りたいなら、みなで(いさ)めて遷都(せんと)を思いとどまらせる以外に道はない!」

 

 かくして范増(はんぞう)は、彭城(ほうじょう)の防衛を季布に任せ、他の諸将を連れて、足早に咸陽(かんよう)へ帰還していった。

 

 

   *

 

 

 さて、范増(はんぞう)たちが咸陽(かんよう)に戻ってみると、街がどうも(さわ)がしい。

 咸陽(かんよう)に残っていた大将たちや軍勢が、「2、3日のうちに出発だ」などと言い、こぞって旅の用意をしていたのである。

 

 これはもう、一刻(いっこく)猶予(ゆうよ)もない。

 范増(はんぞう)たち一行は、すぐさま覇王項羽に謁見(えっけん)した。

 

 まず、英布たちが義帝殺害の報告をすると、項羽は大喜びした。

「よしよし! 俺の腹の中にあった病気の種が、これで消えたぞ!」

 

 范増(はんぞう)が、項羽を()めるように()め寄った。

「『腹の中の病気』と呼ぶべきものは、義帝などではありません。

 漢王劉邦! 奴こそ最も危険な(まこと)(やまい)だ。

 

 もし覇王様が咸陽(かんよう)を離れて彭城(ほうじょう)(うつ)りなさったら、漢王は遠からず()(しょく)から攻めのぼってくるでしょう」

 

 この諌言(かんげん)を、項羽は、なんとも気楽な調子で笑い飛ばした。

「まさか! 桟道(さんどう)は焼け落ちてしまったし、三秦(さんしん)章邯(しょうかん)たちが厳重に守っている。

 たとえ漢王に(はね)()えてたとしても出てくることはできないさ」

 

 范増(はんぞう)が言う。

章邯(しょうかん)が、しっかり守っておれば、確かにそうでしょうな。

 だが覇王陛下が(みやこ)(うつ)しなさったら、章邯(しょうかん)たちは必ず気が(ゆる)んで(なま)けはじめます。

 

 しかも、漢王劉邦は大いなる(こころざし)を持っておるのだ。桟道(さんどう)が焼けた程度のことで、どうして野望を(あきら)めようか。

 

 間違(まちが)いなく、奴は来る。

 多くの英雄を配下に加え、覇王陛下と優劣を(きそ)わんとして出てくるでしょう。

 遷都(せんと)は、劉邦に対して(すき)(さら)す結果にしかなりません。絶対に、いけませぬ」

 

 しかし項羽は聞き入れなかった。

 項羽は、近頃(ちかごろ)よく見せるようになった不快の表情を范増(はんぞう)に向け、苛立(いらだ)ちを隠そうともせずに言い返した。

 

「俺はもう号令を出したんだ! 文官も武官も、みんな旅行の準備を整えてしまった。今さら止められるもんか!

 亜父(あふ)は、ちょっと心配しすぎだ。劉邦みたいな無能のことを、いつまでもグダグダと……」

 

 ここで英布も口を挟んだ。

「自分も范増(はんぞう)殿に賛成です。

 物事は、事前によく計画を練っておくことが、まず肝要(かんよう)

 そして、戦機(せんき)見極(みきわ)めるのは、遠方からでは難しいものです。

 

 最近では、諸侯の中にも、陛下に(そむ)いて逃げ去る者が増えてきております。

 そのうえ覇王陛下が咸陽(かんよう)を離れなさったら、おそらく人々の気が(ゆる)み、この地を守りきれなくなりましょう。

 どうか、先を見据(みす)えて熟考(じゅくこう)してくださいませ」

 

 ここまで一度たりとも項羽に反発したことがない英布の、初めての諌言(かんげん)である。

 だがそれも、火に油を注ぐ結果にしか、ならなかった。

 

 項羽は声を(あら)げる。

「俺は会稽(かいけい)で義兵を立ち上げてから、向かうところ敵なしだ!

 逃げ去る奴なんかは能無(のうな)しだ! 逃げられて惜しむだけの価値もない奴ばかりだ!

 

 遷都(せんと)のこと、俺はもう決めたんだ。もう二度と(いさ)めるんじゃないぞ!

 もし今度止めようとしたら、韓生みたいになると思え!」

 

 結局。

 誰も項羽に遷都(せんと)を思いとどまらせることができず……

 范増(はんぞう)は、大きく溜め息をついて退出した。

 

 

   *

 

 

 同じ頃。

 張良によって心を動かされた韓信は、漢王劉邦の元へ行こうと考えていた。

 

 しかし、下手(へた)な動きは見せられない。

 かつて范増(はんぞう)は、『韓信を用いよ。用いないなら、いっそ殺せ』と項羽に助言したのだ。

 もし韓信が劉邦の元へ行く気配を見せたら、范増(はんぞう)が韓信の抹殺(まっさつ)を狙ってくるかもしれない。

 

 そこで、ある夜。

 韓信は、ある人物の家を(おとず)れた。

 

 その人物とは、都尉(とい)陳平(ちんぺい)である。

 ここまでの言動から、陳平(ちんぺい)には劉邦に味方しているフシがある、と韓信は読んでいたのだ。

 

 陳平(ちんぺい)に対面すると、韓信はこう切り出した。

「覇王様は、(みやこ)彭城(ほうじょう)(うつ)そうとしておられますね。

 となれば、おそらく漢王劉邦が漢中から出てきて、咸陽(かんよう)占領(せんりょう)するだろうと思いますが?」

 

 陳平(ちんぺい)は苦い顔。

「……そうだろうな。

 覇王は、彭城(ほうじょう)(うつ)るために、邪魔な義帝を殺しさえした。

 せっかくの忠言(ちゅうげん)拒絶(きょぜつ)して諌議(かんぎ)大夫(たいふ)韓生(かんせい)()(ころ)したし、他の(みな)からの諌言(かんげん)も全て却下(きゃっか)してしまったよ。

 

 この政権は、もう長くは続くまい……

 

 それに比べて、漢王劉邦は、よくできたお(かた)だ。いずれ大事(だいじ)を成しとげるだろう。

 韓信君。君もこんなところで無駄に時間を過ごしているより、はやく()(そむ)いて、その大きな才能を天下に()かしたらどうかね」

 

 韓信は、うなずいた。

「そのつもりです。

 しかし、漢へ行こうにも道々(みちみち)関所(せきしょ)があり、簡単には通行できないので困っているのです」

 

 陳平(ちんぺい)は、口元(くちもと)に笑みを浮かべた。

「なるほど、それで私のところへ来たわけか。

 これまた簡単なことよ。

 私の働く官庁には、関所(せきしょ)印信(いんじん)批文(ひぶん)印鑑(いんかん)()した通行許可証)がある。

 それを1枚、御辺(ごへん)に差し上げよう。

 批文(ひぶん)さえあれば、なんの苦労もなく関所(せきしょ)を通れる」

 

 韓信は深々と拝謝(はいしゃ)した。

「すばらしい。批文(ひぶん)をいただけるなら、その価値は千金の(たまわ)り物にさえ(まさ)ります。

 私が漢国で(こころざし)()げることができたなら、この御恩(ごおん)は決して忘れませんよ」

 

 陳平(ちんぺい)は、家の奥から批文(ひぶん)を持ってきて、韓信へ手渡した。

「韓信殿、漢王の元でよく働きたまえよ。

 遠からず、私も漢に(くだ)るだろう。そのときは、よろしく」

 

 こうして韓信は、批文(ひぶん)()て家に帰った。

 

 その翌日。韓信は、陣門の門番たちに、こう()げた。

「今日は、ちょっと城外に出て友達と会ってくる。明日には帰れるだろう」

 

 実になにげない素振(そぶ)りだったし、これといって怪しむべき理由もない。門番たちは(うたが)いもせず、韓信の言うことを信じた。

 韓信は、そのままただ一騎で咸陽(かんよう)を出ると、西を目指して馬を走らせ始めたのだった。

 

 

(つづく)

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