義帝を殺害した英布、呉芮らは、兵を撤収させて彭城に入った。
彭城には、亜父范増が滞在している。
范増は、英布たちを見て眉をひそめた。
「そなたらが来るとは聞いていないぞ。何かあったのか?」
英布は、悪びれる様子もなく言う。
「ここへ来る前に、義帝を殺して参りました」
范増は顔色を変えた。
「なに!? どういうことだ、それは!」
英布たちは、包み隠さず事情を語った。
全て聞き終えた范増は、天を仰いで溜め息をつく。
「なんということをしてくれたのだ……
義帝は、かつて私と武信君項梁が君主として立てたお方。
楚国再興という人民の願いを背負う人物だったのだぞ。
それを、まさか暗殺してしまうとは!
人として、臣として、これは言語道断の暴挙だ。
このうえ彭城へ遷都などしてみよ。『私利私欲のために義帝を追い出して殺した』という世間からの批判は、もう二度と止められなくなる。
すぐに行って覇王を諌めねばならぬ。いま咸陽を離れたら、100日と経たないうちに漢王劉邦が攻撃してくるぞ」
季布が、露骨な恐怖の色を顔に浮かべる。
「しかし范増様。
遷都を諌めた韓生は、煮殺されてしまったのですよ」
范増が、季布を鋭く、にらみつけた。
「劉邦が攻めてきたら、どのみち我らは全員捕虜にされるのだ。
生き残りたいなら、みなで諌めて遷都を思いとどまらせる以外に道はない!」
かくして范増は、彭城の防衛を季布に任せ、他の諸将を連れて、足早に咸陽へ帰還していった。
*
さて、范増たちが咸陽に戻ってみると、街がどうも騒がしい。
咸陽に残っていた大将たちや軍勢が、「2、3日のうちに出発だ」などと言い、こぞって旅の用意をしていたのである。
これはもう、一刻の猶予もない。
范増たち一行は、すぐさま覇王項羽に謁見した。
まず、英布たちが義帝殺害の報告をすると、項羽は大喜びした。
「よしよし! 俺の腹の中にあった病気の種が、これで消えたぞ!」
范増が、項羽を責めるように詰め寄った。
「『腹の中の病気』と呼ぶべきものは、義帝などではありません。
漢王劉邦! 奴こそ最も危険な真の病だ。
もし覇王様が咸陽を離れて彭城へ遷りなさったら、漢王は遠からず巴蜀から攻めのぼってくるでしょう」
この諌言を、項羽は、なんとも気楽な調子で笑い飛ばした。
「まさか! 桟道は焼け落ちてしまったし、三秦は章邯たちが厳重に守っている。
たとえ漢王に羽が生えてたとしても出てくることはできないさ」
范増が言う。
「章邯が、しっかり守っておれば、確かにそうでしょうな。
だが覇王陛下が都を遷しなさったら、章邯たちは必ず気が緩んで怠けはじめます。
しかも、漢王劉邦は大いなる志を持っておるのだ。桟道が焼けた程度のことで、どうして野望を諦めようか。
間違いなく、奴は来る。
多くの英雄を配下に加え、覇王陛下と優劣を競わんとして出てくるでしょう。
遷都は、劉邦に対して隙を晒す結果にしかなりません。絶対に、いけませぬ」
しかし項羽は聞き入れなかった。
項羽は、近頃よく見せるようになった不快の表情を范増に向け、苛立ちを隠そうともせずに言い返した。
「俺はもう号令を出したんだ! 文官も武官も、みんな旅行の準備を整えてしまった。今さら止められるもんか!
亜父は、ちょっと心配しすぎだ。劉邦みたいな無能のことを、いつまでもグダグダと……」
ここで英布も口を挟んだ。
「自分も范増殿に賛成です。
物事は、事前によく計画を練っておくことが、まず肝要。
そして、戦機を見極めるのは、遠方からでは難しいものです。
最近では、諸侯の中にも、陛下に背いて逃げ去る者が増えてきております。
そのうえ覇王陛下が咸陽を離れなさったら、おそらく人々の気が緩み、この地を守りきれなくなりましょう。
どうか、先を見据えて熟考してくださいませ」
ここまで一度たりとも項羽に反発したことがない英布の、初めての諌言である。
だがそれも、火に油を注ぐ結果にしか、ならなかった。
項羽は声を荒げる。
「俺は会稽で義兵を立ち上げてから、向かうところ敵なしだ!
逃げ去る奴なんかは能無しだ! 逃げられて惜しむだけの価値もない奴ばかりだ!
遷都のこと、俺はもう決めたんだ。もう二度と諌めるんじゃないぞ!
もし今度止めようとしたら、韓生みたいになると思え!」
結局。
誰も項羽に遷都を思いとどまらせることができず……
范増は、大きく溜め息をついて退出した。
*
同じ頃。
張良によって心を動かされた韓信は、漢王劉邦の元へ行こうと考えていた。
しかし、下手な動きは見せられない。
かつて范増は、『韓信を用いよ。用いないなら、いっそ殺せ』と項羽に助言したのだ。
もし韓信が劉邦の元へ行く気配を見せたら、范増が韓信の抹殺を狙ってくるかもしれない。
そこで、ある夜。
韓信は、ある人物の家を訪れた。
その人物とは、都尉の陳平である。
ここまでの言動から、陳平には劉邦に味方しているフシがある、と韓信は読んでいたのだ。
陳平に対面すると、韓信はこう切り出した。
「覇王様は、都を彭城へ遷そうとしておられますね。
となれば、おそらく漢王劉邦が漢中から出てきて、咸陽を占領するだろうと思いますが?」
陳平は苦い顔。
「……そうだろうな。
覇王は、彭城へ遷るために、邪魔な義帝を殺しさえした。
せっかくの忠言を拒絶して諌議大夫の韓生を煮殺したし、他の皆からの諌言も全て却下してしまったよ。
この政権は、もう長くは続くまい……
それに比べて、漢王劉邦は、よくできたお方だ。いずれ大事を成しとげるだろう。
韓信君。君もこんなところで無駄に時間を過ごしているより、はやく楚に背いて、その大きな才能を天下に活かしたらどうかね」
韓信は、うなずいた。
「そのつもりです。
しかし、漢へ行こうにも道々に関所があり、簡単には通行できないので困っているのです」
陳平は、口元に笑みを浮かべた。
「なるほど、それで私のところへ来たわけか。
これまた簡単なことよ。
私の働く官庁には、関所の印信批文(印鑑を捺した通行許可証)がある。
それを1枚、御辺に差し上げよう。
批文さえあれば、なんの苦労もなく関所を通れる」
韓信は深々と拝謝した。
「すばらしい。批文をいただけるなら、その価値は千金の賜り物にさえ優ります。
私が漢国で志を遂げることができたなら、この御恩は決して忘れませんよ」
陳平は、家の奥から批文を持ってきて、韓信へ手渡した。
「韓信殿、漢王の元でよく働きたまえよ。
遠からず、私も漢に降るだろう。そのときは、よろしく」
こうして韓信は、批文を得て家に帰った。
その翌日。韓信は、陣門の門番たちに、こう告げた。
「今日は、ちょっと城外に出て友達と会ってくる。明日には帰れるだろう」
実になにげない素振りだったし、これといって怪しむべき理由もない。門番たちは疑いもせず、韓信の言うことを信じた。
韓信は、そのままただ一騎で咸陽を出ると、西を目指して馬を走らせ始めたのだった。
(つづく)