咸陽と漢中の境には、数多くの関所がある。
范増が、劉邦の反乱を警戒して設置したものである。
あちこちの要害に配置された部隊が、日夜怠らずに外敵の侵入に目を光らせている。
この関所が、内から出奔しようとする韓信にとっても壁となって立ちふさがった。
韓信が安平関という関所まで来ると、案の定、防衛部隊の兵士が、韓信の行く手を阻んだ。
「お待ちなさい! 貴公、どこへお行きなさる?」
「ん」
韓信は、陳平から貰った批文(通行許可証)を出して番兵に見せた。
番兵は、批文を見ると、関を守る大将を呼んできた。
大将は批文を確認して言う。
「なるほど、確かに批文はお持ちですな。
しかし韓信殿、ただ一騎でお越しとは、一体どういうわけで?」
韓信は、悪びれる素振りさえなく、平然と嘘をついた。
「覇王様の命令で、三秦に密命を伝えに行くところなのだ。それで、夜を日に継いで馬を走らせてきたのだ。
もうよいな? 私は行くぞ」
韓信は、やや強引に馬を進ませた。
関の大将は、戸惑った。
従者も連れない一人旅というのは、変といえば変だ。だが正規の批文は持っているし、何より、覇王の命令を邪魔すると後が怖い……
結局、関の大将は、関門を開くよう兵に命じ、韓信の通行を許したのだった。
*
一方そのころ。
咸陽の陣門の門番が、ようやく韓信の言動を怪しみだした。
韓信は「明日には帰る」と言って出ていった。しかし、それから数日が経とうというのに、まだ韓信は家に帰ってこない。
これは何かおかしいのではないか? そう訝しんだ門番は、范増の元へ報告を持って行った。
「事の起こりは、今から1ヶ月ほど前のこと。
ある夜、怪しい人物が訪ねてきたのです。その人物は韓信の家に泊まり、何か小声でずっと話しこんでおりました。
その次の日から、韓信は旅行の用意をし始めました。
そして、つい最近、韓信が「友人に会いに行く」と言い残して、ただ一騎で城を出て、西の方へ走っていきました。
それから4日も経つというのに、まだ韓信は戻ってきません。ひょっとしたら、我が軍から逃走したのではないかと……」
この報告を聞くや、范増は顔色を変えた。
「いかん!
だから以前、覇王に言ったのだ。『韓信を重用しなさい。もし使う気がないのなら、早く殺してしまいなさい』と。
どちらも実行しないままグズグズしているから、ついに韓信が逃げ去ってしまった。
漢王劉邦に仕えるために漢中へ向かったに違いない。
ええい……また私の心中に大病が増えた!
すぐに追いかけて捕らえなければ、安心して夜も寝られぬわ」
范増は、すぐに項羽に謁見して、このことを報告した。
項羽は怒った。
「韓信だと! あの臆病者! なんで俺に背いたんだ!」
范増が言う。
「私が、しきりに推薦したでしょう。韓信は極めて大きな才覚の持ち主です。
しかし覇王陛下は韓信を用いなかった。それゆえ、とうとう彼は逃げたのです。
韓信は、漢王劉邦に仕えるつもりでしょう。いつか奴は覇王陛下に大きな災いをもたらしますぞ」
項羽は、急いで鍾離昧を呼び、こう命じた。
「鍾離昧、お前は200騎ほど連れて、韓信の後を追え!
関所の批文が無ければ、そう簡単には道を通れまい。韓信は足止めされているはずだ。
いいか、必ず奴を生け捕りにして来るんだ。
俺が、この手で韓信を1寸刻みに切り刻み、俺を裏切ろうとする奴らへの見せしめにしてやる!」
*
鍾離昧は、飛ぶように部隊を走らせ、安平関にやってきた。
門番の大将に尋ねてみると、大将が答える。
「ああ、韓信ですか? 来ましたよ。
関所の批文を持ってきて、『覇王様の密命を三秦に伝えに行く』と言っておりました。
正規の批文でしたし、言うことに怪しい所もないので、通してしまったのですが……何か問題がありましたか?」
鍾離昧が事情を話して聞かせると、関の大将は青ざめた。
「韓信がここを通ったのは、もう4日も前のことです。
今頃は、漢との国境を越えてしまっているのではないでしょうか?
おそらく、今から追っても、追いつけまいと思われます。
ここは、章邯ら三秦王に事態を報告して、追手を出させてはいかがでしょう?
漢中への桟道は焼き捨てられていますから、韓信も、桟道の手前で足止めを食っているはずです」
鍾離昧は、
「なるほど、そうだな」
と、うなずいて、三秦宛てに手紙を書き、使者に持たせて送った。
*
鍾離昧は、それ以上どうすることもできず、そのまま咸陽へ帰って、事の次第を項羽に報告した。
項羽は、また激怒する……かに思われたが、意外にも、大して気にする様子もなしに笑って許した。
「そうか。もう遠くへ逃げ去った後だったんなら、今さらどうにもならんな。
まあいい、まあいい。あんな股くぐり野郎、ほっといたって大したことはできやしないさ」
出発前あれほど激怒して「自分の手で切り刻んでやる」とまで言っていた項羽が、不自然なほどに心変わりしている。その理由は、ひどく単純であった。
項羽が、上機嫌に言う。
「それより、いよいよ遷都だぞ。鍾離昧、お前も、すぐに出発できるよう準備しとけ」
つまるところ、故郷への凱旋にワクワクと胸を弾ませる気持ちのほうが、怒りよりも遥かに勝っていたのだ。
数日後。ついに遷都の準備は完了した。
項羽は、呂臣・樅公という2人の大将を残して咸陽の防衛を任せ、他の官僚たちを皆引き連れて、彭城へ意気揚々と出発したのだった。
(つづく)
■次回予告■
我が身ひとつで漢中入りした奇才韓信。張良から託された割符によって、たちまち大元帥に昇りつめる……かと思いきや、思いもよらぬ回り道。
己の才覚への自負からか、はたまた先を見据えた深謀遠慮か、せっかくの推薦を蹴り捨てて、正規の任官試験に身を投じる。この選択、吉と出るか、凶と出るか?
次回「龍虎戦記」第二十七回
『一次面接、夏侯嬰』
乞う、ご期待!